第3話 幻想即興曲 / メヌエット

『…枕元にいる死神には、手を出しちゃいけねぇ。そりゃ、寿命だ……』

 私は布団に突っ伏して、イヤホンから聞こえてくるCDを聞いていた。低い不気味な声が、どうにも好きだった。

『くそっ、どうして枕元に居んだよぅっ。足元なら、足元なら……』

 金にくらんだ医者は言う。

 私は、暗いカーテンの中にいた清水こむぎさんを思い出す。あの子は、枕元に死神がついていたのだろうか。そして、私はその死神を消してしまったのだろうか。


『……あれが、今朝までお前の寿命だった蝋燭だ。今朝、助けた爺さんと入れ替わっちまった。千両でお前は命を売った。それは安いのか、高ぇのか。……ほら、消えるぞ………消えるぞ……ほら、ほら、ほらぁ……』

 クックッ、と喉で笑う落語家の演技は、今はとても突き刺さる。私は、音読の代わりに、ピアノを失った。代償には、高すぎた。

「僕にも、チャンスをください」

 大きく息をついて、私は布団に丸まった。


 新作落語のCDを探しに販売店舗へ行ったとき、清水こむぎさんに遭遇した。

 しゃがんで落語CDの棚を漁り、好きな演目を見つけて値段を確認し、髪を切るのを、あと一か月我慢すれば買えるか、と打算していた時に、私服のスカート姿の彼女に会ったのだ。彼女は楽譜を持っていた。『クラシック音楽の世界』とシンプルに書いてある。清水さんは、急いで踵を返したが、私はとっさに立ち上がった。

「この間は、余計なことをしてごめんなさい」

 ぴくりと彼女は反応する。耳元まで真っ赤で、私は改めて彼女のあがり症を実感した。

「きっ……」

 ひきつった声がする。私は少し身じろぎする。

「きに、しないで、ください…っ」


 そのまま去ろうとしたが、慌てすぎたのか楽譜が手から落ちた。

 ぱっとページが開かれて、球体の羅列が見える。私は、目を見開く。永遠と続いているこの暗号を、解読して、タイピングして、音に出力するのか。脳内に情景が浮かぶ。解読の法則を知らなければ、安易に読めはしない。

 ぶわりと鳥肌が立った。漢文を見つけた時のような、高揚感に近かった。思わず清水さんより、先に手がいった。あっ、と悲鳴に似た声を聴いて、私は手早く譜面の題名を見た。


『別れの曲』

「まじか」

 私も悲鳴に似た声を上げた。そして、急いで彼女に楽譜を返して、

「僕に、ピアノを教えて」

 と声を出していた。彼女は、困った顔で、あの時のように首を振る。

 私は確信した。私はピアノが弾きたい。

 季語のように、古文のように、漢文のように。不思議に溢れる譜面を読み解いて、音を奏でたかった。ただの音楽ではない。流暢にしゃべる、感情のままの音を自分でも弾いてみたい。彼女は達観しているけれど、私にも、私の言語になる音が欲しい。

 曲を弾いてみたい。


「僕は、清水さんがすごいと思うんだよ。こんなの、音にできる君はすごい」

 今度こそ、彼女の顔が真っ赤になった。

「ぴっ、ピアノは、簡単にっ」

「学校で習った知識でも、こんなの読めないし、君の音は苛烈で好きなんだ。どんな音楽家でも、君の音をまねできる人はいないよ。落語家が師匠の背を見て学ぶように、僕も君を見て学んでいきたい」

 口をぱくぱく動かす彼女は、どこか不満げにも見えた。

 私は、またアプローチの仕方を間違えたかと悩む。苦肉の策で、提案した。


「せめて一曲、教えて。努力は惜しまないし、どうしても弾いてみたいんだよ」

 貪欲に、彼女の譜面を読みたかった。長い間がある。

「……あした」

 ぼそっと彼女は言う。どことなく、ふてくされている。

「ほ、うかご、……音楽室」

「うん。わかった」

 大きな声が出て、彼女はまたびくりと体を動かす。

「ありがとう。ありがとう」

 私はCDを握りしめて、何度も頭を下げた。


 ピアノは、家にない。私は、買ったCDをそのままに、印刷機に裏紙を入れて、符号を印刷していく。

「……だ、かーぽ」

 英語に見える。国語は好きなのに、英語はどうにも合わず、点数は教科のなかで最下位だった。

「曲の、最初へ戻る……」

 画面をスクロールして、また印刷にかける。

「だるせーにょ?」

 頭を抱えた。英語じゃない。英語じゃないが、これは大丈夫だろうか。

 授業の時に見た譜面は、読めた。簡単な記号ばかりだ。その中に、これらは存在しただろうか。どんどん出てくる記号をホッチキスで止めて、何度も読み返した。


 音楽室へ足を運ぶとき、少しだけ待ってみた。しばらくすると、音楽室から音が聞こえてくる。迫りくる音の羅列は相変わらず早いが、これまでとは少し違い、痛みのあるものではなかった。ためらいのような、悩みを含んでいるように聞こえる。とても、短い音楽だったが、最後まで階段を駆け下りていく音は、限りなくこれからの意図を表しているようだった。

 私は意を決して、ドアを開いた。彼女は、椅子から立ち上がりお辞儀をした。スカートのすそを握りしめ、唇を噛んでいた。

「よろしくお願いします」

 私も深く礼をする。

 彼女は、すたすたとこちらに向かってきた。

『メヌエット』

「かだい、です」

 彼女は短く言った。

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タイピング音と春風の歌 空付 碧 @learine

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