オッドアイの少女

朝、目が覚めると頬に違和感があった。

指先で触れてみると、微かに濡れていてそれが何かをすぐに悟った。

涙を流したのは、あの日以来だ。蘭月が……殺月が死んだあの日以来。

でも、死んでなどいなかった。確かに昨日、僕は再会した。僕の親友である彼と。

変わり果て、敵になってしまった殺月と。


寝起きで乾いた喉で、僕は昨日を思い出しながら小さく呟く。

「……蘭月。」

もうその名前を、彼に向けて呼ぶことは出来ない。

そう頭で理解していても、心の何処かでそれを否定したいと思ってしまう。

まだ、彼の温もりに縋っていたい。そんな甘えた考えが脳裏を一瞬だけよぎった。


そしてすぐに気付く。僕はずっとこのままで良いのだろうか。

紫蘭や胡蝶蘭さんは、悲しみの中から這い上がる力を持ってる。

殺月は新しい名前と共に、新しい人生を進もうとしている。


——なら、僕は?


僕だけがレールの上に取り残されている。

皆はあんなに遠くまで走っていけるというのに。

僕は本当に、このまま何もしないで良いのだろうか。

自分自身に答えが出ないまま、僕は朝日を浴びた。

夏の到来を告げる蝉の音が、痛いくらいに耳にひびく。

上手く働かない頭で、答えを必死に考える。


……今は、今の僕が出来ることを探すしかない。


そんな曖昧な答えで、僕は自分の心を誤魔化した。

そして僕はその日から毎日の様にあの館へと足を運ぶ事になった。






「こんばんは。」

昔の様に、握るドアノブが手に馴染んできた。

扉を開ける度に鼻を突き抜けるこの匂いにも。

そして……

「こんばんは、蘭月。調子はどうですか? 」

この人の胡散臭い笑顔にも。

殺月に出会ってから数週間が経ち、僕は紫蘭の店に足繁く通う事が日課になっていた。


僕は『言霊使い』としての力を使い、邪の者達と戦っている。

言霊使いというのは、文字通り言葉を使って敵と戦う力だ。

言葉には魂が宿っていて、言霊使いはそれを操ることが出来る。とはいえ、元々この力は僕のものではないのだけれど。

殺月が死んだあの日、僕にこの力が宿ったのだ。

正確には死んだと思っていた僕の親友に、だけど。



殺月と再会したあの日の事を、僕は紫蘭達に話せないでいた。

話してしまえば、本当に彼が僕達の敵になってしまいそうで、話すのに躊躇してしまう。

いつも通りに笑う紫蘭が、今の僕にはとても有難かった。


「……さて、蘭月。本日もお客様がいらっしゃったようですよ。」

目を細めてニヤリと笑う紫蘭を横目で見ていると、扉の軋む音がゆっくりと部屋に響いた。

紫蘭の後につられて玄関に向かうと、そこにはブレザー服を着た女の子が立っている。

一目で目に付いたのは、その身長だった。百七十センチを優に超える身体は、女の子ながらに迫力がある。

右目を眼帯で隠している彼女は、紫蘭を見ると「あのー」と、不信げに尋ねた。

すると紫蘭は優しげに笑い、彼女の警戒心を解こうとする。


「いらっしゃいませ。さあ、どうぞこちらに。」


険しい表情のまま、ブレザー服の彼女は紫蘭の背中を追う。

歩くたびに、オレンジ色に照らされたツインテールが揺れて、僕はその姿に見とれてしまう。

二人の後ろで少し距離をとりながら、僕も歩き始めた。

紫蘭が案内したのは、この館の中で一番広い応接室。

人一人が簡単に寝られてしまう程大きな丸いテーブルに、椅子が二つ。テーブルを挟んで紫蘭の正面に座った少女に、僕は冷たいお茶を差し出した。

同い年くらいの彼女は、僕を見て「ありがとうございます」と丁寧にお礼をしてくれる。


僕は何も言わず、会釈だけしてから紫蘭の後ろに回った。

紫蘭はコホン、とわざとらしい咳払いをしてからにこやかに少女を見る。


「それで、貴方の願いは何ですか? 」


少女は二重の大きな瞳を見開いて首を傾げた。

静まり返った部屋の中で、僕は「バカ紫蘭」と心の中で呟く。

紫蘭の奴、まだ何の説明もしてないだろ。

それに本人も気付いたようで、「ああ。」と一人で納得していた。

さっきの発言をまるで無かったかの様に仕切り直して、少女に説明をする。


「私はこの館の主人、紫蘭と申します。ここは願いの叶う館。この館に足を踏み入れる者には、それだけの願いがある。つまり、貴方にも何か大きな願いがあると言うわけです。私達はその願いを必ず叶えて差し上げます。」


こういうの、新手の宗教勧誘って思われてそうだな、と思ってしまった。実際、僕も最初は信じていなかったし。

少女は半信半疑のままに、俯きながら口を開けた。


「わ、私は鈴菜です。私、小さい頃からその…!友達が居なくて。あ、なんかすみません。急にこんな話をして……。でも!それもこれも、この目のせいなんです。だから・・・・・・私からこの目を奪って下さい! 私、普通の人間になりたいんです! 」


『この目』……?

僕がその言葉に違和感を持つと、彼女はゆっくりと眼帯に手をかけてその瞳を紫蘭に見せた。

『それ』を見た瞬間、僕は彼女の瞳に吸い込まれそうになる。あまりにも美しく輝く瞳が宝石のようで、本当に人間の目なのかと疑いたくなった。


彼女の左目は黄金に輝く琥珀色。それに対して隠されていた右目は、深い血の様な暗褐色。

鈴菜さんは正真正銘、オッドアイの持ち主だった。


この世界にごく稀に存在するするオッドアイの人間。書物とか伝承とかではよく目にするけれど、実際に出会ったのは初めてだ。

それは紫蘭と同じだったらしく、少し身を乗り出してまじまじと鈴菜さんの目を見ていた。

興味深そうに「ほぅ。」と声を漏らしては、若干楽しげに頬を緩ませる。目の瞳孔が動いている紫蘭を見るのは久しぶりだった。

そんな彼を数十秒見た後、紫蘭は姿勢を元に戻してから鈴菜さんに質問した。

「なるほど、良く分かりました。確かにオッドアイはとても珍しく、人々には理解されにくいでしょう。しかし、オッドアイは瞳の色が左右別なだけではなく、そのどちらかに特別な力が宿ると言われています。けれど、鈴菜さんの場合、どちらの瞳も人間離れした輝きを持っている。つまり……」

その続きを言うように鈴菜さんに促すと、彼女はコクリと一回頷いてから、口を開いた。



「右目は全てを見通す力を。左目は全てを記憶する力を。それぞれ宿しているんです。」



鈴菜さんの発言を聞いて、紫蘭は少しだけ黙り込んだ。顎に手を当てて、テーブルを一点に見つめている。

「千里眼と完全記憶能力……。」

そう呟く紫蘭に、鈴菜さんは心配そうに問いかけた。

「あの、何か悪い事でもあるんですか……? 」

僕は何も言わずに紫蘭の後頭部を見る。そこから見え隠れする紫蘭の表情は、心做しかいつもより嬉しそうだった。

「いえ、むしろこの世界では片手で数えられる程稀な存在です。鈴菜さんという存在だけで、世界のありとあらゆる財が手に入るでしょう。」

「ありとあらゆる……財……。」

紫蘭の言葉を復唱するように鈴菜さんは呟く。

驚きと困惑を隠せない鈴菜さんの表情とは裏腹に、紫蘭は何かを企んでいる笑みを浮かべている。

こういう顔をする時は、大抵紫蘭の思惑通りに事が進んでしまうのだ。


紫蘭はゆっくりと腰を上げて、鈴菜さんの方へと回り込む。そして鈴菜さんの両手を握りながら、ある頼み事をした。

「鈴菜さん。私達は先程も申した通り、貴方の願いを叶えるのが仕事です。しかし残念ながらこれから用事が入っておりまして……。そこでものは相談なのですが、その用事を鈴菜さんにお手伝い願いたいのです。そうすれば、より早く鈴菜さんの願いを叶える事が出来ると思いますし……。どうでしょうか? 」

言葉巧みに人を操るのは、紫蘭の十八番だ。


紫蘭は、僕や鈴菜さんとは違って特別力を持っている訳では無い。

少し邪を見る能力があるからと言って、それだけこの店を営もうとは思わないだろう。

力無き者が力有る者に壊されるのは、至極真っ当な話だ。ならどうして紫蘭が十年もの間、この店の店主として居られたのか。

それは紫蘭が十年以上、努力を惜しまなかったから。

力が無いなら知恵を。能力で操れないなら言葉で操る。

そうして彼は人一倍努力を積み重ねてきた。けれどそれを一度たりとも誰かに自慢した事はない。

紫蘭にとって努力をするというのは、誰かを守る事だから。

そんな紫蘭だからこそ、この店を守り続ける事が出来たのだ。

紫蘭の事は何も知らない。でも……。彼が誰よりも優しい人間だということを僕は知ってしまった。

胡散臭い笑顔だって、彼なりの優しさなんだ。


鈴菜さんは少し悩んだ後、紫蘭の瞳を見た。

吸い込まれそうなほどに輝きを放つ鈴菜さんの瞳。

心までも見透かされそうで、目を伏せたくなるはずなのに、紫蘭は決して目を逸らさなかった。

そして、鈴菜さんはコクリと首を縦に振る。


「……分かりました。それで私の願いが叶うのなら。」


紫蘭は笑顔を崩さず「ありがとうございます」と鈴菜さんから手を離す。

それから僕達は、再び玄関へと足を動かした。

大きな扉が軋む音を立てながらゆっくり開いていく。

その先にあるのは、果たして誰が願った光景なのかは、誰も知らないままだった。

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