タイピング音と春風の歌

空付 碧

第1話 仔犬のワルツ

 春風が吹くころ、私は教科書をめくって、音読を聞いていた。

「…ぜ……」

「清水さん」

 先生が催促する。清水さんは苦しそうな声を出していた。彼女の席は、私よりも後ろで、授業での姿を一度も見たことない。彼女がスラスラと話す姿も見たことがなかった。

「っ……ぜ」

 先生のため息が聞こえる。あれもまた、人を追い込むものだと知ってやっているのだろうか。私は無表情にページをめくった。

「じゃあ、浅見さん」

「はい」

 私は席を立つ。清水こむぎさんのために、浅見まりあは教科書を持った。

「絶縁体が存在する世の中とは、なかなかに説明が難しいものだった。私たちは電流を通し、それはすべてに精通すると思っていたのだ。あの、原子のつながりの深い」

 何故国語の授業で絶縁体の話をしているのか、さっぱりわからなかったが、高校二年生の、女子高生の日常とは、そうやって過ぎていくのかもしれない。ひと段落読み終わり、席についたら笑い声が聞こえた。清水さんの赤く俯いた顔が、髪の隙間から見えた。


「清水さん」

 昼休み、笑い声に重なって、クラスメイトが彼女に話しかけていた。お弁当を取り出しながら、私は何の気なしにそれを見ていた。清水さんは俯いていた。

「一緒にご飯食べようよ」

 きっと、あの人たちは、そんな目的で話しかけていない。彼女の喋る姿が見たいだけなのだ。清水さんの失態、とも言えるのか。清水さんは赤くなって固まっていた。私は見ているだけで、何も手を出さなかった。弁当には、唐揚げが入っていた。


 あまり興味のない事だった。私は清水さんのことも、クラスメイトも、興味なかった。出来ればずっと図書室に篭って、好きな古文に浸っていたかった。落語もいい。それこそ、話術とは特別なものだ。

 それを踏まえて、清水こむぎさんに焦点を当ててみると、何故言葉をうまく出せないのか、私には理解できなかった。人前で恥をかくための言い訳として喋るのは嫌だけれど、彼女には全てにおいての事柄が嫌なのだろうか。そもそも、彼女は嫌という理由で喋れないのか。


 音読が必要のない数学の授業では、彼女は埋もれきっていた。理科の実験でも体育の授業でも、彼女の影はない。ただ、国語の音読で、彼女は浮き彫りになる。彼女の作る空白が、彼女をどんどん濃くしていく。

 私にとっては身近な言葉だけれど、彼女にとってどういうものなのだろう。打ちのめされるために存在しているのか。彼女が何を喋るのか、それすらも想像できない。まぁそれでも、私には唐揚げの方が大事だった。笑い声がする。


 放課後、夕暮れに染る廊下を歩いていた。図書室へ、借りていた本を返しに行くのだ。渡り廊下に差し掛かる所、音楽室の前を通り過ぎる時、酷く過激なピアノの音が聞こえた。音の動き、抑揚、響き渡るものは、目を見張る。音楽教師がやるにしては、あまりに熱狂的に聞こえる。私は吸い寄せられるように、窓から覗いた。


 前のめりで鍵盤を叩いていたのは、清水こむぎだった。


 ちいさな手が俊敏に動き、細やかな音が聞こえる。酷く饒舌な音楽が、仔犬のワルツという曲だと一瞬でわかった。真剣な眼差しで、音を鳴らす彼女と、それに応えるピアノは、子犬を走らせる。子犬は駆け回り、時々飛び跳ね、ゆっくりと歩いてみるけれど、どんどんスピードが上がっていき、気づけば子犬は、己が誰なのかもわからなくなるくらい駆けている。感情をぶつけるように響く犬の声は、劇的だった。


 そう、劇的だったのだ。西日にあたる黒のピアノと彼女の演奏は、現実に刃物を指したような鋭さを与えた。ひどく感情的に、彼女は喋っていた。鍵盤でとめどなく音を紡ぎ、抑揚入れても尚しゃべり続ける。

 詰まらずどんどん動く指は、演奏という名でありつつ、行き場のない何かを感じさせた。終演に向かう。最後の最後まで気を抜かず、高い一音を合図に、指を交差させてどんどんおりていき、最後の和音が聞こえた。彼女の体からふぅ、と力が抜けていっている。


 私は、無遠慮にドアを開いた。飛び上がった清水さんに、声を張って言う。

「僕に、ピアノを教えてください」

 彼女は驚いた顔を真っ赤にして、数秒動けないようだったが、思い切り首を横に振る。

「お願いします。ピアノを教えてください」

「……い」

 声が漏れる。

「い、やです……」

 初めて、彼女の言葉を聞いた。ピアノの名残だろうか。

「あんなにも劇的な音を、僕も弾いてみたい」

 彼女は口を開いたまま、首を横に振る。あ、と音が少し漏れている。


「僕は言葉が好きだけれど、君の音はそれ以上に喋っていたから」

 ピアノに近寄ると、彼女は遠ざかる。ぽーんとひとつ音を出した。

「初めて、ピアノに興味が湧いたから、お願いします」

 ぽーんともう一度鳴らすと、彼女は眉間に皺を寄せて、駆け足で部屋から出ていった。演奏よりも鈍い動きだった。


 ピアノ。打楽器。チェンバロから抑揚の着くよう構成されたもの。私に芽生えた、久しぶりの興味だった。私はそっと数音ならし、ピアノを片付けた。

 外はもう暗くなり始めていた。

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