三、デッサン

「俺が面倒をみた人間で世に出ていない人間はこの男だけだ」

 田良介は、古い画帳に目を落としながらつぶやいた。画帳の表紙には、くずした字で「杉靖夫」というサインがある。

「世に出ていない奴ならここにも一人いますよ、親爺さん」

 画帳を反対側からのぞき込んだのは長内おさない和明かずあきだった。

「あんたみたいな大金持ちの有名人が何を言うか」

 長内は実業家である。父親から譲り受けた商社の他に美術品の真贋しんがん出自しゅつじを専門に調査する興信所のような会社といくつかの画廊を経営している。美術評論家、鑑定家としても知られ、二十数冊の著作がある。

 良介が援助した画家の一人だったが、二十年前に画筆えふでを捨てた。

「何で裏方うらかたにまわったんだ」

 良介は長内と会う度に、彼が絵をやめた理由をく。

「金儲けのほうが好きだったからですよ」

 長内は何時も簡単に答え、話をらした。

 長内が画筆えふでを捨てた原因は、二十年前の洛堂展にある。とすれば責めを負うべきは自分かもしれない。

 二十年前、田良介は洛堂の展示場で美術評論家や美大教授たちと席を並べ、二人の画家の作品群を見比みくらべていた。

 画廊入口付近に置かれた三十数枚は、全て裸体画だった。暗いトーンだが荒い筆触ひっしょくで極めて動的ダイナミックに描かれている。作者は杉靖夫すぎやすお、二十五歳の家具職人だった。

 もう一人の画家は静物と風景を描いていた。澄んだ色彩が、明るく柔らかな画調をつくっている。画家の名は長内和明、中央の芸大で油絵を専攻していた。杉より四才若い。

 杉靖夫の絵が洛堂のフロアに並べられたのは洛堂展の出品者を決める審査会当日だった。運び込んだのは良介だった。彼が杉靖夫と初めて会い作品をあずかったのも、そのわずか三日前だ。

 美術学校で学んだ経験も画家に師事したことも美術展に出品したこともない。三十数枚の絵を抱えて洛堂を訪れ、一面識もない良介に絵をみてくれと言った。

「天才だ」

 この男の絵を目の前にした誰しもが同じ言葉を口にするだろう。

 爆発するような情想じょうそうをそのまま色彩に変換し人に伝えるわざを、この画家は生まれながらにもっている。これだけの画力を身につけるには常人じょうじんなら五十年はかかる。かなり素養そようのある者でも十年や二十年はかかるだろう。杉が持ってきた絵を全て見て、良介はそうひょうした。

 その年の洛堂展で長内和明をそうとしていた田良介の心は、杉靖夫の出現にり大きく揺らいだ。

 人をきつける力は、長内和明の絵にも勿論もちろんある。描画技術の完成度は杉以上だ。

 長内は静かな世界を描く。だが、音もなく静まりかえったその空間から、人は逆に、画家一人の身に納まりきらないほどの感情のたかぶりを感じとる。

 自分の内的な部分を自在じざいに画布に塗り込む技術を、長内は学んで得ている。

 長内もまた天稟てんぴんに恵まれていた。しかし、彼はそれに頼ろうとしなかった。学者のように観察と実験を繰り返し、理論を得て多くの画法を身につけた。緻密な計算により色彩と空隙くうげきを配置し、観る者の情緒じょうちょたくみにあやつろうとする…それが、長内の絵である。

 杉は本能で描き、長内は理性で描いている。一方は動的で大胆、他方は静的で繊細。彗星すいせいの如く現れた画家と恒星こうせいの如く強い光を放つ画家。あまりに対照的であったため、審査員たちは皆、結論を出しかねていた。

 判定は良介に一任された。

「杉靖夫で、如何いかがでしょうか?」

 長内は小さな画展の選にれたくらいで落胆らくたんする男ではない。さら精進しょうじんするタイプだ。権威ある美術展で幾度いくども入賞し、個展を重ねて、やがて画壇がだんの頂点に立つだろう。無名の杉靖夫を選ぶことこそが洛堂展の主旨しゅしかなうのではないか。

 審査員たちは皆、良介に同意した。

 洛堂展に飾られた杉の作品は全て高額で売れた。その代金と良介の援助を得て、杉はパリに留学する。

 長内は洛堂展で杉の絵を見た後、何故なぜか絵をやめてしまった。芸大も退学している。

 絵を描き続けていれば、今頃彼らは日本の画壇を二分していただろう。天才を二人もつぶしてしまった。良介はやんだ。「二人」とは、長内和明と、そして杉靖夫だ。

 渡仏とぶつして三ヶ月後、杉は突然失踪しっそうした。杉本人だけではない。彼の作品もことごとく行方不明になっている。洛堂展を飾った絵もパリで描いたであろう絵も、現在の持ち主は全くわからない。

「所在が判っているのは、この素描デッサンだけだ」

 良介は画帳を閉じている紐の結びをいた。

本木直之もときなおゆきの『まつりび』を見て吃驚びっくりしましたよ。彼の彫刻のモデルはどう見たって杉さんがモデルにしていたこの女性だ。杉さん日本に戻って今度は彫刻を始めたのか、ってね」

 長内は画帳の絵を見ながら言った。

 画帳には、鉛筆で描かれたヌードデッサンが三十枚ほど挟んである。モデルは全て同じ女性だ。その画帳は良介が渡仏直前の杉から預かったものだった。

「本木直之は何処どこかで杉さんの絵を見たんじゃないだろうか。本人にこうとしたところへモデルが現れた。この女性そっくりのね」

はやしあやという大学生です」

「知っているのか」

「僕は一応興信所こうしんじょの経営者ですよ。もっとも、未だ氏名年齢くらいしか判っていませんが」

「そのアヤって娘は、杉さんのモデルの血縁者かな?」

「そうかも知れません。今うちの所員に調べさせてます」

 杉は自分の絵のモデルについて何も語っていない。杉の失踪後、彼の周辺を当たったがモデルの女性を知る者は一人もいなかった。

「ところで、何故なぜ今になって杉さんのことを調べ始めたんだ」

「今に始まったことじゃありません。二十年前から、僕は彼のことを調べ続けています。もし杉さんが本木直之の彫刻のことを知ったら、きっと連絡してくるだろうと思いまして、此方こちらうかがったわけです」

「杉さんと会ってどうするんだ?」

「ひともうけするんですよ。杉靖夫の絵にご執心しゅうしん蒐集家しゅうしゅうかがいましてね。杉さんの画になら彼はいくらでも金を出します」

「杉さんの絵を買い占めていたのはそいつか」

「そうです。杉靖夫がいた絵は、その画帳以外、全て彼が所有しています」

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