1章 殺月襲来篇

願いを叶える館

——夜を待つのは少し嫌いだ。



この少しだけ冷たくなる空気が、肌に触れてヒリヒリと痛む。


「やあ、久方ぶりですね。」


そう僕に笑いかける顔はどこか胡散臭く、瞳の奥にはちいさな闇を飼っている。


夜は闇。闇は人を惑わす。冷たく包み込んで何かを確実に変えてしまう。それは感情か、関係か。記憶かもしてない。


もしくは……


人間そのものだったりして。



「別に来たくて来たわけじゃない。」


ため息は僕のあの人に対する感情を吐き出す。目の前にいる、その人への黒い感情。


猫かぶりな笑顔を崩す事無く、その人は僕に近づいてくる。

日本には合わないチャンパオの服はいつ見ても違和感を感じた。いつも部屋に閉じこもっているせいか、肌は真っ白な雪のようで、傷んでいないサラサラの黒髪なのもあってより一層不気味に思う。

僕よりは年上とは言ってもそこまで年寄りなわけでもないのに背中で手を組んでいる姿が、何故かしっくりきた。


「僕はこいつに頼まれてここに来ただけだ。」


その笑みを見るのが、その瞳と目が合うのが嫌で足元に視線を落とす。

そこには丸い物体がいた。真っ黒な毛に赤い首輪をした猫。

瞳の色が黄色がかっているからか、少し妖怪じみている。「にゃー」となく姿は他所の猫よりも可愛げがあった。

首を動かすと鈴がチリンと鳴る。これでおじいちゃんなのが不思議なくらいに愛らしい。

「ああ、私が頼みましたからね。ありがとうリー。」

しゃがみこんで猫の顎の裏を人差し指で優しく撫でた。猫の「リー」はご機嫌そうな顔でまた、「にゃー」と鳴く。

リーを抱き抱えながら腰を上げ、再び僕の顔を見る。


「それから、蘭月。まだ自分の事を僕なんて言っているのですか? 私はあまり好まないなぁ。」

リーの頭を優しく撫でながらいつもの様に笑う。言い返すことはできたけれど、この部屋に充満する匂いがその気をなくす。

タバコと、線香と、それからあの人の匂い。混ざり合って僕に色々な思い出を魅せる。

「それを言うなら僕を『蘭月』なんて呼ばないで、紫蘭。」

その呼び名は僕に向けての名前じゃないから。

そう心の中で唱えながら僕は紫蘭から目を逸らす。

僕にとって『蘭月』の名は鎖のようなものだ。その名前で僕を呼ぶたびにあの時を思い出す。

脳裏に焼き付いて離れないあの日の光景は、随分と経った今でも尚、僕の足枷になっていた。

でも過去は二度と変えられない。僕の犯した罪もあの人の事も、全部……。

「とは言われましても、今は貴方が蘭月なのですよ。少なくとも私や胡蝶蘭はそう思っています。」

にこやかに僕を肯定する発言は、果たして彼の本心なのだろうか。

探りたくても、彼の笑顔がそれを無言で拒んでいる。

優しくてでもどこか冷たい、そんな雰囲気で僕を包む。

どこか辛気臭い感じになっていると、紫蘭は「んー」と唸り始めた。

顔をあげて紫蘭の方を見ると、指を顎に当てて僕の体をじっと見つめていた。

「しかし……蘭月。貴方は女の子なのですからもう少し可愛らしい服装はなかったのですか?短パンなんて、男子小学生みたいな……。色気とまではいかなくとも、もう少し気品のある洋服にしたらいいじゃないですか。」

「だって紫蘭が僕を呼ぶってことは動きやすい服の方がいいかなって思ったし! それに男子小学生の他にも短パン履いてる人なんて沢山いるし!それなあんまりスカートとか持ってないし……。」

最後の方は自分でも少し恥ずかしくなって声が小さくなっていた。

元々分かってはいたけど僕は女の子らしい部分って少ないのだと思い知らされる。


確かに今日の服装は、半袖のパーカーに、ベージュ色の短パン。髪だって、下ろしてやっと肩につくくらいだ。

体つきだって、そこまで女性らしいとは言えない。

女の子っぽさに欠けているのは自分でも理解できる。

——にしても小学生は言い過ぎだけど。

むすっと、心の中で不貞腐れているとそれを見た紫蘭の柔らかな目元にシワができていた。

くすくすと笑った後に紫蘭の声色が変わる。目つきもどことなく鋭くなったような。


今さっきまでとは違い、空気がピリつく。そして紫蘭は一息置いてから話を始めた。

「実は今日の仕事は胡蝶蘭に任せようと思っていたのですが、生憎と別の用事が入ってしまいましてね。そこで蘭月にお願いしようと思ったのです。もしかして何か用事などありましたか? 」

本題に入ったのだと分かると僕の気も引き締まる。

仕事、ということはやっぱり『あれ』を使わなくちゃいけないのか……。

内心、何となくは察していたけれど、改めて言われると少しだけ気持ちが沈む。

少しばかり憂鬱な気分になりながら、返信の代わりに首を横に振ると「なら、良かったです」と和らげな表情を見せた。そしてまたじっと僕を見ると話を続ける。

「さて。本日の仕事ですが、昨日お客様が参りました。そのお客様からの依頼です。内容は——」


そう。ここはお客さんからの依頼を叶える店。でも普通の店とは違う。

ここは夜にしか現れない不思議な店。そしてこの店に訪れる客達にはある共通点がある。それは……。


「どうやらそのお客様は毎晩夜遅くの帰り道に、何かの気配を感じる様です。ずっと後をつけられ、じっと見られているような・・・・・・けれど振り返っても誰もいない。だから我々にその気配の正体を突き詰めて、あわよくばどうにかして欲しいと。」


見えない気配というのに僕は何となく思い当たる。それは僕達には切っても切り離せない者。

僕達がそれの正体を悟るのに、そう時間は要さなかった。

紫蘭は僕の瞳を覗き込む様に目を合わせてから、コクリと一回頷いた。


「ええ、蘭月。貴方の考えている通りです。その正体は……」


人には見えず、けれど身近にいる。


「——悪魔。」


誰しも生きていれば一度は耳にするのではないだろうか。

妖怪。幽霊。悪魔。

それらはずっと物語上の架空の存在だと言われ続けてきた。しかして、それらは実在する。

あるものはそれらをまとめて『邪』と呼んだ。

僕や紫蘭達はその『邪』が見えるのだ。

そしてここは邪に関係する悩みを持ったもの達が誘われる場所。

紫蘭はその悩みを解決する、いわばその道の専門家なのだ。


「悪魔……。」

宗教などで悪の象徴として表されるもの。黒い角。漆黒の羽。そんな人とはかけ離れた異形の姿を持つもの。

世間一般で持たれているイメージはそんなところだろう。でも本当はそこまで怖いものではない。ならどうして悪魔にそんなに悪いイメージが着いたのか。

紫蘭はそれを一つ一つ教えてくれた。

「邪のものは元々そこまで凶暴なものではないのです。この世ではない場所ならとても温厚で優しい者達が多いです。しかしこの現代においてはそうともいきません。」


紫蘭は目を細めて息を吸った。

その表情は何処か切なげで、そして少しだけ悪に染まった顔。それはきっと、彼が『邪』と『人間』どちらの本質も理解してしまっているからなのだろう。

「彼らが何故人を惑わせるのか。それは、人間が原因なのです。人間の醜い心。怒り、妬み、嫉み、悲しみ、苦しみ、恐怖。そういった負の感情の瘴気に当てられて邪のもの達は凶暴化してしまうのです。」

僕に説明するように紫蘭は話す。

僕自身も、その話を心に受け止めるように聞いていた。

そうだ。僕の役目はそんな邪のもの達をあるべき道まで連れていくことだ。


——あいつに変わって。


こういう話の時、僕はどうしようもなくあの人を思い浮かべる。けれどその思い出は僕の心を重くさせてしまう。

俯いたまま黙り込む僕に、紫蘭の柔らかな目線が突き刺さる。

紫蘭は顔色の曇った僕の事を気にしてなのか、雰囲気を変えてくれた。

「それじゃあ、行きますか。」

リーを下ろして服を叩く。この時期は毛の生え変わり時期だから、抜け毛が紫蘭の服についていた。


紫蘭が歩き出して僕を通り過ぎると、僕もくるりと体を動かして紫蘭の後について歩いた。

ギーという重そうなドアの音を耳にしながら僕は外に足を出す。

中国の昔話に出てきそうな大きい館の外は、人が行き交っていた。空の暗闇を照らすように輝く街灯は、色とりどりで宝石のようだ。

生暖かい風を体で感じながら、紫蘭の後を歩く。

賑わう夜の街は僕よりも年上夜の人達が、楽しそうに笑い合う。

お酒の匂いと、タバコの匂い。それから香水のような独特な匂いが混じりあって、この街にしか嗅ぐことのできない香りを放っていた。

数分ほど歩くと、店が立ち並ぶ通りを抜けて人気のない道に入る。

段々と街灯の数も減っていき、周りの建物も日本家屋のようなものが増えてきた。


「さぁ、着きましたよ。」


紫蘭の大きな背中から顔を覗かせると、そこにはただの道があった。

普通の人間なら、何も無いと思うだろう。けれど僕達は違う。気付いていたのだ。そこに『何か』が居ることを。

「それではお願いしますね、蘭月。」

紫蘭よりも二歩程前に出て、ゆっくりと息を吸い込む。

大丈夫、今の僕にできることをしよう。

頭の中で、僕の大切な人の面影を浮かべながら、僕はゆっくりと瞳を開けた。

右手を前に突き出し、左手は胸に当てる。

少しだけ鼓動が速くなったのを感じ、僕は大きな声で叫んだ。


「言《ゴン》の中に眠る魂よ。今我の力のもと、真の姿を表わせ!

我が名においてその封印を解く! 」


右手が青白い光に包まれる。冷たい冷気のようなものが、肌に当たってすっと体温が下がった。

そして僕は続けるように声をあげた。

「姿なきものよ、今我の前に姿を表せ! 真《シン》! 」

そう叫んだ途端、僕の前に煙が立つ。僕の視界は煙に遮られ、行く手を阻まれた。

やがて煙が消えていくと、そこには何かが立っていた。


それは人ならざる者。地面にへばりつき、一つしかない目玉でこちらを凝視する不気味な姿は、一目で人間では無いと悟らせた。

悪魔にも階級があり、こいつみたいに姿が確立されていないものは悪魔の中でも下級の悪魔だ。

強い自我を持っていないから、考え無しに攻撃をしてくる。

分析通り、こちらを向いた途端、悪魔は僕に向かって走ってきた。

僕はそれをしっかりと目で追いながら、もう一度右手を前に出し、早口で叫んだ。

「壁よ、我が前に立ちはだかりて彼の者から我が身を守れ! ヘキ! 」

その瞬間、僕の前に透明な壁ができる。その壁に悪魔は弾かれ、再び地に落ちた。

下級の悪魔ともなれば、少しのダメージだけでも致命傷になる。

僕は悪魔が怯んだ一瞬を見逃さなかった。そしてすぐに次の呪文を口にする。


「道を外れた哀れな者達よ。今我の力のもと、在るべき道へと戻れ! ドウ!」


その言葉を唱えた瞬間、悪魔を白い光が包む。悪魔も悲鳴と共に、その形が段々と小さくなっていく。

その光景を僕と紫蘭はただじっと見ていた。

声にならない悲鳴を叫んでいた悪魔は、やがてその声を無くしてき、僕の任務は終わりを迎えた。


自分の中にあった使命感から解放されて肩を撫で下ろすと、頭の上に変な感触を感じる。

それとあの館の匂い。

「お疲れ様です、蘭月。素晴らしい動きでしたよ。」

ああ、この人の手かと理解する。

普段、こうやって誰かに褒められることが少ない僕にとって、その言葉は照れくさかった。

「べ、別に。これくらいなら……。」

紫蘭の言葉を素直に受け入れられず、変な態度をとってしまう。

紫蘭はそんな僕の姿を見てなのか、僕の頭から手を離して話題を変えてくれた。

「さ、蘭月。お腹が空いたでしょう。どこかで食べてから帰りませんか。」

紫蘭の言葉は相変わらず優しくて、温かいようでどこか冷たい。

そして薄気味悪い笑顔。

やっぱり僕は、この人が苦手だ。でも……僕はこの人の為ならこの力を使ってもいいと、思ってしまった。

「寿司がいい。高いやつ。」

我儘を言ってみると、「そんなお金はありません」と言われた。お母さんみたいと、心の中で愚痴を零しつつ、紫蘭に見られないように口角を上げる。

二人で帰ろうと元きた方を向いた瞬間、前から人影が揺らめく。

その影はみるみるうちに大きくなっていった。

そして夜の静けさに響く男の声。


「らーんーげーつー! 会いたかったぜぇー! 」


紫蘭よりも体の大きい男の人。肌は少し焦げていて、見た目は三十過ぎくらいに見える。まあ、実際は紫蘭と同じ二十六歳だけど。

前方から全力疾走してくるその表情は、満面の笑みだった。

僕はその人の名前を口にすると、その男の人は僕に飛びつこうとしてくる。


「——こ、胡蝶蘭さん? 」

「そうだぜー! お前も俺に会いたかったのかー? 蘭月ー! 」

僕の目の前まで胡蝶蘭さんが近付いてくると、胡蝶蘭さんの顔色が変わる。

さっきまでの笑顔とは違い、真っ青な表情。

胡蝶蘭さんの腹部を見ると、紫蘭の拳が当たっていた。しかもグーで。みぞおちに。


「胡蝶蘭。 君は相変わらずですね。だから蘭月とは会わせたくなかったんですよ。とりあえず早く死んで下さい、変態。」

紫蘭の笑顔は僕に向けて笑う時よりも、明らかに機嫌が悪い。

その瞬間、夜の街に胡蝶蘭さんの悲鳴が響き渡る。


「……いっ……てぇー!!」







この夜を境に、僕はこの人達と再び夜を共にする事になるとは思いもしなかった。

そして夜の暗闇に紛れるように、僕達を見つめる影がある事にも。僕は何も知らなかった。


影はやがてその濃さを増していき、ニヤリと楽しげな声で僕を呼んだ。


「——早く逢いたいよ、蘭月……。」


この時、その声の主に気付いていれば、この話の結末も変わっていたのかもしれない。

僕は月明かりの裏に闇が紛れている事を、知らなかった。

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