貴方はだあれ

——昔の記憶が鮮明に蘇る。


「僕と親友になろう!」


一人きりで生きてきた僕に、初めて手を差し伸べてくれたその人は、よく歯並びのいい白い歯を見せて笑う人だった。

僕に喜びをくれて、温もりをくれて、生き方を教えてくれて、全てを与えてくれて。

そんな彼からの初めての贈り物は名前だった。呼び名の無い、ただの化け物だった僕を人間にしてくれたのは、間違いなく彼だった。


「——それなら名前を付けよう。君にピッタリな名前を思い付いたんだ。それはね……」


その瞬間、僕の人生は始まった。今はもう、随分と色褪せてしまっているかもしれないけれど、それでも大切に心の中にしまっている。

君が僕の全てだった。初めての友達で初めての家族で、初めての親友で。

だからきっと、僕は永遠に君の親友でいるよ。例えどんなに遠く離れた存在になったとしても。

君も同じ気持ちだろう?


……ねぇ、蘭月。









七ヶ月ぶりに見た親友の姿は変わり果てていた。

それでも彼が僕の親友だという事に変わりは無い。

なのに彼が新しく口にした名前は、紫蘭達が言っていた敵の名前だった。

真っ白な月の明かりで、彼の青い瞳が宝石みたいに輝く。ブルーサファイアの様なその輝きは、奥の方が暗い闇に染まっていた。

青白い肌は、骨がくっきりと分かるほどにやせ細っている。

それに、もうすぐで夏になるというのにも関わらず、長袖のジャンパーを羽織っている事にも違和感があった。

「……な、んで……。」

少しの沈黙の後、状況を読み込めず目を見開いている僕を見て、彼は声を出して笑った。


「あはは、ごめんよ蘭月。君を困らせたかった訳じゃあないんだ。ただもう一度君に会えたのが嬉しくてね。」


その話し方も、その穏やかな声色も。僕の知る蘭月そのものだった。

纏う空気は柔らかくて、僕の心に安らぎをくれる。目の前にいるのは確かに僕の知る親友そのものだ。ただ一つ、明確に違う点があるとすればそれは今の彼が、敵なのか味方なのか分からないという点だ。

聞き間違いなどでは無く、彼は自分を『殺月』と名乗った。けれど、あんなに優しい彼が紫蘭達の敵に回るはずない。

半信半疑のまま、僕は恐る恐る目の前にいる親友に問いただした。


「君は蘭月だよね? どうして『殺月』なんで言うのさ。だって君は……。」


それを言いかけた途端、僕の背筋は一瞬で凍った。

さっきまでの温厚な笑顔は消え去り、冷たい目で僕を見つめる彼がそこにはいた。

同じ笑顔なのに、今の彼からは温かさが感じられない。瞳に宿る影がより一層濃くなり、彼は口元に手を当ててクスリと微笑んでいる。

「ああ、そうか。君はもう知っているんだね。『殺月』の名前の意味を。大方、紫蘭が命令して胡蝶蘭が調べ上げたところだろう。相も変わらず、紫蘭は手を回すのが早いなあ。昔と何も変わっていないね、そういう頭が異常に冴えるところは。」

昔を懐かしむ様に、口角を上げて話すその姿に僕は何も言えなかった。

「まあ、あの紫蘭なら俺を疑うのも無理はないか。にしたって、一応は元同僚なんだけれどな。」

傍から見れば、そこにいる彼は僕の親友。

七ヶ月も前に死んだと思っていた彼と突然再会するなんて、僕が何度夢見たことか。

……そうだ。僕は確かにずっと思ってきた。もう一度会いたいと。そしてまた前みたいに笑い合いたいと。けれど親友だからこそ分かってしまう事もある。

それは違和感から、やがて確証に変わり、僕と彼の間に目に見えない亀裂が走る。

「蘭月。君は……。」

「違うよ、その名前は捨てたんだ。それに、今は君が蘭月だろう?」

「でもっ……僕は……僕には……。」

嫌だ。そんな風に、君を見たくはない。そんな目で君と離れたくはない。それなのに。

その確証を見て見ぬふりをして、このままやり直せばいい。そう頭では分かっていた。そうすれば、僕の願いは完全に叶う。

「蘭月。さあ、俺の名前を呼んでよ。ずっと会いたかったんだ、君に話したい事も沢山あるんだよ。だから……。」

「……嫌だ……。どうして……。」

割り切れない。認めるのが怖い。だって、そう考えてしまえば、もう後戻りは出来なくなる。

「どうして?……どうして俺が殺の仲間なのかって?それはね、蘭月。」

けれど、そう思う度チラつくのは、紫蘭や胡蝶蘭さんの事だった。

僕は、あの二人を裏切る様な事は出来ない。

だからこそ、僕は今目の前の現実から目を逸らすことは出来なかった。


「——俺はこの世界が大嫌いだからさ。」


——この人は、僕達の敵なんだ。



それを悟ってしまった瞬間、僕は彼をもうあの名で呼ぶことは出来なくなった。もしもあの名前で呼べば、それは紫蘭達の信頼を失いそうで怖かったから。

「そんなに怯えないでくれ、蘭月。言っただろう?君を怖がらせたいわけじゃないんだ。」

柔らかい目元で笑う彼と、僕はこれからどんな風に話せばいいんだろうか。

握る拳に力が入る。待ちわびた再会なのに、こんなにも身構えてしまうのは、彼がもう蘭月では無いから。

そして、彼は……殺月はゆっくりと僕に右手を差し出した。

そして僕が大好きだったその声で、優しく誘おうとする。


「俺はね、蘭月。君を攫いに来たんだよ。——俺と一緒に来てくれないか? 」


息をするのも忘れてしまいそうになる。

それは殺月の手が、悪魔の手に見えてしまったから。

大好きだったはずの笑顔が、今は物凄く怖く感じて、足が動かない。

何か答えなくちゃと思っても、喉が乾いて声が出せない。

「……っ。」

何も出来ずにただ立ち尽くすだけの僕に、殺月は手を下ろし、「冗談だよ」と嬉しそうに笑った。

「今日はただ、君に会いに来ただけだよ。俺だって、蘭月の想いを尊重したいからね。無理に連れて行くなんて事はしないよ。」

心臓の音がうるさく鳴り響き、僕の思考は正常ではなくなっていく。

僕に背を向けながら「じゃあね」と微笑む殺月を見て、僕はただ何かを言わなくちゃいけないと思った。

このまま別れてしまったら、何かが確実に変わってしまう。

もう、あの頃の僕と彼の関係には戻れなくなる。

頭と身体が同じように動かないのは、それ程までに彼という存在が恐ろしく思えたから。


殺月は一歩を踏み出して、そのまま振り返る事無く夜の影に溶け込んでいった。

何も言えず、何も出来ず、あの日と何も変わらない自分自身に僕はただ腹が立った。

結局何も変わっていないじゃないか。

ただ無力で無価値で、僕がいても何も出来ない。弱いままの僕。

今の僕がいるのだって、彼のおかげだというのに。


彼のいなくなった夜道に、僕は一人立っていた。

そこに残る、彼の微かな気配を感じ取りながら僕はただ、悔しくて悲しくて唇を噛み締めることしか出来なかった。



変わってしまった親友と、変わらない自分。

どうやっても埋まらない溝は、僕に現実を叩き付ける。

——僕は何故、此処にいるのだろう。


それに打ちひしがれ、それでも僕は膝を折る事無く、足を前に踏み出した。

それが、答えを導き出す最初の一歩になると信じて。

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