第27話 血の修道女
優護とレオノが庁舎を飛び出してから2分。
山中の木々が所々力任せに圧し折られたようにして出来た小さな広場の中心に、両腕を木の幹へと鎖で結ばれた女が彼らの前に現れた。
修道服に身を包んだ、金髪の美しい若い女だ。
鎖に体重を預けるようにしてぐったりと項垂れ、立ち姿だというのに意識は無いように見える。
――が、しかしそんな拘束よりも更に強烈に、鮮烈に、痛烈に。彼女の醸す異常さを主張する要素がハッキリと存在する。
本来は白く清廉な、ウィンプルと呼称される頭巾は血により
「――ッ!」
「……」
その光景を前に脚を止めた2人がまず考えるのは女性の安否。この量の血液がもし彼女1人から出たものであれば、最早その生存はあり得ない。息を止め、慎重に観察する。
……どうやら、拘束に因る衰弱こそしているが血濡れの修道女は顔色も蒼白という訳でなければ呼吸もしているようである。遠目ではあるが、出血量に見合う外傷も確認できなければ彼女を彩る血の全ては、浴びたと考えるのがしっくり来る付着の仕方であった。
ひとまず安堵する2人だが、しかしこれで眼前の光景について出せる結論は1つとなってしまう。
「……罠、でしょうね」
囁くレオノに少年が静かに頷く。
あの大量の血痕が修道女のものでないとすれば自然、今はこの広場にいない誰かのものである。問題はそれが、誰の手によるものであるかだ。
拘束も衰弱も、全てが修道女による自作自演であり不用意に近づいた者を狙っている可能性。そして監視している何者かが、助けようと無防備に彼女へ近づいた瞬間を絡め獲る可能性。
新手の大権赦官であっても、そうでなくとも。彼らに向けての攻撃であるのならば対処することが出来るが、問題は第三者による攻撃の場合だ。
反撃に出た彼らを見て咄嗟に修道女へと牙を剥く可能性がある。相手の人数も目的もわからない以上、迂闊に飛び込むことは出来ない。
これでもしも彼女が起きているのならば、2人を見た時の反応で――助けを求める声の有無で――判断も出来るのだが、残念ながらそう状況は甘くない。
「それでも見なかったフリは出来ないだろ」
「当然です。私は彼女の保護を優先しますから、周囲の警戒をお願いします」
どうせこの広場まで物凄い勢いで駆けてきた時点で気付かれているのは間違いないのだ。であれば徒らに時間を消費することもないだろう。一度だけ視線を交わすと彼らは同時に駆け出す。レオノは修道女の動きに、優護は周囲の気配に、それぞれ意識を集中させながら。
「……っ。あ……ああっ、ダメ……来ちゃダメぇ!」
瞬間、2人の接近する気配や物音によって覚醒したらしい女が叫ぶ。
同時、広場の茂みから飛び出してくる複数の気配を感じた少年が拳を構えて――
跡形もなく、一つの塵も残さず。
五条優護を残して世界が消失した。
*
暗い。ひたすらに暗く、何も感じない。
視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚。その全てが機能を失い、五条優護はその思考だけが世界に取り残される。ほんの一瞬前までは、確かに謎の襲撃者を迎え撃つべく拳を握りしめていたはずなのに――。
間に合わなかった?スメラルドの、あの緑の管理者が"神"とやらの動きを読み違えていて、世界は滅んでしまったのだろうか?可能性が無いわけではない。現に、レオノの大権を借りようとした所で何の反応も得られない。身体強化と治癒、天運操作の3つの心式は例外となるが、その他の異能を借りようとした場合には基本的に元の持ち主が生存している必要がある。この数秒であの第一位を殺害出来る者がいるとは考え難いが、それも神による世界の終焉なら或いは可能なのかもしれない。
自身の体すら確認できない程の暗闇。痛いほどの無音に無味無臭の空気と、空を切るばかりの手足。世界の終わりとはこんな感じだと、そう言われてもなんとなく納得してしまいそうな状況だ。
……状況なのだが、どうしても少年は自分の意識が残っていることが腑に落ちない。
世界の終わりがどんなものかわからない以上確証は得られないが、それでもこれは何かが違うと、彼はそう思う。世界が消えてからは未だ体感で数秒だが、暗転の直前に修道女は何か言っていなかっただろうか?必死な表情で、優護とレオノへ向けて……。
――来ちゃダメ。
そうだ、確かにそう言っていたのだ。
言葉の意味は考えるまでもなく罠から、襲撃者の魔の手から闖入者たる少年たちを遠ざける為であろう。巻き込むまいとしての発言。であれば、この暗闇は何者かの攻撃を受けた結果なのではないだろうか?奇怪極まる話ではあるが、未だ見ぬ大権赦官の摩訶不思議な異能の力と思えば無理矢理だが得心が行く。
などと。優護がお世辞にも高速とは言い難い速度で頭を回転させてそこまで考え至ると同時、何の前触れもなく五感が正常な機能を取り戻す。その意識の内に世界を取り戻す。
眩しさに歪む視界は赤と黒。鼻につく鉄臭さと靴底の感触から、それが泥と血液であると直感する。口の中に広がる生温く少々の粘性を持つ液体は鉄の味で、咄嗟に吐き出すと拳を構えながら周囲の状況把握を開始する。
息を吹き返したばかりの聴覚では意味までを掴めないが、レオノが数メートルの距離で何事かを叫んでいる。彼が無事ということはやはり何かしらの攻撃を受けた少年を、"希望"の力で打ち消してくれたということだろうか?
「ひっ……あ、ああああっ。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
修道女の怯えた声もまた、レオノの近くから聞こえるがその真意は掴めない。取りあえず彼の近くに居るのなら心配は不要であろうと、優護は接近する気配の方へと意識を向ける。
足音からして四足歩行の獣ではないことに疑いはないのだが、どうも様子がおかしい。息は荒く、足音はワザとじゃないかという程に煩い。何らかの異能によって洗脳され理性を失った人間という可能性もあり得るのだから、先ほどの暗闇といい情報のない異能力者を相手取るのは本当に厄介である。
「死にはしないだろうけど、痛いのはゴメンな……って――おいおい……」
機能不全の視界で捉えた相手を、一先ず制圧するべく弱めの身体強化で迎え撃とうとした優護が更なる変化に気付く。握ろうとした右の拳が、いや。右腕の肩から先と脇腹の一部が無残にも千切れ飛んでいたのだ。
「口の中の血はそういうことか……」
辺りを染める血の正体はどうやら優護由来のものらしい。
あの状況で、あからさまな罠に飛び込んでおいて。数秒意識を失っておいて無傷というのが不自然な話なのだ。加えてあの数秒は外部から異能を借りる事が出来ない状態だった。それは同時に世界からの断絶を意味し、スメラルド曰く"同じ願いを持つ者の数"に比例して強化される少年の心式は、最も効果が薄まっていた数秒でもある。
その状態では身体強化と言ってもコンクリートの壁を破壊すれば手の甲が裂けてしまう程で、故に襲撃者がそれだけの膂力を持つのならば優護の手足を裂くなど造作もないだろう。それは同時にまた、相手が常人ならざる怪力の持ち主だという証明で、少年が反撃をすることへの躊躇いが大きく軽減される結果をもたらすのだが。
右腕が使えず、しかし既にそのつもりで構えてしまった少年はそのまま腰で捻りを加えて上体を襲撃者目掛けて繰り出す。当然ながら殴ることは出来ず、彼の体は勢い余って半回転し――そのまま右足で踏み切り飛び上がると、左の靴底を襲撃者の腹部へと叩き込んだのであった。
ブヨブヨとした感覚に困惑しながらも、ようやく働き始めた眼を以てその場に崩れ落ちた相手を観察する。真っ先に少年が思い浮かべたのはテレストラが生み出す泥人形だ。アメティスト世界で見た暴走状態の彼女は、泥に生命を与えることで自らの手足として使役していた。ヴェスぺグロと少女が呼称する4足の獣型と、アルモニと呼ばれていた泥人形。
しかし目の前のソレからは、少女の泥人形ほどの存在感を感じない。
「優護っ、それは生物ではありません!躊躇わずに破壊を!」
と、これまた復調した耳がレオノからのメッセージを今度はしっかり受け取る。
見れば、彼は彼で複数の泥人形を相手取っている。一度に4体、触れるだけで崩れる相手だが、後方に確認できる影は軽く40から50といったところだろうか。
それは当然広場の中央、木の幹に囚われた修道女を挟んで反対側に位置する優護の側も同様だ。
先ほどの固体の頭を蹴りによって粉砕しながら周囲を確認していく。動きが止まっていた数秒で、危険度はレオノが上と判断されたのだろう。少年のもとへは、正に今。触れるだけで終わりとはいかずとも、蹴りの2発で片が付いたのだ。危険度が高いと判断されたこの瞬間に、わらわらと森の奥から泥人形が姿を表す。
「ごめんなさい、ごめんなさい……私はいいですから。どうか、どうか逃げてください……」
恐らくは優護の腕が飛び腹が抉られる様を見ていたのだろう。
罪悪感に潰され、女は消え入る声で懇願する。
自らが助かる機会を放り捨てて、目の前の見知らぬ他人を優先する。なんとも尊い行いだが、しかし人間その本心までは隠せない。自分に嘘は吐けない。
――誰か、誰か彼らと教会に残してきたあの子たちを助けてください……お願いします。神さま、どうか、どうか……
静かな祈りだった。
諦観に満ち、それでも大切な何かを見捨てられない。どうしようもない状況で、それでも祈らずにはいられないといったような。思わず溢れてしまったと言わんばかりの願い。
「神さま、ね……」
彼女が信仰する対象とは無論違うと知りながら、それでも今回の騒動の裏にいるらしい存在を考えると少年はつい口を開いてしまう。
怪物の群れを前にして、不敵に微笑みながら。
失った右腕と腹の一部を、治癒の心式でグロテスクに再生しながら。
「安心してくれ。神さまじゃないけど、アンタ達のことくらい助けてみせるさ」
治癒に伴う激痛を、脳裏に焼きつくような痛みを押し殺して少年は笑いかけた。
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