第2話

 細雪ちらつく冬のつとめて、村の井戸は森として、清冽な水を湛えている。

 つとに起きて薪割りの一仕事を終えたところの清助が、その水に爽を得ようと釣瓶を引き上げていた。降る雪は細雪とて、いよいよ冬の到来したる信州の山村は、広がる土の先どこまでもじゅうぶんに霜を宿している。そしてその霜は、その上を一歩一歩踏む者に対して、まるで彼の蹠を九寸五分で突き刺すかのような激しい刺激をもたらいている。清助の穿く、極めて薄い草鞋は既に、凍てる直前の限界の冷たさを、彼の蹠へと通らせてもうだいぶ時を経ていた。

 突然彼は、込み上げる嚔の予兆に顔全体を吊り上げた。彼は咄嗟に、井戸とは反対の方向へと上体をひねったが、そのどさくさの中で、せっかく引き上げた釣瓶を井戸の底へと落としてしまった。

 その後、嚔の通り魔からようやく救い出されて今や平としている彼は、落ちた釣瓶に気付いた。この時彼は静止したまま、晩秋の、まだ冬隣の寂寞を感じる余裕があった時分に、草刈りの途中で祖母から聞いた話を思い返していた。

 冬の空はかき曇っている。しかし、昇る朝日は雲の上からさえもわずかにうかがえ、地輿へは直接には届かないにせよ、その影はついに地上の白さをより鮮やかなものとするに到った。その細雪と井戸、白樺などを中心に据えた、森森とした冬の朝の情景に、これもまた森森とたたずむ若人の姿は、まさに一幅の院体画の点景であった。

「おぉい、薪割りはもう終えたのかえ」

 先に記したような冬の朝の情景に相応しい、静静とした調子で、清助を呼ぶ声がどこともなく聞こえて来た。

「おお、今朝は殊に早く終わらせて、ここへ参ったのじゃ。あ、早く終わらせたと言うても、何も手を抜いた訳ではないぞ」

 呼び掛けに答えた清助の欣欣とした声の様子からは、まだ姿を見せることがないでいる声の主の正体も、彼にはしかと見当がついているようだった。彼はいつの間にか、再度釣瓶を引き上げてその双手を清冽な水に浸けたようで、濡れた手をあわてて衣の裾で拭いた。そして、静かに白樺の幹の陰からその繊麗な容姿を現した相手に対し、

「おはよう、お小夜。おぬしも同じく早いのう。ああ、今日はこの村じゃ最後の朝の勤行じゃったのか」と、実の所はお小夜の担う神事の詳細は知らないまま無邪気に言った。それでもお小夜は、

「朝の勤行か・・・。仏道にては、そうも言うのぉ。まぁ、神祗にてもだいたいの趣きは同じと言えるかもしれぬ」と、寛容に答えた。清助はこれを、まことに優しい表情を呈して聞いていた。それから、急に釣瓶に残る水を確かめて、

「とにかく、お小夜はおれ達の村に、諏訪様の御利益を持って来てくれとるんだから、ありがたいことじゃ。ほれ、水だ。冬の朝に汲む水はまた、清清とするぞ」と、自分でも意図しないままに、お小夜に対して近くに来るよう勧める言葉を発していた。

 いくばくの雪の花が散る中を、あらわな部分は狭くとも光の乏しい冬空に向かって耀くような雪肌が彼に近付いて来た。

「そうじゃ、御父様の調子はどうなったかの。心配でならんわ・・・」

 一面にわたる霜をいやおうなく踏まなくてはならないながらも、お小夜は、その足に穿いた、保温に秀でた履物のおかげで、難なく彼のもとへと歩み寄って来た。

 清助はお小夜を待つ間中、蒼惶としてあちらこちらを見やっていた。その様は、万が一にも見ていた者があれば、ややもすると清助の性格とは全然異なる軽骨さを垣間見てしまったかもしれない。ただ、それは清助とお小夜の関係を正確には映していない。二人の間には、ここ信濃の国の狭い集落において累年涵養されてきた人擦れしていない恋心があり、二人は互いに互いの不言の言を聞いていた。

 清助は照れ隠しのように、

「ああ、お前さんが看ておってくれたおかげかしらんが、大分よくなった。そのことについても、ありがとう」と、お小夜をまともに見ることが出来ないまま言った。

 お小夜は赤心から寿いで、

「よかった。おぬしの粉骨砕身の賜物じゃ」と喜んだ。これに続いて清助は、

「だが、何でも、単なる人の噂じゃが、お前さんがおれのお袋に似とるからだと言う者もある。若いころのお袋と勘違いしたと」とこぼした。とっくに清助のもとへと到り、遠く冠雪の蓼科山を眺めていたお小夜は、彼のこの弁に、快か不快か周囲からは容易に見分けることの出来ない曖昧な顔をした。

「へえ、おぬしの御母様と言うと、私と同じ身空で、巫の先達に当たる・・・。たしか、その神祗の役割を終えてから、おぬしの御父様とくっついたんじゃったか」

 お小夜は、語尾に幽かな嫣然たる笑みを添えて語った。これは本人自身も明らかに禁じ得なかった様子で、お小夜のこの笑みは唐突に彼女の豊頬をこぼれた。

「本当にみな、おかしなことを言いよるのう」

 彼女は相手の気色を瞬間たりとも見漏らすまいと可愛らしい目を健気に見張りながら、清助に対して同意を求めた。嫣然と笑いながらも、お小夜自身企図しないうちに、この言葉は清助に対する冷徹な鎌となって掛けられていた。

「はは、そうだな。でも、おれのお袋は巫の御務めでこの村へ来て、この村の男だった親父とくっついた・・・。いつか、お前だって、どこかで、誰か・・・」

 清助は続くべき言葉を言い掛けて、すぐにその乾燥した口を噤んだ。

 その当座、朝一番の凩が集落をなめて、冬の朝の凍えに目を醒ました軒々の鶏が一斉に鳴き始めた。これによってようやく村にとっての朝が到来した。

「私も・・・か・・・。そうじゃな、私もいずれは歩まなくてはならぬ道だわ。おぬしが氷の路を通ることは出来ん・・・私しか通れぬからな」

 まるで、うつつに清助と自分しか居ないかのようにこう言い終えると、お小夜は一息ついた。彼女の頬には確かに二つの和林檎がなっていた。今度はお小夜が俯いて、

「私もこれで今年の役目はおしまいになる。自分じゃ自分のこともただの娘子だと思うておる。じゃが・・・」と、嘆くようにつぶやいた。そして、その後あわてて辺りを見回した。幸いにも周囲には、林立して濡れそぼつ白樺の樹々しかいなかった。

「それは、おれだってそう思うとる。お社の他の奴等が、お前に余計な戒めを強いているだけじゃろうが」

 清助は、面前のお小夜の様子にそのまっすぐな義侠心をくすぐられたか、突然声を荒げて、諏訪の民としては不心得なことを口走った。二人とも黙りこくった。細雪の中の二人は、間もなく集落を蔽う喧騒の間際で、依然森閑として時を過ごしていた。

「・・・夫をもった女子が氷の路から拒まれるのは、知っておろ・・・。今年はもう帰るが、来年も、春さればきっと、氷の路を通ってこの村へ来るから・・・」

 お小夜はうつむいたまま、清助と目も合わせることが出来ずに言った。彼女は足元の、半ば雪に埋もれながらも凛として小さく顔を出している忍草を見ていた。お小夜には、この単に雪に埋もれただけである忍草が、早くも雪を割って出で来たかのように見えた。

「おれは待つ。おれは待つぞ」

 こう答え、清助の方は思い切って顔を上げた。そして彼はお小夜のうつむいた顔を凝視したが、次にその翳るかんばせに手を伸ばすという挙に奮って及ぶことが、どうやっても出来なかったのは言うまでもない。

 すると急にお小夜は顔を上げて微笑み、

「じゃあ」との細々とした一言と共に清助に背を向けて、この村で宿次している社へと続く径を遠ざかって行った。

 お小夜が去った後もなお、彼はひとり沈思していた。彼の思考は、彽徊かつ堂堂回りで、ある一点から離れることがついぞ無かった。彼は過去のいつぞや、同年代の朋友のうちの悪童と呼ばれる部類から、生娘という言葉の意味を教えられた時のことをなぜか思い出していた。

 清助は次第に苦しくなる自らの胸を、両三度掻きむしって、再々度釣瓶を引き上げて清冽な水を汲んだ。彼は手で水を掬って、その清冽を面輪に打ちつけた。折しも、細やかな天華がやんだ。

 それまで物思いに耽っていた清助が天を仰ぐと、朝の忩劇に包まれた集落から立ち上る、幾条もの炊煙が見えた。ほどなく、ここへも渇きにのどを蠕動させた村人が、冬の初めの朝の水を求めて到るであろう。清助は、物思いをなるべく早くきり上げて、この場を去った方がよいと考えた。彼は、家に帰ってから家族のために薪を焼べて寒さを和らげなければならないと思った。

 山間の集落は今、朝の支度に大わらわであって、軒の外にまで気を配る余裕は一様に持ち合わせていなかった。清助は自家へと山道の帰路をたどりしな、裾に位置する集落から響いて来る鶏鳴に呼応するように、山林のいずこからか顕れ始めた雉鳩や鶫の声を聞いた。清助はぬかるんだ道を村へと歩きながら、家に帰ってからなすべき仕事を想像していた。

 まず薪を焼べることはもちろんであるが、今朝のような小雪混じりの湿った空気では、火の点きも悪いだろう、と思った。数に限りのある榾柮や焼き草をいたずらに費やしたくはないな、と思った。そして、薪を焼べた後には朝餉の用意が必要だろう、新米には手をつけず、今朝は稗の粥で済ませよう、と思った。いや、兄夫婦と自分は稗の粥でいいとしても、祖母と、病床の父、育ち盛りの弟には米の粥にしてやった方がよかろう、と優しく思った。

 清助がかようなことを思い思いつ道を下って行ったところ、

「きゃあ、やめてたも」との、余りの高声で、聞き覚えのある声か否かも彼には判別出来ないような悲鳴が轟いた。清助がこれを耳にした矢先、彼の強靱な筋骨をまとった脚は、声の発せられた方角へと驀然としてひた走っていた。

 彼がその声の出来した場所へと到って初めに見たものは、つい先刻まで井のそばで自分と話していたお小夜の震懼する姿であった。そして次には、一面蒼白となって体を強張らせた徳田惣一を見た。惣一は走りきたった清助に気付いた。

「清助、何でもない。ただ、ちょっと、お小夜がそこの石につまづいて転んだからじゃ・・・」

 惣一は狼狽しつつ状況の説明をしていたが、それも途中で行き詰まった。弾指の間、三者の間には無音の状態が保持された。清助は惣一の様子を詳しく確認した後、再度お小夜へと視線を移した。よくよく見ると、お小夜の両眼には、先刻の冬の朝の水よりも清冽な泪が浮かんでいた。彼は、相手が惣一であることとお小夜自らの身分とによりて、お小夜の口から真実が語られることは望めまいと咄嗟に感じた。依然一面蒼白のままの惣一は、お小夜を清助から遠ざけようとするかのように、あるいはそそくさとこの場から逃げようとするかのように、

「お小夜、大丈夫か。行こう」と言って彼女の手を取った。だが惣一がその手を引こうとした瞬間、お小夜は無言のまま彼の手を振り払った。

 再度手を取ろうとする惣一と、拒絶するお小夜の間に、先のお小夜の悲鳴を引き起こしたであろうものと同じ悶着が生じた。それでもやはり男である惣一の方の力が強く、やがてお小夜のなよ竹のような体が振られるほど強引に、惣一は彼女の手を引いた。お小夜がこれに堪えかねて清助の方を見やった時、間髪をいれずに清助の体躯が惣一へと突進していた。

 清助は、自分が繰り出した一発目の拳と、身構えた惣一と体同士がぶつかり合ったことまでは記憶していた。しかし、そこからしばらくの間、清助の記憶は空しくなって、気がつくと清助は惣一をしたたかに打ちすえていた。

 また降り出した細雪の中で、お小夜の涙は雫となって落ちていた。

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