第13話 優しさの理由(後)

「ふわぁ……」

「ちょっとお姉ちゃん……!」


 翌朝。まだ眠そうな様子のフィエリやテレストラをどうにか起こして、朝の8時から5人はバス停に並んでいた。流石に手は当てるものの、お嬢様なのを忘れるほど堂々と欠伸をするフィエリにサラが小声で注意をする。


「何よぉ、いいじゃないお屋敷でも社交界でもないんだし……あっ、それとも"にほん"じゃマナー違反だったかしら?」

「いんや別に。まあそれこそ社交界みたいな場だったり、欧米……えーっと、他の国じゃマナー違反のとこもあるけど、少なくとも今の日本で友人の前なら手で隠せば十分だよ」


 フィエリに尋ねられた優護が、以外にも丁寧に答える。

 と言っても、欧米うんぬんは桜子の記憶から思い出しただけなのだが。


「そっか、フィエリさんにはこっちの知識と言語は与えられていないんだったわね」

「そうなんです。ま、サラが居るから大丈夫ですけどっ!」


 先日の事件の際に五条姉弟とサラ、テレストラにはコミュニケーションを円滑に進めるため、スメラルドから双方の言語が与えられている。また、パニックを起こさないように、生活していけるようにと、サラとテレストラにはこちらの世界の一般常識も同時に付与された。


 その為この場では全員がお互いにコミュニケーションを取れるのだが、フィエリだけは日本語が理解できないので今日これからは常に誰かしらと行動する必要が出てくる。何故かと言われればそれは――。


「楽しみですね"ぷぅる"。川に木の枠を作って、そこで遊ぶとかっていうのは向こうにもあるんですけど、人工的に波を発生させたり流れを作ったり、色んな遊び方が屋内に用意されているんですよね?」

「ふふ、そうよ。水着も貸してくれるからみんなで可愛いの選びましょうね」

「はーい!」


 そう。

 リール姉妹の1泊2日の異世界旅行その2日目は、まるまる屋内プールで遊び倒すのである。


「私も前に水を使ったアトラクション考えたんだけどねぇ…安全管理とかそういう諸々が面倒でやめちゃった」

「それで正解じゃないか?機械を使って人の手を更に補ってるこっちですら完璧じゃないんだ。それを一個人の異能で賄うのは安上がりだけど責任がデカ過ぎる」

「まっ、それもそっか…今日も何か良さげなアイディアがあれば貰ってこうと思ったんだけど、そういえばそもそもアメティストさんから変なもの持ち込むなって釘刺されてたんだわ」


 お嬢様なのだが、変なところで商売っ気のあるフィエリである。

 フィエリは更に話を続ける。


「悪いわね。服借りちゃって」

「あの王国術師団だかの黒いローブでうろつかれても目立って仕方ないからな……男物しかなくてすまないが、まあ素材が良いから変な感じはしないな。寧ろ似合ってる」

「そ、そう?アンタもそんな気の利いた事言えるのね。……ちょっと意外でビックリしたかも」


 昨日の時点では五条姉弟の部屋を出ることもなかった為、サラもフィエリもあちらで見たのとそう変わらない格好だったが今日はそうもいかない。別に通報される程の格好ではないものの、やはり目立ち過ぎるということでサラは桜子に、フィエリは優護にそれぞれ衣服を借りていた。


「今回はすっかり忘れてしまっていたけど、今度までに幾らか見繕っておかなきゃいけないわね。あ、という訳で2人はあとでサイズ教えてね?……え?あらそう…………それなら仕方ないわよね。覚えてないなら計ってあげるわ」

「嫌ならハッキリ断っていいんだからな!?」


 とんでもない事を口走る姉にいい加減辟易してくるも、他にブレーキ役が居るわけでもないので放棄する事も出来ない少年が大きく息を吐く。


 普段はとても頼りになる姉だのに、なぜこうも美少女絡みだと残念な事になってしまうのか。もしかすると、美少女うんぬんは関係なしに可愛い妹が増えたようで楽しいのかもしれない。自分の肉体はあの姿のまま固定されてしまっているうえ、身内と言えば頑固爺と能天気な弟だけなのだ。

 そう考えてしまうと、少年もなんだか少し申し訳ない気持ちになってくる。

 

 オシャレとかカワイイいとか無縁な弟でゴメンな姉ちゃん……!!


「でもまぁ、何度見ても素晴らしいわねサラさんのそのオヘソ!」


 前言撤回である。

 少しでも自分を顧みた己が恥ずかしいとは少年の談。


「ひゃっ!うぅ……そんなにじっと見られると恥ずかしいです」


 サラは桜子から衣服を借りたものの、そのコーディネートは桜子が行った。サラの性格では出された衣服に対して意見が出来ないのをわかったうえで、彼女はへそ出しのTシャツとホットパンツを手渡し、絶賛夏満喫中のイケイケ銀髪ガールを爆誕させたのだ。実の姉がそんな私服を持っていたことに若干引いた弟が居たのは言うまでもない。


 ちなみにフィエリはシンプルに青いジーパンと白Tシャツといった出で立ちである。……あるのだが、桜子による魔の手はここにも及んでいる。いつものツインテールをポニーテールに纏め、シャツの裾は左腰の上で結び、どうせゆー君は履かないのだからとジーパンはダメージ入りに改造されている。大胆にのぞく太ももが眩しい。


「フィエリちゃんもサラちゃんもキレーです!カワイイです!」

「うん、ありがと。テレストラも素敵よ?とっても可愛い」

「えへへー」


 褒められたテレストラは、お気に入りなのか麦わら帽子のつばを両手で抑えるとその場でクルクルと回る。その仕草に一同が頬を緩めていると、ちょうど乗り込む予定のバスが道の向こうに見えてきた。

 テレストラを含めた3人の異邦人にとっては、これが初めての自動車体験である。乗り物酔いや乗車マナーについてはバス停までの道すがらあらかじめ説明を済ませている為、特に心配な事もない。夏休みの思い出作り、かわいこちゃんのおもてなし、異世界初旅行、そして優しさの理由。それぞれの期待を胸に、彼らはバスへと乗り込んだ。



     *



 テレストラ・フィーユは、何も演技をしているわけではない。

 プレゼントに喜んだのも、褒められて笑顔を見せるのも、少年と一緒になって真剣にたこ焼きを引っくり返していたのも、全てが全て偽りなしの彼女である。


 寧ろ素の彼女から最も遠い一面を抽出するならば、それこそが優しさの理由を求めている瞬間の彼女であろう。本来の彼女には存在しなかったはずの一面。孤独を経験してしまったが故の一面。或いは、孤独などという言葉では到底足りはしないのだろう。彼女にとってのあの夜は、間違いなく世界の終わりであったのだから。


 覚醒した直後、若しくは眠りにつく直前のふとした瞬間に――まるで空白になった思考に滲み出す様に――彼女は孤独を思い出すのだろう。

 過去からは確かに一歩踏み出した。他者から許しを得て、自分に許しを与えた。

 ならば次は未来である。今のところは上手くやれている。もうだいぶ遠い昔の様に感じるが、世界が壊れる前の自分がしていたように素の自分のまま受け入れて貰えている。


 ――でも。でも、それはどうして?


 それがわからない。

 それがわかりたい。


 もう孤独は嫌だから。

 今まで気にならなかったのに優しさの理由が――とても気になる。



     *



「……遅い」


 更衣室前で分かれてから優に20分。優護は更衣室出口のすぐ横に備え付けてあるベンチで独りぼやく。更衣室の出口はそのまま20メートルほどの通路を経て屋内プール施設へと通じている為、彼の居る場所は演出の一環なのかもっと違う理由があるのか、ともかく既に蒸し暑くプール独特の塩素のにおいまで漂ってくる。


「塩素の臭いは、まあ嫌いじゃないんだけどな……」


 塩素の臭い = プール = 楽しい。小学生の頃から刷り込まれた結果である。他にも実は心式しんしき関連であまり小学生時代の後半を楽しく過ごせた記憶が少ないとかの理由もあったりするのだが、それはまた別の話。20分待たされた少年が、ようやく報われる時が来る。


「お、お待たせしましたぁ~……」


 蚊の鳴くような声で恐る恐る登場したのは、水色のパレオ付き水着を纏ったサラである。先ほどまでのヘソ出しTシャツとホットパンツもなかなかに強烈であったが、飽くまでそれは邪道。普段のサラを知るからこそのギャップによる火力だ。反面、このパレオ付き水着は王道中の王道である。サラが持つ本来の魅力を引き出す清潔感のある水色に、ショートボブの銀髪がよく似合う。


「なによりこの自信なさげな、気の小ささが男の"守ってあげなきゃ"って気持ちを刺激する……でしょう?」

「面倒だから無視するぞ」

「もっと姉を大切にしなさい??」

「水着すっげー似合ってるぞサラ、これなら待たされた甲斐もあるってもんだ」


 いつの間にか現れて勝手にモノローグを入れてきた姉をスルーして、優護はいつまでもオドオドしているサラに声をかける。声をかけられた少女の方は、その言葉に安堵したようでようやく優護の方へと近づいて来る。


「あ、ありがとうございます!えっと……お姉ちゃんたちもそろそろ来るはずなんですけど……あっ来ました来ました!」

「待たせたわね。なかなか混んでて着替え辛くて」

「わっ、優護くんムキムキー!」


 噂をすればというわけでもないだろうが、サラの説明の直後に残りの2人も顔を出した。

 フィエリは女性らしさの強調される黒いオフショルダービキニを、テレストラは黄色に白の水玉模様が入った可愛らしいワンピースタイプの水着をそれぞれ着用しており、どちらもこの上なく似合っている。


「一応身体は毎日鍛えてるからな。それよか二人の水着だよ、可愛いし綺麗だ。よく似合ってる」

「……そっ、そう?まぁ、私だってプロポーションには気を遣ってるし?私としてはアンタがそんな風に女の子の格好を褒められた事が驚きというか……なに、もしかして慣れてるのこういう事」

「なわけあるか。これは普段からそういう服装やら髪型の変化に疎いと文句言ってくるのがいるから半ば習慣みたいになってるだけだよ。それより全員揃ったんだ、早く行こうぜ」


 あらぬ疑いをかけられた少年が不満気に反論し、続けてプールへ向かおうと提案する。


 海のように波の出るメインプールは小学校のグラウンドよりも広く、施設の壁に沿ってぐるりと一周するように設けられた流れるプールは途中にスコールや霧、機械仕掛けの人形による水鉄砲での放水などのアトラクションが盛り沢山。1~4人まで幅広く対応している4種のウォータースライダーに、一息ついてリラックスできるジャグジーの他、飲食店や浮き輪、サーフボードの貸し出しを行うレンタルショップなどの多様な施設も用意されている。この一大ウォーターアミューズメントパークは、この地域のみならず隣県からも遊びに来る人が多いほどで特に夏休みともなれば大賑わいだ。


 普段からこういった施設へと積極的に行こうとしない優護であっても、友人づてに小学生の頃から聞かされていればこれだけの情報が蓄えられる。実は前情報があるだけに、ことここに至ってみると一番わくわくしているのが少年であったりするのだ。


「そうね。でもその前に何か私にも言うことがあるんじゃないかしら?ほら、水着を新調してみたんだけど――」

「おうおう似合ってる似合ってるイカすぜ姉さま」

「むぅ、適当過ぎないかしら……」


 テレストラとはぐれない様に手をつなぎながら前を歩く優護が、後ろを一瞥して面倒くささを隠さずに感想を投げる。それに対してフリフリとしたフラワーモデルの淡いピンクのビキニ姿で、頬をぷっくり膨らませる桜子だが最早弟の視界には収まっていない。艶のある黒い髪を低い位置でお団子にまとめているのだが、これについてもノーリアクションだ。


「おかしいわ……普段ならちゃんと気付いてくれるのに…………はっ、今日は大人数だから?」


 初めて水着姿を目にするカワイイ女の子が3人。なるほどこれでは普段から顔を合わせている相手の新調した水着などどうでもよくなるというものだ。プールに浮かれている事も合わせて考えれば納得がいく。

 が、そもそも前提が違うのだ。

 少年が普段ならリアクションをきちんと返すのはひとえにその方が面倒が少なくて済むからである。"早く遊びたいとせがむテレストラの面倒を見なければならない為プールへ先行する"という大義名分を得た今、彼にリアクションを返す道理はない。



 というよりも、だ。

 更に更に大前提として――実姉の水着とかめちゃくちゃどうでもいいのだ。



     *



「いやぁ、遊んだ遊んだ」


 時刻は正午を少し過ぎた頃。

 メインプールでテレストラが波にさらわれかけたり、ウォータースライダーでサラが絶叫したり、流れるプールで危うくフィエリの水着が流されそうになったり、溺れそうになっていたちびっ子を優護が助けたり。様々なトラブルに見舞われながらも楽しく午前中を終え、午後に備えて施設内のレストランを一行は訪れていた。


「ほんとにね。それにしても……ふふ、私あんなサラの声聞いたの初めてだったわ」

「もうっ、お姉ちゃん!」


 ウォータースライダーは最大4人までの為、優護は1人次の組として待機していたのだが彼女の悲鳴はバッチリそこまで届いていた。スタートタイミングの管理を担当しているスタッフのお姉さんが思わず心配してこちらを見てくる程の迫真の叫びであったのだ。

 少年はもしかしたらあと少しでサラの助けを求める声が聞こえて来るんじゃないかとも思っていたのだが、仮にそうなったとしてもフィエリが一緒にいるので心配は要らなかっただろう。あちらと異なり異能の存在が認知されているわけではないので、厄介事を避ける為に彼女らに目立つような協心術の使用は避けるようにと言ってあるが、この施設においてならばフィエリの協心術は誤魔化しやすいハズである。


「あ、あのね優護くん、トイレに……」


 と、控えめな声で恥ずかしそうにテレストラが声をかけてくる。

 迷子防止の為にテレストラがどこかに行く際は必ず誰かに何処へ行くか伝えてからにして欲しいと約束していたのだが、これは少し申し訳ない事をしてしまったか、と少年は考える。


「ああ、場所は大丈夫か?」

「うん。さっきのところを右に曲がるだけだから」

「あ、じゃあ私と一緒に行こうよテレストラちゃん」


 場所は大丈夫というものの広い施設である。優に7、80メートルは離れているためサラの申し出は少年にとってもありがたいものであった。こういう時にはいつも桜子が面倒見の良さを発揮しているのだが、昼食はビュッフェ形式であり彼女は今ちょうど自分の昼食を取りに席を外している。

 そうして2人はレストランを離れて女性用トイレまで来たのだが、これが結構混んでいる。夏休みのイベント施設で飲食店から最寄りのトイレ、それもお昼時ともなればそうなのかもしれないが、取りあえずサラはテレストラを先に入らせて、トイレを出た所で再び落ち合うことに決める。


 それから数分後、一人でサラを待つテレストラは何気なく、お昼時で人のまばらな流れるプールを眺めていた。流れるプールは施設の壁に沿って作られている為、店舗や出入口を塞がないようにやや高い位置へと作られており、入退場にも階段を使った移動が必須である。洞窟をイメージしたトンネルなども用意されているため、一周丸々ではないが場所によっては上からの景色を楽しむためにプールの壁に透明な素材が用いられている場所も存在する。彼女が眺めていたのは、ちょうどそういった透明な壁の場所だった。


 ボードに乗ってゆったり流されていくおじさん。

 友人と水をかけあいながら楽しそうな少年2人。

 浮き輪を着けた女の子と手を繋いで歩くお母さんに、その後ろを体育座りの姿勢で丸くなりながらただ流れに任せてプカプカと付いていく男の子。


 と、その男の子が何かに引っかかったのか止まってしまう。

 恐らくは海賊船を模したオブジェで、流れるプールの中には何ヶ所かそういった捕まって休める場所が存在し、午前中テレストラもゴーグルに入ってきた水を出したりするのに利用した記憶がある。ぶつかったところで痛くないようにゴムの様な柔らかい素材で出来ているので、男の子も直ぐに妹や母親のもとに追い付くだろう。

 実際に何度かそういう事があった為か、特に母親は気にした様子もなく女の子と一緒に先へと進んでしまう。一瞬だけ後ろを振り向き男の子の背中が見えるのを確認し、お兄ちゃんまた引っかかってるよーなどと笑っている。


 だから一番早く気付いたのはテレストラであった。


 その子が海賊船のオブジェに引っかかる直前から、どこか違和感を覚えたテレストラは男の子を集中して観察し、直ぐに気が付いた。遠目の為に一瞬気付かなかったが、体育座りの姿勢を取っていた彼の手足が、痙攣を起こしているように見える。医療知識などは勿論持たない彼女だが、管理者によって与えられた知識から発作という言葉が思い浮かぶ。本当にそうなのか、はたまた違う何かなのかを確かめる術は彼女にはない。一つだけ確かな事は、このままではあの子の命が危ないという事だ。


「でもどうしたら……」


 どうしたらあの子を助けられる?


 、彼女は必死にその答えを探す。

 見たところあの子は自分と同じくらいか、もしかしたら1つ2つ年下の男の子だ。体重で見れば確実にテレストラよりも上で、しかも相手は痙攣している。それを彼女の腕力で数メートル先のプールサイドまで連れて行くのは不可能であると、管理者の知識が残酷にも示す。


「他のっ、誰か……!」


 自分でダメならばそれしか手はない。

 では誰を?このお昼時、先ほど下から見た人たちだって連続した方なのだ。次に誰か、それもあの子を引っ張り上げられる大人が来るのはいったい何十秒先になるだろう。もしかしたら秒ではなく分であるかもしれない。監視員は居たはずだが、それも歩き回って流れるプール全体を見ているのであまり期待は出来ない。


「はっ……はっ、はぁ……」


 階段を上りきる。

 息を整えることも忘れ、急いでプールサイドを左手に、プールの流れとは逆に進む形で走っていく。何も策は思い付かず、偶然通りかかる大人を待つだけならば最初から優護たちを呼びにレストランへと走った方が良かったのかもしれない。午前中も容易く溺れかけていた子どもを助けていたし、身体強化もある。彼に任せていれば今頃は既に解決されていた事だろう。


 と、そこまで考えたテレストラは更に嫌な事に気付いてしまう。何故今こうして彼女が目指している場所は見えているのに、五条優護の姿が未だそこにないのか。彼であれば"助けを求める声"を聞きつけ、誰よりも早く辿り着いているはずだ。

 ひどく乱暴な押し付けに聞こえてしまうが、今重要なのはしかしそこではない。今重要なのは彼に男の子の声が届かなかったこと、つまりはかなり早い段階から"助けて"と思う事すら出来ずに意識を喪失しているという事実である。テレストラがここに来るまでで既に1分近くかかってしまってるだろうか?果たしてどれくらいまでが生還圏内なのかは、彼女にはわからない。知識が教えてくれるのは時間が経てば経つほどマズい事になるという所までである。


「……あたしが、呼ばなきゃ」


 とうとう男の子から真っ直ぐ横の位置まで辿り着いたテレストラが、一刻も早く優護を呼び出そうとする。なにも大変な事はない。ただ心の中で叫べばいいのだ"優護くん助けて"、と。


「呼ばなきゃ……」


 呼ばなければいけないのに、どうした事か。彼女の心は違う言葉を投げかける。


 "それは本当に大丈夫?嫌われたり、しない?"


 大丈夫に決まっている。

 きっと優護くんなら笑顔で応えてくれるはずだから。


 "自分じゃ何も出来ないから、便利に呼び出して働かせて。ただでさえあの人たちにしてあげられることなんて何もないのに、こっちからは都合よく使うんだね"


 そんなつもりじゃない。

 これはあの男の子を助けるためで、きっとそれはゆうごくんもよろこぶはずだ。


 "嘘ばかり……本当はがわからないから、いつもと違うことはしたくないくせに"


 うるさい。


 "もしも万が一にでも彼らに嫌われる可能性があるなら、また独りになるかもしれないならこのまま頑張ったふりだけして―――"


 うるさいうるさいうるさいうるさい。


 "あんな知らない男の子よりも、自分が独りにならない方が大切だ"


「……ッ!!」


 バチン、と生々しい音を立ててテレストラの両頬が熱を帯び赤くなる。自分で自分の両頬を叩いたのだ。迷いを払うように、気合いを入れるように。そして次の瞬間には――ドボン、と水しぶきを上げてプールに飛び込み男の子のもとを目指す。


 そうだ。彼女には五条優護をはじめ、どうして家族でもない自分に優しさを向けてくれる人が居るのかわからないし、それ故に普段の行動からかけ離れた行動を取るのは怖い。それは単純に人生の経験に乏しい事や、村人のほとんどが家族同然のような小規模な世界しか知らない事と、その状態で孤独を経験したが為である。


「わかんない……わかんないよっ!独りになるのは嫌だけど、でも――」


 それでも。彼女は目の前で命が失われるのを見過ごすことは出来なかった。その行動こそは優護らのそれと同じ他者への優しさであると気付かないまま、自分の力で助けてみようと飛び込んだ。迷う頭で答えは出せず、優護を呼ぶ事が出来ずとも。考えていて迷うなら、それで何も出来なくなるならと、先に体を動した。


「悲しい事が起きるのは、もっと嫌だから!!」


 自分がこの男の子を見捨てたら、あのお母さんや妹、他の家族や友人も悲しむのだろう。

 辛いのだろう。苦しいのだろう。涙を流すのだろう。


 だって――自分がそうだったから。


 ならばそれはダメだ。絶対にダメだ。

 そんな悲しい事は起こしてはいけない。防がなければいけない。


 だから、その為ならば仕方がないのかもしれない。

 自分でなんとか出来ればと思い飛び込んでみたが、やはり無意識のまま痙攣する相手を助け出すのは不可能なようで、このままでは2人とも溺れてしまう。

 本当はまだ怖いけど。本当は自分の力で解決したかったけれど。

 ここが境界だ。自分まで意識を失うわけにはいかない。



 "――助けて、優護くん"



「ああ、もう大丈夫。全部に任せてくれ」


 直後に聞こえた声はどこまでも力強く。

 彼女の心ごと水中から引き揚げてくれたとさえ感じさせる。


「ほら優護!人来ちゃうから早くこっちに」


 霞む視界で見て見れば、プールに居るハズの彼女たちの周りに水がない。いや、正確には2人を抱える優護の傍を避けるように水が流れている。そうして5秒とかからずプールサイドに上がることが出来たテレストラと男の子のもとに、バタバタとプールサイドを駆けてくる人の姿が見える。恐らくは監視員やライフセーバーだろう。段々意識がハッキリしてきたテレストラは問題ないが、男の子は――


「――ッハァ……ゲホッ、ゲホ」


 ライフセーバーの救急処置を受けて意識が戻り、受け答えもハッキリしているようであった。



     *



「本当にありがとうございました。なんとお礼をしたら……」


 目元に涙を浮かべながら、小さな女の子を連れた女性が優護に頭を下げている。

 ここはスタッフルーム。幸運にも男の子には異常が見られなかったものの、間もなく到着する救急車で病院まで運ばれて、念のため精密検査を受けるそうだ。今まで発作を起こした事もないそうで、脳波検査なども行うらしい。


「いえ、お礼はあの子に。あの子が真っ先に気付いて助けを呼んだんです」


 と、少年が指さす先にはバスタオルにくるまっている金髪碧眼の少女が1人。

 想定外の人物に、一瞬その女性は戸惑うも"育ちはこっちなんで日本語で大丈夫ですよ"という少年の言葉を受けて彼女へと近づいていく。

 一方のテレストラは、知らない大人が近づいて来るというのもありいささか緊張した面持ちである。

 そして互いの距離が1メートルもないほど接近した時、ガバッと女性がしゃがみこんでテレストラの両手を握りしめた。


「ありがとう。ほんっ……とうにありがとうね。ぁ……」

 

 その言葉に少女の胸がいっぱいになる。

 いくつか用意していた返答の文句など全て飛び、涙ながらの女性の言葉が思考を染める。


 あなたが居てくれてよかった。


 それは生まれて初めて家族でも友達でも村の仲間でもない、"他者"から受けた存在の肯定。

 それは孤独を恐れる少女が勝ち取った、生涯心に残る星の如き輝き。


 だから彼女は笑顔で応える。

 ――嬉しくて、ちょっぴり涙も滲んでいるけれど。


「どういたしましてっ!あの子が無事で、私もとっても嬉しいです!!」



     *



 一時は騒然としたものの午後から運営が再開された流れるプールにて、ボードの上にうつぶせになりながら桜子が隣を歩く優護へと声をかける。


「テレスちゃんいい子過ぎないかしら……?」

「もう10回は聞いたぞその会話の切り出し方」


 まあ優護も賛成であるし、あの桜子とテレストラのやり取りを見れば気持ちもわからなくはないのだが。

 

 時に、彼らが駆け付けるまでの経緯は次の通りである。

 トイレから出てきたところ、階段を駆け上がるテレストラの後ろ姿を見ていたサラが少しして事態を把握。慌てて優護たちを呼びにレストランまで走り、そのお陰でなんとか彼らはあのタイミングで駆け付けることが出来た。もしもそれがなく、テレストラの呼びかけがあってからであればもっと到着は遅くなっていただろう。


「遠慮なんかしなくていいんだぜ?どんな時でも呼んでいい。テレストラに頼られたら俺は寧ろ嬉しいぞ」


 などと。救急車を見送ってから改めて開かれた昼食(ちなみに事故を未然に防いだ感謝の気持ちとして昼食を含む今日の施設利用料は浮いた)の席で励まそうと口にしたところ、割と本気でテレストラに泣かれてしまいここ数年で一番オロオロしている五条優護を桜子は写真に収めることが出来たのである。


 その後のテレストラの話には彼女の背景を考えるとみな真剣な面持ちになったのだが、フィエリがわちゃわちゃと彼女の頭を撫でたのをきっかけに空気は弛緩する。


「ばっかねー、みんなあなたを嫌いになるわけないじゃない。もしもいけない事をしたのなら、その時にはちゃーんと桜子さんが叱って教えてくれるんだから」


 ね、桜子さん?とフィエリが話を纏めようと桜子に話を振ったのだが、これに対する桜子の返答がなんとも歯切れの悪いこと。


「……えっ?ええ、そうね。もちろんちゃんと教えるわ!教えるのだけど……お説教とかはちょっと、キャラじゃないって言うか」

「あっ、嫌われるかもって桜子さんまで考えてませんか?」

「ぐうっ!?」


 冗談混じりのサラの言葉に、大げさに胸を押さえる桜子。

 図星以上に予想外のところから刃が飛んできたのが効いているようであった。


「大丈夫です!あたしは桜子さんのこと大好きだから、怒られても嫌いになんてならないです!!」

「ほんとぉ!?うふふ私もテレスちゃんのこと大好きよ~!!」

「じゃああたしはもっと好きです!」

「え~~~、じゃあ私はもっともっと好き~!」


 その後ゲンナリした顔で優護が止めに入るまで、10回ほどこのやり取りは繰り返された。

 無邪気な笑顔で返すテレストラと、返事を聞くたびに緩み切った顔でデレデレする下心丸出しの桜子の対比をこれ以上世間様に公開するのは流石に弟として心が痛んだのだ。あとめっちゃ視線が刺さって恥ずかしい。


「あのだっっっっらしねぇ顔はちゃんと俺のスマホで撮影しといたからあとで印刷しとくな」

「……ゆー君きらーい」


 プイっとボードの上で桜子がそっぽを向く。

 別に嫌いでもなんでもいいが、その呼び方を外でするのはやめて欲しいと思う少年であった。



     *



 時刻は21時。

 リール姉妹は再訪を誓って既に帰還し、遊び疲れたテレストラも早めに床に就いていた。

 そして眠りに落ちる直前の数分間。また、思考へと滲み出してくるものがある。


 でもそれは今日が最後。過去から踏み出した彼女は、更に未来へ向けての一歩を今日踏み出した。

 初めて他者から感謝をされて、存在の肯定を受けて。

 ようやくわかったのだ――優しさの理由が。

 今までずっと理由を相手に求めていたけども、そうではなかった。

 そこから勘違いをしていた。

 理由は、助けられる側にあったのだ。


 助けられるその人に、見捨てる理由が見当たらない。

 ただそれだけの事。それだけで、彼らは手を差し伸べ笑いかける。


 もちろん全てが全てそうではないのだろう。10歳のテレストラがたった一日、たった数人との関わりの中で究められるようなものではないハズだ。もしかしたら、この答えは一般的なものではないのかもしれない。けれど今はそれでも構わないと、少女はそう考える。


 だって、少なくとも彼らの理由はそうなのだから。

 それだけで彼女が更に一歩を踏み出すには十分なのだ。

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