第25話 涙も叫びも、影の仮面は全てを覆いて

 甲高い声をあげて笑う影の女に共鳴するかのように足元の闇が揺れ、波打ち噴き上がる。

 イェ・インズは反転し絶望の使徒となったはずだ。数えきれないほどの命を奪い、それだけに固執するあまり――少年は知る由もないが――同じく反転しているはずの相手からも異常だとされる程に壊れていたはずだ。


 それがどうした事だろう。

 突然仲間をその影に呑み込んだかと思えば、涙を流して"世界を救ってくれ"と言う。


「ああ。それは元々そのつもりだけど……アンタはいったい何を――」

「わ、わたっ、私……私は!は、反転、してないのっ……!」

「――え?」


 言葉の意味を瞬間的に理解できず、優護は間の抜けた声を漏らす。


「わ、私はいつも影を纏ってるから……!"反転"のあの子が触れたのも、それ……」

「だったら……だったらなんで街の人達を――」

「だ、大丈夫!みんな……みんな生きてる、から……!一人も、死なせてない……!殺させて、ない!」


 今度こそ少年は言葉を失う。声すら漏れない。


 今、目の前の影は何と言ったのか。

 そんなことが本当にあり得るのだろうか?


 影は一度揺れると、そこから男を一人吐き出して見せる。

 男は眠っているようで、意識は無いようだが確かに呼吸をしている。間違いなく生きている。


「し、信じられないのはわかってる……!ウソだって、罠だって普通考える!!この男の人を見せたのも、もっと人を出して見せた所で生餌に見えると思う、でも、でも私は本当に――」


 反転していない。が、しかしそう証明することは難しい。


 1週間前、彼女は東南アジアで津波被害にあった街を訪れていた。

 彼女――イェ・インズの"影"は人の持つ負の感情を捉え、受け入れ包み癒すものだ。被災した者を精神的に救い、再び立ち上がる為の一助となる。


 彼女の大権は優秀で、間違いなく優しく強力な異能である。

 が、彼女は元来自己評価の低い人物だ。同時期に現地入りしたクレアソンと千夜――瓦礫を押しのけ、人々を物理的に救ってまわる2人に対し、インズは羨望の眼差しを向けていた。彼女たちには敵わない、彼女らのような人物こそまさに希望と呼ぶにふさわしき人物である、と。


 そして同時にこうも思うのだ。

 ああいった属性の人間は、自分とは程遠く明るい位置に居る人たちは、いつまでも真っ直ぐ笑顔でいて欲しい、と。


 だから彼女は、イェ・インズは迷わなかった。

 まんまと反転させられイカれきったふりをし、率先して人間狩りを行った。


 勿論本当に殺すわけではない。寧ろ、一人だって殺させてなるものか。

 きっと一人でも無辜の民を手にかけたのなら、あの時見た彼女たちの輝きに曇りが生じてしまうはずだ。自分の意思でなくとも、そんなことは言い訳にならないだろう。


 自分が何と言われようが関係ない。

 彼女たちの輝きを、自分の持たざるそれを守る為ならば。

 守るべき存在から恐怖されようとも、詰られようとも、誹られようとも関係ない。力を持たない民衆を早々に影へと収納し、が"反転"の少女に話していた"救世主"が現れるまで時間を稼ぐ。


 長い長い一週間。いつ来てくれるともしれない存在を、ひたすら信じて待ち続けた。


 「何故こんなことを」「信じていたのに」「この人殺し」「絶対に許さない」

 つい先日まで癒しを与え、慕われていたはずの人々から投げかけられる言葉が冷たく刺さる。

 だがそれでも、途中で投げ出すわけにはいかない。心が割れようが、善心を引き裂かれようが、罪悪感に押しつぶされたとしても。あの輝きに憧れてしまったから、こんな力を自分が持っている理由は今、この時にあるのだと信じて。


 危うく彼女らが命を奪いかける場面にも何度か出くわした。

 その都度インズは狂気を上回る気迫と執念により飽くまで"獲物の総取り"という体を保ち、信じ込ませて立ちまわる。2人の手は汚させない、手の届く範囲では命を失わせない。


 幾ら自己評価が低くとも、イェ・インズは人類を導く希望として選ばれた大権赦官である。

 だから耐えられる。どれだけ苦しくても、悲しくても、終わりの見えない悪役ヒールを続けられる。心は蝕まれ、一緒に行動しては圧し潰されてしまうからと、先行し単独行動を取るようになっても彼女は正気を保ててしまう。


 だけれども。それでも確かに心は悲鳴を上げ続けていた。

 いいや心だけではない。涙も流したし、叫んでいる間は思考が飛んで楽だった。


 その全てを、影で隠して外には見せない。

 影は便利だ。それで包んでしまえば全て隠せるのだから。


 そんな一週間だったから。つい張り詰めた緊張の糸が僅かに弛緩してしまったから。


「――あ、あれ?えっ、ウソ、」


 大権赦官として強大な力を手にしてから初めて、彼女は人前で影のベールを解いてしまった。

 なんとしてでも目の前の、救世主の少年の信用を獲得しなければならない。そちらにばかり気を取られたというのもあるだろう。



 涙でぐしゃぐしゃの素顔を晒してしまった?目も真っ赤に充血しているし、とても人類を導く希望のしるべには見えない?いいえ、いいえ。そんなことではなく、今はまず彼の信用をどうにかして獲得しなければ……!でも素顔を人前に晒すのなんて何年ぶり?とてもじゃないけど相手の方を見て話すなんて――。



 思考が纏まらないどころか、自分が今何を考えているのかさえもわからなくなる。

 明滅する視界と、力の抜ける四肢。遂にはグラリと頭を揺らすとその場に崩れて――


「っと。……大丈夫だ、大丈夫。ちゃんと聞こえた、その影が隠していたんだな」

「――ぁ、え……?」


 いつの間にか、それこそ字義通り瞬く間に。

 距離を詰めた少年が彼女の肩を両の手で正面から支える。


 インズが影を脱いだ瞬間、優護の頭に割れんばかりに響いた声があった。言うまでもない、今まで世界を隔てる彼女の影によって抑え込まれていた、彼女自身の助けを求める声だ。


 心の声は嘘をつかない。それも、助けを求める悲痛な叫びであれば尚更だ。


「安心してくれ。俺はアンタを信用する……それに、その影の中に怪我をした連中がいるってんなら全部治せる奴も知ってる」

「う、うぁ……」

「アンタは、みんなの命をしっかり守り通した。殺させてないってのはあの2人の大権赦官を思っての事なんだろ?ああ、それも大丈夫だよ、正気に戻せる。アンタは……アンタは間違いなく立派に全員護れたよ」


 少年の、その優しい声音に涙がこぼれ、嗚咽が漏れる。

 ただし今度はそれを影の中に隠すことはない。



 瓦礫の街に、重すぎる荷から解き放たれた女の声が響いた。



     *



「なるほど事情はわかりました。インズさん、貴女の決意と忍耐、そして完遂した覚悟に心からの尊敬を」

「やっ、あ、ありがとう……ございます、でも、あの……そんなアッサリ……?」


 レオノは反転し、人類の敵と化したはずのインズと共に帰還した優護をアッサリ受け入れると、柔和な笑みを浮かべて事の顛末を聞き入れた。説明に口を挟むこともなく、全て話し終えた上でのリアクションが上記の台詞である。


 深々と頭を下げて告げるレオノに、インズはオロオロと混乱した様子だ。


「ええ、アッサリです。優護と違って私には助けを求める声……なんてものは聞こえませんが、それでも貴女が正気かどうかの判断はつきます」


 優護の保証付きなら尚更です、と付け加えた青年は腕まくりをすると、気合十分といった様子でなおも続ける。


「さ、それじゃあまずは反転の解除からかかりましょうか。その後には貴女が守り抜いた方々の中で、怪我をされている方への治療を。……"治療"と呼べるほど高度なものではありませんが」


 その言葉を受けたインズが影の中からクレアソンと千夜を放り出す。

 すると影の中で暴れていたのか、静かに地面へ横たえられたクレアソンとは異なり、千夜は勢いよく飛び出すとそのまま前のめりに転倒する。


「へぶっ!いったぁ~~~……って、インズさん!貴女よくもボクのことを……え?あれ?なんですかこの状況??ちょちょちょっ、もしかしてこれって大ピ――」


 ンチ。と言い切る前にレオノの掌が少女の肩に触れ、そこで彼女の意識は途絶する。


 時刻は朝の4時30分。

 長い夜が一度ひとたびの終わりを迎え、人工の明かりが絶えた世界を大地の果てから朝陽が照らす。まるで何もかもが嘘だったのではないかと、一瞬錯覚してしまう程に澄んだ朝の空気と静謐さ。


 7月29日、ここからこちらの世界での2日目が始まる。

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