主人 -epilogue-
陽の位置はすでに一番高いところを過ぎていた。
粗末な作りの歪んだガラス窓から長く射し込む陽光は、寝台にまではかろうじて届かなかったが、この熱量だ、届かぬことは幸いであっただろう。
「珍しいことではないが」
宿の主人は、ため息混じりに呟いた。
目の前の寝台に然程の乱れはなかった。
横たわる男の顔色は昨晩同様良くはないか、酷い浮腫が抜け、最初の印象よりはやや若く見えた。
「なかなかにいい顔だ」
だが残念なことだ、そう続けると慣れた手つきで大きな麻袋を床に広げ、よいとこせと腕をまくる。
「一人では骨が折れる」
戦さ場で勇を惜しまぬ者は二通りで、一方は立身の為、故郷の為、家族の為、愛人の為。
しかし他方はただ持て余したその生を捧げる場所を探す為。
命を持って何かを成そうと彼の地に立った者は、その後の事に考えが及ばぬ。
思わぬ余生を得たところで、それをうまく渡る術を掴もうともせぬ。
争いが既に過去のものとなり、平和な御代とはなっているが、それでもまだ珍しいことではない。
大方、この男もそんなうちの一人であろう。
「顔色の悪い幻覚帯びゆえ危ないとは思っておったが。おうおう、欲張ると碌なことがない」
金子の払いの良さに目が眩み、一人訳の分からぬことを話す男を適当にあしらった。
そのつけはなかなかに大きい。
「これは一緒にしてやるのが良かろうが……」
仰向けに横たわる男の胸にはすっかり油分が抜けた髪の一房、それを乱さぬようにそうっと差し込まれた歪に焦げつくべっこうの櫛。
そこに添えられた両の手、その指が、事切れてからしばらく経つだろうに未だ優しく労わるように軽く曲がったままの形を留めている。
「しかし、そこまではまあ、わしの知るところではないわな」
客の一人一人に気を向けていればきりがない。
これでもそこそこ流行りの宿だ。
「さてもこれだけ幸せそうな死に顔など、滅多にお目にかかれぬものよ。やれやれ、こんな女郎宿で一人、一体何を思って死んだのか」
目を閉じた男の遺体は当然答えはしなかった。
ただ代わりにとでもいうかのように、ばさりと風を切る音がして二羽の鳩が窓辺を発った。
主人は逆光に目を細めると小さく息を吐き、まず男の手の中に収まるみずぼらしい髪の束とひしゃげた櫛を一掴みに、雑に麻袋に投げ入れた。
箝西の姫君 麻城すず @suzuasa
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