第4話 ものすごい匂いがしましたが許されるんでしょうか
先生に案内された場所は、書庫というよりは、倉庫に近かった。部屋はひんやりとしていて、セミオートの移動ラックがいくつも並んでいた。奥のほうは節電のためか薄暗くて見えない。
「これは……」
「マイクロフィルムだね。初めて見るかい?」
先生は重なったリールの保存ボックスを優しく撫でながら言った。
「いえ、バイト先で、よく見てます」
部屋全体から埃臭い感じがした。本の匂いは、嗅ぎ慣れた安心感があったが、この場所は長くいてられない。先生の整髪剤の匂いと混ざって、僕はくらくらした。
「アーカイブというのは、寂しいものです」と先生は言った。
「いるものは書店やネットで手に入ります。私たちは、いらないものを大切に保存しているとも言えます。もう不要となったもの。死蔵に近いものも多くあります」
「死……。じゃあここは墓場ですか」
「ふっふ。おもしろい答えをしますね、石威君。そのうち、ここに幽霊でも出てきそうですね」
極端な物言いだなと思った。けれども、誰にも貸し出されない大量の書庫の本を見てきた僕は、「でもいつか……」とまでしか言えなかった。いつか誰かが必要とするかもしれない。それは百年後かもしれない。千年後かもしれない。
「石威君の言いたいことはよくわかります」
「はい……」
『それ』が保存してよいものなのかどうか、どう判断をするのかは、デジタル・アーカイブの授業でははっきりと述べられてはいない。記録は、どこまで範囲を広げればいいのだろう。倉庫に並ぶものを見ていて、僕はそう思った。
小さな図書館であれば、最終責任を図書館長として、何がいるのかいらないのか、明確になる。けれど、世界中の情報を記録していくデジタル・アーカイブができると、何をどこまですればいいのかわからない。僕の所属しているところであれば、デジタル化するとしても、地元の小さな祭りを映像化するか、もしくは近所の古書店で見つかって寄贈されたものをスキャンするか……そうして土地に根付いた独自のコレクションを形成するのだ。だが、さらに、こういう町のイベントも保存してほしい、我が家の倉庫から出てきた人形も残してほしいとリクエストがどんどんとたまった場合はどうすればいいのか。
考え込んでいる僕に、先生はにっこり笑った。
「この棚を見てごらん」
「ええ、どこか際限がないというか」
ラックの中に置かれた透明な収納ボックスに「白川郷デジタルアーカイブプロジェクト」とシールが貼ってあった。白川郷の膨大な映像記録のほかに、学校の運動会の記録まであった。廃校の校舎内を球体カメラで撮影したDVDデータ。山の四季。商店街の催し物。記録をすることは、大切で、意義がある。今すぐにでも取りかかりたくなる。が、いざ始めると、真っ先にぶつかるのが、『何を記録しないか』だった。
「そう」
先生は笑顔のまま、一本のビデオテープを小さな移動テーブルの上に置いた。
「石威君には、これをテーマにプレゼンテーションをしてほしいですね」
「ビデオ……VHSですか?」
「そう見えるね」
「うーん」
僕が手に取ろうとすると、「あ、だめだめだめ。これは貴重な資料なのだから、持って帰ってはいけない。よーく見て、覚えなさい。写真を撮るのは許可します。それから、この大学構内であれば、再生してもよろしい。持って帰れない代わりに、高解像度デジタルカメラを使って撮影してもいいですよ」
僕はVHSを手に取って、すぐに7階にある大学図書館へ向かうことにした。図書館なら、資料の再生を申請すれば観ることができるはずだ。
足早にエレベーターへと向かう。
フロアに着くと、ちょうど上の階からエレベーターが降りてきて、ドアが開いた。
開ききる前に、とんでもない匂いが鼻腔を刺激した。
二人の女子大生が降りてきて、僕とすれ違った。
「花畑!?」
アーカイブ不可能な甘い香りが全身を駆け巡った。
「おいしい」と匂いに対して率直な感想を抱いた。
なんておいしい香りなんだ!
僕は女子大生の方に振り返ることもできず、しばらく茫然としていた。エレベーターはそのまま閉じてしまい、別の階へと移動していった。
ようやく我に返って、上の階へ向かうボタンを押し、またしばらくぼーっとしていた。資格の勉強をしているのがなんだかバカバカしくなってきた。もっと違う勉強をして、高級スーツに身を包み、信頼感あるオーラを出しながら、自然に女性から「どこから来たんですか」とバーで話しかけられるような男になりたい。雪だるまの写真をとって必死になっている自分が、女子の強烈な香りによって掻き消えようとしていた。
《上月さん、ついに女子大生がいました。ものすごい匂いがしましたが許されるんでしょうか》
と、僕はエレベーターを待ちながら咄嗟にメールを送ると、すぐに返事が来た。
《動物園も植物園も、ものすごい匂いだぞ》
やり取りは終わった。しばらく考え込んでから、僕は掻き消えかけた自我を取り戻し、やっぱりエレベーターで上に向かった。
先生から渡されたVHSを大学図書館の視聴覚コーナーにあるビデオデッキで再生しても、画面は青いままでなんの映像も出てこなかった。しばらく待っていると、一人のおじいさんが話しているところが映し出された。ただその映像だけが延々と流れていた。おじいさんの後ろには日本人形や掛け軸が飾られている床の間があるが、掛け軸には何が書かれてあるのか薄らぼけていてわからない。村の長老らしいけれども、正体がわからない。立派な屋敷で話していることには違いなかった。
僕はスマホでその画面とVHSそのものを写真撮影した。VHS、岐阜女子大学書庫資料、デジタルアーカイブ資格課題にて、実物、保存状態良好、補修不明、来歴不明……。いつもより多めに言葉を付け足した。
先生のところに戻ってVHSを返した。
「なんなんでしょう、これは」と僕は率直な感想を述べた。
「これが課題です。思ったことを、プレゼンで述べてください」
先生の猫のような目が僕をとらえた。
僕は、先生のように目を丸くしたまましばらく言葉を失った。
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