(株)カイテック王国の興亡
輝井永澄
(株)カイテック王国の興亡 -1
後世に「封建社会」と言われたこの時代において、その特色とされるのは3つの社会的階層の存在だ。すなわち、「祈る人(聖職者)」、「戦う人(騎士・領主)」、「作る人(農奴)」の3つである。
* * *
「冗談じゃねぇ! 今月の分に全然足りねぇじゃんか!」
香川明也はつい、激昂してデスクを叩いた。目の前に立っている初老の男が肩を縮めて萎縮する。その姿を見て、明也は少し後悔し、少し柔らかい口調になる。
「あー、えっと、ヤマさん。状況はわかってますよね?」
「ええ、ええ……ですが、まぁ、ねぇ……」
明也の父親ほどの年齢のヤマさん――生産部主任の山下がもごもごと口を動かし、卑屈に笑ってみせる。その様子に明也はまた苛立つが、今度はそれを必死に抑えた。感情的な振舞いは、自分の身分にそぐわない。明也はPCを叩き、エクセルの画面を表示した。
「ウチの部門のノルマは5000万円……達成率はまだ20%ちょっと。どうしても今月、あと300万欲しいんですよ」
明也はシートをスクロールし、セルに数字を打ち込んで、グラフを見せようとする。
「……あ、あれ?」
表示されていたリストのセルに「#div/0」が表示された。慌てて直そうとするが、なにが上手くいっていないのかわからない。その様子を、山下が覗き込んだ。
「……ああ、これ、ここが循環参照してますよ、ほら」
横から山下が手を伸ばし、キーボードを叩く。と、画面のリストが正常に戻り、グラフが表示された。
「あ、ああ、どうも……」
エクセルが正常に戻ったことに一瞬ホッとするが、その後にふと、怒りがこみ上げる。
「勝手に触んなよ!」
「……も、申し訳ありません」
山下の汚い指が自分のPCに触れたことが許せなかったのだ。明也はこれ見よがしにティッシュでキーボードを拭き、言う。
「……とにかく、あと300万だ。なんとしても達成してもらわないと困る」
「……ですが、そもそも案件の予算が足りていませんし、それにラインも非効率なままで……なんとかしろと言われても、我々だけでいったいどうすればいいか」
「それを考えるのが仕事だろ!」
明也が強い口調で言うと、山下はそれ以上なにも言わずにその場を引きさがった。
「……生産部門にあんまりきつくあたるもんじゃないよ」
山下がオフィスを出ていったあと、隣のデスクの高橋が声をかけてきた。
「怒鳴りたくもなりますよ。あいつら二言目には不平不満ばっかりだ。そのくせ、様子を見に行けばタバコ吸ってサボってんすよ。生産性もクソもあったもんじゃない。もっとちゃんと考えてやってもらわないと……」
「まぁそんなもんだよ。彼らにしてみれば生活は保障されてるわけだから、楽にやる方が得なわけだからね」
高橋はそう言いながら、手に持ったフリスクを明也に薦めた。明也が身振りでそれを断ると、高橋は自分の手のひらにひと粒、フリスクを出して口の中に放り込んだ。
「予算の中でやり繰りしてる僕ら営業部門とは頭が違うんだ。教養のない連中に頭を使えと怒鳴るよりも、如何にうまく扱うかを考えた方がいいよ」
「……そっすね。だんだんわかってきました」
「香川くん、3年目だったっけ?」
「はい」
明也は入ったばかりのころを思い出した。栄えある営業部門の一員として、採用が決まったときの喜び。部長直々に声を掛けられ、プレゼンの技を鍛えてもらった時のこと、そして、任命式で代表取締役に謁見したときの、身体が打ち震えるような喜び――
だが、実際に働いてみれば、華やかな
「胡麻の油と百姓は絞れば絞るほど出るってね」
腐る明也に高橋は笑う。
「若いから舐められるかもしれないけど……ま、高圧的にやるばかりが絞り方じゃないよ。今度、接待飲み会でも開いてやれば?」
「……考えてみます」
口ではそう言ったが、あの山下のような生産部門の人間たちと酒を酌み交わすというのは、明也の中の誇り高い営業職の血が許さなかった。
* * *
休憩スペースの片隅で、明也は自販機から落ちた缶コーヒーを手にしていた。大きな窓の外から、夕日が差し込んでいる。ここ、(株)カイテックの本社ビルは、その壮麗な外観だけでなく、内装も美しかった。調度品はシンプルだが、こうしたシンプルかつ機能美に溢れたもので統一感を持たせるのにはそれなりの金がかかる。かと思えば、一流の美術品が飾られていたりもする。また、中で働く人間が過ごしやすいように、そしていざオフィスに籠るようなことがあっても働き続けられるように、売店や食堂も充実している。
見栄のためにオフィスに金をかけ過ぎるような経営者は困りものだが、それでも綺麗なオフィスで働くというのは、中で働く社員の自尊心を高めてくれるものだ。明也は改めて、自分の所属するこの会社を誇らしく思っていた。
「……明也くん?」
不意にかけられた声に明也は振り返る。と、そこには華奢な女が立っていた。
「安藤……」
「お疲れさま。休憩中だった?」
「あ、いや……」
同期入社の安藤
「……そっちは?」
「うん、今外の打ち合わせから戻ってきたところ」
「外の打ち合わせ……」
明也は美唯の顔を見る。入社当時に比べて、顔つきが変わってきた感じがする。当初は総務部に配属されていたはずだが、そこから最近異動になっていたはずだ。
「その……どうなの? そっち《・・・》の仕事は」
「そっちって……経営企画室のこと?」
「そう、そこ」
経営企画室は、明也の属する営業部とはまた違う。直接的に利益を上げることを目指すのではなく、より会社の経営に近い部分の仕事をしているはずだ。しかし――それがどんな仕事なのか、明也には今ひとつイメージが湧かなかった。
「うーん、言えないこともあるんだけど……」
美唯は顎に人差し指を当てて少し考える。明也のような営業職にも言えないような内容なのだろうか? と一瞬明也は訝しむ。美唯はそんな明也に答えて言う。
「一番の仕事は……『お祈り』かな」
「……お祈り?」
「そう、お祈り」
今度は内心ではなく、顔全体で訝しんでみせる明也に向かって、美唯は少し誇らしげに説明する。
「まぁ、お祈りってのは先輩たちの言い方なんだけどね……つまり、補助金の申請やら、制度の利用許可やら、そういうのを調べて、当該の政府機関と調整するのよ。その申請を出すのを『お祈り』なんて呼んでるの。気が利いてるよね」
「へぇ……」
「わたしもさ、経営企画室に入ってから知ったんだけど……この国の制度って、けっこう曖昧に作られてるんだよね」
美唯は自販機に歩み寄り、ペットボトルのお茶を買いながら言った。
「曖昧……」
「そう、曖昧。だからどこまでやっていいか、なにをやっちゃいけないかとか、問い合わせないとわかんなかったりするの」
ゴトン、と音を立てて取り出し口に落ちたペットボトルを取り上げるために、少しかがんだ美唯の太ももが目に入り、明也は思わず目を逸らす。
「だから今動いてる営業部の案件なんかも……担当者が変わったとたん、担当者の一存で動かせなくなることもあるんだって」
「マジかよ……そんな災害みたいな話ってある?」
「ねー。だからそれを避けるため、『お祈り』するのがわたしたちだってわけ。感謝しなさいよ?」
「あー……うん、まぁ、はい」
明也が曖昧に頷くのを見て美唯は笑い、ペットボトルのお茶に口をつけた。
「……おおい、美唯ちゃん」
――と、廊下の方から声がした。見ると、背の高い男が顔を出した。
「あ、いたいた。部長が呼んでるよ。今日の打ち合わせのことで」
「あ、すいません田井中さん! 今いきます!」
美唯はそういって明也に向かい、「じゃあね!」とひと言告げて小走りで去っていった。
田井中、と呼ばれた背の高い男も、その後を追おうとして、ふと明也の方に振り返る。
「……君、誰だっけ?」
オールバックに撫でつけた頭に片手を当て、田井中が言うのに明也はムッとなった。誰とはなんだ、誰とは――
「営業部第三部隊の香川です。安藤とは同期で……」
「ああ、
田井中は明也をじろじろと見まわし――そして不意に、顔を寄せた。
「……やめときな。身分違いの恋は辛いぜ?」
「なっ……!?」
明也はうろたえて言葉に詰まる。自分が赤面しているのがわかった。
「だってそうだろう? 美唯ちゃんは
「そんなこと、あんたに関係ないでしょう!」
明也は思わず声を荒げていった。そもそも、こんなオッサンが「美唯ちゃん」なんて呼び方をするのも気に入らなかったのだ。経営企画室だろうとなんだろうと、実際に金を稼いでいるのは自分たち
田井中は首を横に振った。
「これは君のためを思って言ってるんだけどな。だって美唯ちゃんは……」
そこまで言って田井中は、顔を逸らす。
「……総務にいい子がいるよ。今度紹介してあげよう」
そう言って田井中は明也に背を向け、立ち去っていった。
その日の夜、残業を終えた明也は、吊革に捕まってぼうっと考えを巡らせていた。夜9時だというのに、電車はそれなりに混み合っていた。多くは明也と同じく、サラリーマンたちだ。スーツを着た者は
明也はため息をついた。本来であれば自分のような誇り高き
(もっと実績を上げて、上に認められなくては……)
そのためには、直接契約を勝ち取るのが早い。しかし、
同期の
電車の中に子どもの鳴き声が響く。
見れば、ベビーカーを引いた母親らしき女が、泣き叫ぶ赤ん坊を懸命にあやしているところだった。
「……黙らせとけよ」
思わず明也は口の中でそう呟く。これだから公共の乗り合い電車は嫌なのだ。自分たちは気楽に毎日を生きている庶民などとは違う。頭と体を使って庶民を守り、そして仕事を与えるべく、国王から位を授かった
ふと、子どもをあやす母親の顔に、美唯の顔が重なった。
(もっと認められて、もっと上に行けば、階層を超えたりもできるのかな……)
子どもはまだ泣き止まず、泣き声が電車の中に響いていた。
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