第2話 エチュード《革命》
どうしても、彼女の演奏が耳から離れなかった。
あの突き刺すような仔犬のワルツを、誰も弾いてはいないのだ。CD音源は、お行儀よろしく、ライブ音源は、軽やかに、犬を走らせている。
あんな子犬が自分を忘れてしまうような、全てをぶつける乱暴なほどのワルツを、誰も演奏していなかった。雷に打たれたような、あの衝撃はどこにもなかった。
私は知ってる。初めて知った音楽への衝撃は、1度しか来ない。音楽は1度きりなのだ。演奏者の気持ち、ピアノの塩梅、取り巻く空気。あれは、あの演奏と空気は1度きりしか来ない。
落語も同じだから、よくわかった。名作で、大御所が演じるからと言って、全て上手くいくとは限らない。だからこそ、寄席は楽しい。
彼女の演奏も似たものだ。もう一度聞きたい、あの仔犬のワルツは、彼女は同じように弾いてくれるだろうか。
おそらく無理だ。彼女は、腹いせのように弾いていたのだから。あれほど極まったワルツというものを、もう聞けはしないのだ。
出会いは一度きりなのだ。だからこそ、惜しい。録音したとしても、内容は変わらずとも、高揚感はすり減っていく。私は彼女の音を刻み込むしかなかった。
私は彼女のピアノに、一瞬で惚れ込んでいた。
「清水さん」
「あ......」
私はページを見遣りながら、彼女の音読を聞く。言葉は喉につかえたままだ。
「......て......う」
「清水さん、ここでちゃんと喋れるようにならないと、社会に出て苦労するわよ」
教師が言う。私はちらりと清水さんを見た。俯いて、フラフラと揺れているようにも見える。
これが、大人になって役に立つというのは、どこの世界にあるのか。彼女は饒舌に、音を鳴らすのだから、言葉をどう扱うかなんて分からない。
彼女は少し息を吸った。
「っは.........あ」
ため息が空気を揺らす。日を吸って、カーテンが薄暗く部屋を陰らせる。
はと気づいた。これまで興味がなくて、気づかなかった。
これは拷問だ。
「......アテネから帰ってきた浮世絵師は、初めて自らが得たものに気づいたのだ」
ぼそりと呟いた程度だ。けれど、教室は見逃してはくれなかった。一同がこちらを見る。私は自分のしたことを、後悔した。けれど、後には引けない。
「......すみません、授業が進まないと思ったので」
「......いえ、結構です」
教師は咳払いをした。教師に促され、今度は立ち上がって、続きを音読する。皆驚いていたが、本当は自分が一番驚いていた。
私は何故こんなことをしてしまったのだろう。気づけば突飛に読み上げてしまった。少し声が大きかったのだろうか。
ただ、1番気がかりだったのは、清水こむぎさんの事だった。彼女は俯いて座っていた。私が彼女の立場なら、これはひどい仕打ちだ。
救出じゃない。追い打ちだ。
読めないということを、これ見よがしに、周りに見せつけてしまったのだ。余計に彼女を惨めな思いにさせてしまった。
証拠に、彼女は拳を握りしめていた。数度、目元に手をやっている。やり方を間違えた。覆水盆に返らず、とはよく言ったものだ。
その日は、音楽室へは近寄れなかった。けれど、どうしても図書室へは行かなければならない。源氏物語の、空蝉を読まないと気が済まないのだ。早足に通り過ぎようとした。
ちらりと見ると、彼女はピアノに向き合っていた。こんな時でも、いやこんな時だからこそ、彼女はピアノを弾くのだろう。
今日は早く帰ろう。早く帰って、落語の死神を聞こう。図書室から退散して、帰路の音楽室で、全身に衝撃が走った。
雷だ。でなければ、槍の雨だ。思わず固まってしまった。左手は忙しなく伴奏し、右手のメロディは聞き覚えのある音だ。
何だったろう。よく聞く音楽だ。この緊迫感は、ドラマで使われるだろう。にしても、張り詰めている。
恐る恐る窓に近づくと、彼女は尋常ではないスピードで鍵盤を叩いていた。息を飲んで見ていたが、彼女があまりにも悲しそうに、悔しそうに弾いているものだから胸が痛くなる。譜面を時々確認して、それでもスピードは一切落とさず、今日の出来事を凝縮した音だった。
そっと離れる。彼女の音を真似るということは、おそらく彼女のように、素直にならないといけないということだ。
私には、そんなものなんてなかった。空虚を文学で埋めるような存在だ。
フラフラと耳鳴りするほどの、激情を遠くへやりながら、私は今日の過ちと死神に喪すのだ。
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