第26話 影から一歩
綺麗な人だと、そう思ったのを少女は覚えている。
容貌の話ではない。常に影で覆われているせいでそれについてはわからない。
綺麗なのはその心根だ。
心が疲れてしまった人を包んで癒すなんて、きっと自分では何度やり直したところでそんな大権には選ばれないだろうと、"魔女"に選ばれた彼女は結論付ける。
魔女だなんてものは恐ろしく抽象的だ。共通のルールなど性別しかないのではないだろうか?美しいお姫様に酷い呪いをかける者、哀れな灰被りに全てを覆す機会を与える者、悪魔や悪霊と交わり契る者、奇跡を操る神の使徒、鉤鼻の老女、妖艶な美女、加害者、被害者――キリがない。
「ほらほらっ、ちゃーんと纏まってくださーーーい!!」
次から次へとインズの影から現れる人たちへ、
その光景はどこまでもファンタジーの産物で、傷の大小も症状の軽重も関係ない。パステルカラーの煙に触れた途端にあらゆる傷は痕も残らず、全ての病を消し癒す。
"魔女"の大権はその名の通り魔法を行使する事が可能になるもの。
箒にまたがり空を飛ぶ魔法、杖を振って物を動かす魔法、念じるだけで傷を癒す魔法……と、挙げればこちらもキリがないがそれも当然、魔法とは人の願いの数だけ存在する。
「これは……圧巻というほかないですね。私の"希望"では触れる必要がある以上こうも簡単にはいきませんから、本当に貴女がいてくれてよかった」
「ボ、ボクだってこの一週間の負債を返さないといけないですから。アナタたちと、それからインズさんには感謝してもしきれないです」
レオノの素直な感想に、
もしもインズの献身がなかったらと思うと、それだけで彼女は意識が遠のくような感覚を覚える。
彼女は無辜の民を嬲り害して嗤っていた。その事実はどうしたって消えないが、それでも最後の一線は超えなかった。超えないようにしてくれた。それが今は何より心の救いであり、前を向く力になる。
今になってその傷を治させてくれと言ったところでまともに聞き入れてくれるとは思えないので、魅了と同時に記憶の忘却、ねつ造を施していく。突然のブラックアウトに始まったこの1週間、大変な事もあったが"反転"していない3人の大権赦官と出会ったことで、なんとか乗り切ってこれたという、そんな記憶に改竄する。
それはこの1週間の間に自らが犯した罪の隠蔽と同義である。
発案者は五条優護。今は睡眠をとっている異世界から来た少年だ。千夜の魔法で何が出来るのかを聞いた彼は、安心した様子で記憶の改竄を提案した。
当然、千夜はこの提案に強い抵抗を示す。こんな卑怯なことをせず、赦される如何に関わらずキチンと謝罪をするべきだと、それが筋だと主張する。
「もう全部解決したってんならそれでもイイだろうけどさ、まだそうじゃないだろ?傷を消すなら心のモノと一緒にだ。こんな非日常を集団で生き抜こうってのに、要らないストレスを残すのは致命的じゃないか?」
緊急時における最も避けるべき事態の1つがパニックだ。その原因を生み出しかねない緊張、不安、不満、痛みなどは最小限にとどめるべきで、自らの命を脅かされたような記憶など真っ先に消してしまうべきだろう。
千夜のためではなく、みんなのため。
そう言われてしまっては彼女に他の選択肢はない。
「だ、大丈夫……?な、なな何時間も連続で大権を……あ、あの、もし疲れたなら一度……」
と、優護とのやり取りを思い返し、少々考えこんでいた少女の様子を疲弊と勘違いしたのかインズが不安げに声をかけてくる。
「へ!?あ、全然大丈夫ですっ!全然!……クレアさんだってボクの何倍も頑張ってますし!」
ワタワタと答えると、今は更地となった街にて大権を行使しているだろう友人の姿を思い浮かべる。
クレアソンの"創造"は文字通りあらゆる物を生み出す力。無から有を、瓦礫の荒野に堅牢な街並みを。
大きく力が制限される"反転"状態ですらアポピスのような大蛇を創るのだ。
第13位、その数字は伊達ではない。100%の力を振るえるのならば街1つ創り上げるなど造作もない。
「そ、れ、よ、り!着けてくれたんですね、それ!似合ってます、素敵です!」
それ、と千夜が指したのは桜を象ったヘアコームであった。
インズの影のように黒く長い髪に、淡いピンクのソメイヨシノが優美に映える。
「あっ、えっと……あ、あり、ありがとう……」
照れくささと感激と動揺と。ストレートな褒め言葉にインズがもじもじと体を揺らす。
それは目を覚ました千夜とクレアソンが、「ちゃんとした恩返しは事態が落ち着いてからするとして、それはそうと今すぐ何か恩返しがしたい」と考えた結果であった。
今の彼女は影のベールを纏っていない。
実に8年ぶりにその素顔を外気に晒しているわけなのだが、そのきっかけとなったのは2人が正気であることを確認した救世主の少年が、眠る前に放った一言であった。
「インズさんってさ、せっかく美人さんなのにずっと影で隠してるなんて勿体ないよな」
何気なく、同じ赦官なら流石に素顔を見たことがあるのだろうと投げた少年の問いには誰も反応することが出来なかった。
何せ彼女は大権赦官になってからは一度たりとも人前で影を脱いだことはない。
動揺だけを一堂に与えてさっさと仮眠室へと消えていく優護の背中を、インズがどこか恨めしそうに見つめるが周囲の視線はインズに釘付けである。
「インズさん!もったいないですよずっと隠してるなんて!」
「そうよ、これを機にもっと明るい生活を送りなさいな。だいたい友人にまで顔を見せないなんて寂しいじゃない」
真っ先に口を開く千夜と、それに同調するクレアソン。
こうなってしまっては止まらない。彼女の反論は力なく、5分もすれば折れて影のベールを解除する運びとなるのであった。
影のベールを解いてしまうことで課せられるデメリットとしては"反転"を防いだような不意打ちへの対処が不可能になるという、それなりに致命的なものが存在する。
……するのだが、そんなことが思考から弾かれてしまう程に。イェ・インズにとって彼女たちの言葉と態度は温かったようだ。
もともと自己評価が低かったところへ強大な力を獲得してしまったが故のベール。
常に周囲に怯え、全てを影の奥に呑み込み隠してきた彼女の周りからはいつしか人が離れていった。もちろん影による心のケアを施した相手から一時的に感謝されることは何度もある。あるが、別に他の赦官のように熱心なファンはおろか、共に食事をする友人すらいない。
当然だ。どれだけ感謝をしていても、こんな不気味な影の隣にずっと居たいと思う者はいない。
家族とは自分から疎遠になった。
強大な力を持ち振るう――例えインズが100%の善意と正義で活動をしていても、いつどこで誰から恨みを買うかわからない。それなら素性を特定されるのは絶対にダメだ。自分が苦しむのは許容するが、初老の両親や学生の妹にまで何かが起きるのは絶対に許さない。
顔と体つきを隠す。周囲からは奇異と畏怖の目を向けられた。
『イェ・インズ』という名前を用意する。本当の名前はもう名乗らない。
困っている誰かの為に力を使う。自分の意思は介入させない。
人助けは生来好きであったから、特に困ることはなかった。
一時でも感謝をされるのは気持ちがいいし、特定の相手と深い仲になるのが怖いから一人は気楽だった。人里離れた中国の山奥に一人暮らし、訪れる心の傷ついた人々を癒す日々。
そんな生活を続けて8年。東南アジアの津波被害も、最初は駆け付けるつもりなどなかった。
行ったところで出来るのは、心のケアとせいぜいが影に収納する事での瓦礫の除去。それも、地面に広げた影へ落とす形になるため迂闊に実行しては崩落による2次被害を生みかねない。
そんな彼女があの場にいた理由など、本当にただの気まぐれ以外の何物でもなかった。
そういえば以前に何人かあの国の人を診てあげただとか、その人達の1人から貰ったポストカードの風景が綺麗だったとか、そんなことをふと思い出しただけ。
けれどもその気まぐれが、或いは運命とでも呼ぶべき行動が。
8年変わらなかった彼女の価値観を1秒で変えてしまった。
メディアを通して華々しい大権赦官の活躍は毎日のように目にしていたが、報道とは発信者の意図の有無に寄らずフィルターを掛けてしまう。その人物が実際に自分へ向ける視線や言葉、温度に空気など、人と人が繋がる上で一番大切なことはわかりっこない。
だから彼女は衝撃だったのだ。
本当に全く己の実力を鼻に掛けず、悲劇を殺して笑顔を生み出す存在がいることが。
言ってしまえば一目惚れ。
被災地で活躍する千夜とクレアソンの持つ希望に魅せられた。
であればその2人に望まれて、友人とまで呼んで貰ってそれを拒むなど出来ようはずもない。
地獄のような一週間を過ごしたけれど、影を纏っていた彼女の人生は間違いなく前へと一歩を踏み出した。
*
午前10時。
全ての一般人を千夜が癒し、クレアソンの手で創造・強化され要塞と表現しても過言ではない規模と堅牢さを誇るようになった街へと彼らを送り届けて一息ついた頃。目を覚ました優護がレオノたちの前に姿を表した。
「おはようございます。よく休めましたか?」
「ああ、バッチリと。ありがとな」
市役所庁舎の一室、第三会議室と表札の出ている部屋に入ると、レオノとインズの2人が優護へ視線を向ける。金髪の青年の問いに優護が笑顔で答えると、キョロキョロと辺りを見回し始める。
「あ、あの子たちならもう再建した街の守護に就いているの……街の人達もみんな、貴方の提案通りにしたから特に暴れるようなこともなかったわ」
「おぉ!そっか、そっか!それなら良かった……」
うまいこと事態が進行したことに胸をなでおろす少年の様子に、思わずといった調子で影の様に黒い髪をした女がくすり、と声を漏らす。
「……お?」
「……!あ、あっ、あの、これは違くて!ば、馬鹿にしたとかじゃなく貴方もあの子たちと一緒なんだなって――」
そんな彼女の様子に眉根を寄せる少年と、自らの笑い声が相手の気分を害したのではないかとハッとするインズ。が、しかし優護が次に口にするのは彼女の予想とは大きくかけ離れたものだった。
「あっはは、インズさんってそんな風に笑うんだな。影を脱いでくれてよかった」
「……え?」
少年に他意はない。
ただ純粋な感想を口にしただけではあるが、どうやらインズの方はそうも言ってられないらしい。見る見るうちに顔は赤くなり言葉が続かない。そんな彼女の様子に気付かない優護は更に青年へも「な?」と軽い調子で同意を求める。
「ええ、美しい笑顔というのはただ在るだけで場を華やがせるもの。貴女は自分を過小評価するきらいがあるようです。貴女の笑顔はまた違う誰かを笑顔にしてしまうだけの魅力を持っていると、そう断言しましょう」
「――」
「おお……」
予め文句を考えていたのではないかと、そう疑ってしまう程にスラスラと言葉を紡ぐ第一位を見て少年が1を投げたら100が返ってきたと感心する。肝心のインズは機能停止寸前のロボットのようで、口をパクパクさせて呼吸をするのがやっとだ。これ以上続けばすぐにでも影を被ってしまいそうなその様子を察したレオノが話題を変える。
「おっと、ズケズケと失礼いたしました。それでは私たちもここを出ましょうか。明日までに目的地である上代邸へと辿り着く……道中で何が起こるのかわかりませんし、時間は大切に使わなければ」
「だな。インズさんもそれで問題ないか?」
7月30日。その日までにレオノを連れて来るようにと管理者スメラルドは優護に告げた。
地図を広げて見るに、隣県の上代邸までは直線距離で40キロほど。今の状態の優護とレオノが本気で駆けるのならば1日どころか1時間とかからない距離ではある。
「――ハッ!?わ、わたっ、私は、はい!何も問題ございません!……で、出来ることならお2人とご一緒したいほどで……!」
頬を赤くしたままのインズが我に返ると、ブンブンと手や首を振り全身で意思表示をする。
大権赦官として、世界終焉の原因を取り除く機会に恵まれるのならばぜひとも同行したい。それは以前までの彼女であれば考えられない成長であったが、しかしレオノは許可を出すことは出来なかった。
「フフッ、ありがとうございます。しかしどうしても貴女は新しく出来た街に必要なのです。物が不足すればクレアソンさんが、傷を負った者がいれば千夜さんが対処するでしょう……しかし、非常時における大規模集団のメンタルケアを一手に引き受けることが可能なのは貴女だけなのです」
新しく作られた街では今まで彼女らが回ってきた街の人間――優に100万を超える人々が当面暮らしていくことになる。一元管理が行えるのは良いが、万全の大権赦官を以てしても各々の専門分野に注力しなければ面倒を見続けることは難しい人数だろう。
「はい……それはそう、なのですが……」
「こっちは任せてくれって。だから、そっちを頼む。なに全部片付いたら必ずまた会えるさ」
そう言って笑いかけると、インズは小さく頷き返す。スッと音も無く数歩、会議室に差し込む日差しが作り出した影の中へと彼女は後ずさると、不思議な事にその影へと奥行きが生まれ、彼女は中へ降りていく。
「そ、それでは、どうかお気っ、お気をつけて……」
その言葉に2人が手を振って応える。次の瞬間には彼女の姿は完全に消え、会議室には優護とレオノだけが残された。
「なんでも影の中を自由に行き来出来るのだとか。影から影へ、言葉だけ飛ばすことも出来るそうで何かと応用の効く大権ですね」
「解説さんきゅ。丁度聞こうと思ってた」
「丁度必要かと思っていました。では我々も行きましょうか、優護が眠っている間の話も道中で」
「おう、了解」
庁舎を発ち上代邸を目指す。
時間的、距離的な余裕は充分であるが――果たして、駆け出してから2分後。
彼ら2人の眼前には、血濡れの修道女が立ち塞がっていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます