第5話

検温の報告を終えたユイカは、久しぶりにベランダに目を向けた。

昨日まで降り続いていた雨が、今日はやんでいた。これなら、外に出ても差し支えなさそうだ。

ガラス戸を開けると、湿った空気が流れ込んできた。

不快だ。

それなのに、どこか懐かしいような気もしていた。

(夏だ……)

そうだ、夏だ。

自分の知っている夏は、これだったはずだ。

それなのに、神様はなぜ自分に「違う夏」を与えたのだろう。

ガラス戸の向こうが快適であることを、ユイカは知っている。

室温も湿度も完璧に調えられ、課せられているのは検温と日記だけ。

それなのに、この倦怠感はなんなのだろう。

日に日に頭がぼんやりし、身体の芯が腐っていくような気がする。

あのなかにいれば、じっとりと肌が汗ばむこともないはずなのに。

ふと、斜め向かいの建物に目を向けた。

プールでは、今日も誰かが泳いでいた。

ただ、水面に模様を描いているのはひとつだけだ。先日見かけたときは、それぞれの端にふたつの絵ができていたはずなのに。

物足りない。

ユイカは、目を細めた。

これじゃない。そうじゃない。

誰か、もうひとつ模様を描いてはくれまいか。

誰でもいい。

男子でも女子でも、大人でも子どもでも。


(いっそ、私が……)


こくん、と喉が鳴った。

不快な汗が、こめかみを伝い落ちた。

次の瞬間、ユイカはガラス戸に手をかけていた。

真っ白な床を横切り、履き物に足をつっこみ、玄関の鍵を外す。

勢いよく開けたドアから、生温い風が流れ込んできた。


夏だ。

私の、夏だ。

この扉の先に、私の夏が──


けれども、そこまでだった。

けたたましいアラーム音が、すべてをかき消してしまった。

発信元は、自分の左手首。

その通信機に目を向ける間もなく、複数の大人たちがユイカの目の前に立ちふさがった。

何をしているのか。

どこに行くつもりなのか。

誰の許可を得たのか。

次々と繰り出される詰問のなか、ひときわ耳に残った言葉。


──「神様に逆らうつもりなのか」


ユイカの夏は終わった。

彼女は後ずさり、当然のように大人たちは扉を閉めた。

その直前、同じ年頃の女の子が、向かいの部屋に案内されるのを見た。

「クリウ・モモ、503号室へ」

日に焼けた、同年代の少女──きっと、あの子も閉じ込められてしまうのだろう。

この国の神様が用意した「夏」のなかに。

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神様の箱庭 水野 七緒 @a_mizuno

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