第3話

 惣一の、御世辞にも美しいとは言えない容貌に、せめて色を添えるかのように鮮やかにつけられた痣は、五日経っても薄らぎこそすれ、消えることはなかった。白樺の林において清助が惣一をしたたか打ちすえた日から二、三日は、この出来事はあやふやに伝わりながらも集落中の主立った話題となった。そして、一部では大きな争議へも膨らみかねない状況になっていた。集落の要事一切を取り仕切る家格たる徳田家の、それも嫡子である者がその面輪に痣をつけられたのであるから無理もないことかもしれなかった。

 それでも今のところ辛うじて、出来事に関係した三人の若者の、決して示し合わせたわけではない黙秘が功を奏してか、事は何とか大事へは発展せずに留まっていた。ただし、あの日の白樺の林には清助と惣一、そしてお小夜の三人しか居なかったにもかかわらず、村での巷談が進むにつれ、人々の口に上る噂は、あの出来事が実はお小夜をめぐって惣一と清助との間に生じた一幕の色恋沙汰だったという趣旨のものが大半となっていた。幸いなことに、村で人が二人以上集まれば即ち談ぜられていたこの話題も、続く二、三日を過ぎればもはや改めて世間話の俎上に載せられることも少なくなっていった。それは、清助とお小夜は無論のこと、徳田家嫡子として依然集落の寄り合い等に出席し続けていた惣一までもが当の問題に関しては堅くその口を閉ざしていたからであった。

 集落全体はもはや落ち着きを取り戻した中で、依然ただ一人、お豊だけは事件当日から今に至るまで、あの三者の関係における真相を、各方面へ八方手を伸ばして模索しようと懸命に走り回っていた。彼女の様子には鬼気迫るものがあり、とっくに好奇心をなくした村の者共をそのしつこさで辟易とさせていた。清助は時折、お豊が村の若い娘達の白昼のお喋りへも半ば強引に割り込んでいって、何かを尋ね歩く姿を目撃しては、自分の身は隠しながらも憐憫の情を催していた。だが同時に清助は彼自身の知っている事の真相というものを、お豊に告げることは許されることではないと思い、ぐっと丹田に力を込めて堪え忍ぶのであった。清助は心のうちでひそかに、惣一の心がお豊のもとへと戻り来るように、そしてお豊の心は何も波風を経ることもなくまた元の穏やかな止水となるようにと願っては、その場を静静と後にした。

 そうこうするうちに、白樺の林での顛末から半月近くが過ぎ去っていった。冬の凍てと降雪はますます高じ、いよいよ氷の路はその幅員を狭められてきた。村の社で先日開かれた宮座に出ていた清助の兄は、帰り来てから清助に対し、お小夜ら巫一行が故郷の村へ戻る日が間もなく、おそらくは向こう両三日の間に来るであろう旨を伝えた。

 前日の雪降りから転じて、蒼穹を突き抜けるような冬晴れに恵まれた翌る日、お小夜ら一行の出立が明日に定まった。日定めの顛末としては、出立の日定めの決断はその日の夕刻まで待たれた。その日は終日、天に一朶の雲だになく晴れわたっていたのだが、風はやや強い日であった。そのため、村叟による、明日の天候の判断が、より確実な夕刻にまで延ばされたのである。夕刻になって、西の空は焼けた。これを見て村叟は口を開いた。その口から、お小夜ら一行の無事の出立が保証された。もっとも、巫一行は既に占いでもって結論していたらしく、村叟の判断と占いの結果が一致したことを表明して離別の辞を陳べた。

 村の中で、清助とお小夜の表情だけが、この冬の日の快晴にも晴れることなく、曇ったまま人知れず淡い翳を宿していた。その日、夕刻の村叟の判断が下された後、自家へと戻った清助は、平時通り家族揃って夕餉を済ませた。そして、夕餉の片付けをしてから父や祖母に、雪掻きに使う杴を村共用の庫から借り出して来ると言い置いて、屋外へと出て行こうとした。

 だが清助のこの行動は、前日まで雪が降っていたとは言え先述の通りの冬晴れに恵まれた気候においては、かなり不自然なことであると家の者誰の目から見てもそう映った。それでも清助を止める者はなかった。清助の見え透いた嘘を不誠実なものであるとは見なしていなかった。実の有る嘘だろうと思い、かえって尊重した。きっと清助は何か他用を済ませた後、まめまめしくも本当に雪掻きの杴を携えて帰って来るのだろうと予測できた。

 家を出た清助は、その脚を紛うことなく新築の社へと向けた。彼は明日帰郷するお小夜に何か言わねばならないと思っていた。ただし、言うべき言葉はまだ見付かっていなかった。それでも彼はまず歩き出していた。

 新築の鎮守の社は、村の北方に侘びしくも厳めしく蟠踞していた。社へと向かう途上で急に森閑とした場所に出た。そこは、神聖であるべき北方の社を中心とした空間と、南方にある集落の世俗的な生活とを隔てる一種の火除け地、あるいは広小路とも言うべき場所であった。かき曇らず、雪も降らずといえど、冬の宵の寒は禽獣たちをとっくに漆黒の森のかなたへ追いやっていた。

 路の両脇は一面、休閑の田畑によって占められている。そのさらに外れに、一軒ぽつりと庫がたたずんでいる。その庫が、村共用の農具や雪掻き用具など一式が置かれた庫であった。禽獣たちは寝たとも、依然夜に耿耿とした白い花を咲かせて起きている柊の並木をたどり、清助は庫へと急いだ。

 庫へと到った清助はかじかむ手で杴を探し出した。観音開きの木扉には堅牢な錠が掛けられていたが、頻繁に利用される軽量小型の木具などは、利便性を考慮して庫の外壁に沿って設けられた棚に置かれていた。このような無防備とも思える物の保管法にも、この村一帯の治安がうかがわれた。

 清助が目当ての杴を取って、元来た道を引き返そうとした時、庫の外壁で遮られた向こう側から、焚き火によるものであろう、ほのかに赤く染まって揺らめく影が隠顕した。清助はこれを見ると暫時、冬の乾季に用いる火の危険性を考えた。しかし、一応この庫は石造りであったことから、引火延焼のおそれはないだろうと納得した。そして次には、この焚き火を起こした者の正体を、警戒心かつ好奇心もて突き止めようと、庫の外壁伝いに近付いていった。

 清助が、音も無く庫の外壁の角からうかがうと、焚き火の傍らには、たたずむ一組の男女がいた。彼が目を凝らして見ると、その一対の男女は、惣一とお豊であることがわかった。今回に限っては、世に言う逢引きというものではないようであった。二人は焚き火で暖を取りつつ、何かを話していた。その様子には喃喃たるものはなく、ややもすると口論やいさかいの類にも近いように見えた。焚き火の、粗朶を焼いて弾く音は激しく、惣一とお豊の話の内容までは聞こえてこなかった。

 火を焚いている者の正体がそれと知れて、清助は警戒心を解いた。しかし、次いで彼は、自らの心を着実に浸蝕してくる卑しき好奇心を自覚した。それは彼にとっては不快に感じられるものだった。清助にとっては長く、そして惣一とお豊の二人にとっては短く感ぜられた時間が過ぎ去って、心の葛藤を自律することができた清助は、二人の会話が聞こえてこないことを幸いと、歩を戻してその場を去ろうとした。

 ところが、動き始めた清助の身にすぐさま、あらぬ不幸が舞い込んだ。

 彼が場を去ろうとして体を捻った刹那、傍らの棚に載せてあった大小幾つかの桶を地へと転覆させてしまったのだった。当然、木桶は地上へと墜落し、続いて地から跳ね返った桶同士がかち合い、そして再度地へと転がった。この時に生じた音だけでも、惣一とお豊に第三者の存在を知らしめるには充分過ぎるものだった。さらに、強く地面へと打ち付けられ跳ねた桶の一つが、壁の角を越えて、二人の視界のうちへと村神楽の俳優宜しく躍り出てしまった。

「誰じゃ。そこにおるのは」

 惣一はほとんど震えるような声色で庫の壁の角に向かって叫んだ。この声にも清助は、兢兢として、自らと二人を遮る庫の外壁を離れられずにいた。これと時を同じくして、惣一とお豊の足下に燃えていた焚き火の炎が、一瞬の激高を示した。

「誰かおるのは、分かっておるぞ。早う出て来なされ」

 惣一に加勢するかのように、お豊も続けて呼び掛けた。清助はいよいよ諦念を得て、壁にもたれながら一つ深い呼吸をなした。そして、この時刻にかような場所に自分がいる理由を、いずれにせよ正当に理解されないことは予想されるが、正直にありのまま説明しようと肝を据えた。清助は壁を離れた。

「おれぁ清助じゃ。ちと庫に用があって寄った。庫の道具が必要での。借りようと思ったんじゃ。そしたら、火が焚かれとるから、ちと怪しんで来た」

 一口にこう言いおおせてから、清助はうつむいたままだった顔を二人の方に向けた。最初に、こちらを正視しているお豊と目が合った。お豊の美しい顔には、普通このような場面で娘の表情に顕れる羞恥の色など一切なかった。この貌佳花は凛然として外なるものと対峙していた。

「ほう、じゃあ、お前さんはここへは来たばかりだったと言うのかえ」

「ああ、こんな寒い夜に、わざわざ外で焚き火をする者は誰かと思ってな。まさかお前達二人だとは思いも寄らなんだ」

 清助はこう言っている最中にも、その目をお豊から惣一の方へとやった。すると、惣一のまごついた様子が視界に入った。惣一は、昼間のうち集落の行事に出向いている時分に見せる、意図的に造った厳めしい顔からは想像も出来ないような矮小な姿であった。

「・・・・・・・・・・・」

 惣一は変わらず黙して語らなかった。ただ、蓼科の農耕を司る神に守られた大地を、沈鬱に、うつむきながら見つめていた。突然お豊が、独り快活を誇大するような口調で、

「そうじゃ、清助さんが来たなら丁度いいわ。さっきの惣一様の言葉を確かめさせてくれろ」と、焚き火を避けて清助へと歩みつつ言った。惣一を見ていた清助の眼には、お豊の言葉を耳にして思わず息を呑む惣一の様子が映った。このお豊の言葉に応えたなら、何かしら、しかし三者すべてにとって確実に不都合なことが出来すると清助は勘付いた。

 清助は返事をすることなく、冱えわたる夜に催される身震いを抑えるように体に力を込め、決して焚き火へと近付こうとはしなかった。あわよくば、自分も嘘をつくことなく、お豊の心も傷つけることなく、惣一の案ずる事態も生じさせずに、早々にその場を後にしたいと願っていたのだった。

 ところが、ここでお豊は性急に、

「二人とも、何とか言ってくれろ。なあ、清助さん、あのことについて、本当はどうだったんじゃ」と、改めて清助に問いただした。

「・・・・あれとは、惣一の顔のことじゃろ。それなら、惣一とおれ、そしてお小夜が朝、偶然山で一緒になったんじゃ。それで・・・・」

 ここまで清助は決して嘘はついていなかった。しかし、次の言葉を進めるには、余りにも不実な嘘がたくさん必要だった。そして彼の心は、これ以上口を動かすことを拒んでいた。

「それは言わんでも分かっとる。聞いておるのは、惣一様のお顔の傷がどうしてついたかということじゃ」

 依然揺らめき燃える焚き火による赤い影であろうか、お豊は顔をやや火照るように赤く染めていた。惣一はまだ黙っている。加えて清助も、にっちもさっちも行かなくなって緘黙してしまった。

「惣一様の話では、あの朝、お小夜さんと一緒にいたお前さんに、いきなり因縁をつけられたと言うじゃないか。本当のことを言った方がいいぞえ」

 お豊の口調はいよいよ怒鳴りつけるようなものになった。それは四辺の夜の閑けさを考慮することも忘れているようだった。清助は惣一の偽言をある程度予測していたので、いまさら特別な思いはなかった。出来ることならば、惣一の偽言を字面のまま真実にしてやりたいとも思っていた。

 清助は、困じはてた後、慎重に口を開いた。

「あの朝、お小夜とおれは」

 ところが清助がこう言い掛けた時、他方よりこの声を掻き消すように重なって響く声がした。

「違う、あの朝、山で清助とお小夜が睦み合うているところにわしが通り掛かって、わしが二人を、ちょっとからかったのがいけなかったんじゃ」

 その声の主は今まで黙していた惣一であった。惣一は、清助の口よりお小夜の名が出た時点で、あの朝の真相、つまり自分がお小夜に対し親しい仲を無理強いしたということが曝されるのだと早合点した。そのような事が生じる前に、彼は新たな偽言を呈する必要に迫られ、彼自身の心もそれを了承したのだった。

「本当かえ。惣一様、ほんとにからかったのかえ」

 お豊は惣一の方へと体を向けて、上目遣いに問いただした。

 勾配の緩急にかかわらず、一度坂道を転がりだしたつぶては、坂の途上で止まることを知らない。惣一が今咄嗟についた嘘もまた、ひねり出した当人の意図を離れてどこまでも転がり続けるよう運命づけられている。惣一はさらに塗り固めてゆくように次の言葉を補った。

「ああ、そうじゃ。わしは・・・今思えば粗忽であったが、ほんの軽い気持ちで二人をからかってしまったんじゃ。すると、清助の方が怒髪天を衝く勢いで向かって来て・・・結局、こうなった」

 惣一は、内心では自分でも驚くほど饒舌に、滔滔と偽言を説いた。だが、こう説明する間中もずっと、彼はお豊をのみ見据えていた。清助へと目を転ずることはできなかった。

 清助は惣一の偽言を受け入れる覚悟はしていたが、お小夜までもが惣一の偽言に巻き込まれたことだけを苦々しく感じていた。しかも、その偽言が神職を奉ずる者への禁忌を含んでいたことも不快でならなかった。聞きながらも清助は、独り静かに苦慮していた。

「今の・・・本当かえ。清助さん」

 清助の考えがまとまらないうちに、お豊が彼に向かって言った。清助は反駁したかった。しかし、清助が童顔に似合わない気難しい表情で見た先に、薄紅色の寒木瓜が、闇夜にも蝕まれることなく独り端整に咲いていた。焚き火の明かりの先にこの寒木瓜を見た清助は、にわかに口もとを弛めて、

「あ、ああ、そういうことじゃろう・・・」とつぶやいた。彼は、躍起になって反論しても、行き着く先は喧嘩別れであろうと諦観していた。それはあくまで感覚的な判断であった。それでも、諦観とはいえ破れかぶれの自棄ではなく、闇に咲く淡紅の寒木瓜に寄せた、自己完結する清廉を、彼は有していた。

 三者は互いに述べるべき言葉を失った。どうやら心ならずも納得したようであるお豊と、決してこちらを見ようとはしない惣一を残して、清助は黙ったままその場を後にしようとした。残る二人が彼を引き留めることはなかった。

 清助は杴を携えて、そのまま自家へと取って返した。巫一行の出立を明日に控え、お小夜に何か他愛もない伝言でも置きにゆこうと北の社を目指していた本来の目的も遂げず、逃げるようにして家路をたどった。そして祖母をはじめ、家の者は皆、温かく穏やかに清助を迎えたのだった。

 翌る日、お小夜ら巫の一行の帰郷を見送るために庫の脇を通った清助がうかがうに、そこに焚き火の跡はなかった。昨夜そこに人が居た痕跡はおろか、その気配すら残されていなかった。そればかりか、同じく見送りへと向かう惣一とお豊も、まるで何事もなかったかのような顔で通り過ぎていた。清助が見やった寒木瓜だけが、昨夜と変わらぬ姿を日差しの下に誇っていた。冬晴れに恵まれたこの日、お小夜ら巫一行はこの村での今年の奉納を終え、朝な朝なに狭まりゆく氷の路を、連銭葦毛の木曽馬と共にすり抜けるように通って、故郷へと帰っていった。

 それから二日の後、村叟は、本年における氷の路の閉塞をその目で確認し、それまでの仔細を歴年の村の記録が記された巻子本に書き加えた。

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