【小説】薄ら氷(うすらひ)

紀瀬川 沙

第1話

「草を刈るときゃよ 吉野の山で

どうぞまじりの嵐草

草を刈るときゃよ 桔梗花残せ

桔梗は女に縁の花

あれ 花が蝶々か 蝶々が花か

さてはちらちら迷わせる

さてはちらちら迷わせる」


 晩秋の蓼科の山に、一陣の風が吹いた。その風に薙げられたかのようになびいた茅萱は、今ようやく風に抗って体を起こした。先程からこの冬隣の蓼科山野に響く草刈唄は、その詞に示されている通り、木曽は吉野の地で生まれ、農民達の生業の中で伝えられている民謡である。そう遠くない過去のいつの頃よりか、ここ諏訪地方においても詞の文句をそのままに、季を問わず、草や秣を刈る作業と共に愛唱されるようになっていた。

 厳冬を目前に控え、雪国の民は今、越冬を心ならずも急いでいる。そして、精励恪勤、惜しまぬ労力を、この秋で一通り役目を終えた田畑から、枯れた草木おびただしい冬の山野へと移し替えていた。

 見れば、夏から秋にかけて人一人の腹、あるいは高いものであれば老人や子供一人を楽に隠しおおせる程に伸びきった萱の叢を、農閑期を迎えた農民達がせっせと草鎌で刈っている。農民達は一様に、晩秋とはいえ連続した労働のためにやや汗ばんだ手で力強く草鎌を握り締めている。そして、先日まで降り続いていた秋雨のなかで彼らの手によって丹念に研がれたのであろう、手元の草鎌もまた一様に陽をうけて輝く利鎌である。楓の、散り掛けてなお錦織りなしていた紅葉は、過日の秋雨にうたれ、弱いものはとっくに散り果てて、辛くも残ったものはすべて山の下方へと遁走したらしい。もはや、草刈りが行われている宏大な野と周囲の杣山には秋を彩る色彩は見られない。代わりに、かの杣山からは、樵夫達の打つ斧が木の幹を破摧する音や、伐り出した材木を運搬する男達の濁声が、谺するように聞こえてくる。

 農民達が集まって生を営んでいるこの山間の村は、東北の方角に蓼科山を仰いでいる。集落の周囲には、あたかも蓼科山が村を両腕で守護しているかのように、雲を衝くほどに高き峰が走っている。そのような地理的要因もあってか、信濃の国の内でこの集落に限っては、時々に世を蔽い焼き尽くさんとした数々の戦乱から遠ざかって久しかった。村の日常は平らかな川面を滑らかに流れているといって差し支えなかった。

 農民達の刈る草は、焚き物には勿論のこと、里での加工次第で、苛烈な冬に不足することが多い秣へ転用することも可能であった。その草を刈る農民達は大半が、矍鑠とした老人や、その着古した粗末な麻の着物の上からでも臀部における肉置きの良さを判別することのできる女子によって占められている。

 そんな中に、草刈りの作業をするには余りある膂力が体躯を一目見ても分かる、一人の青年が含まれていた。だが彼は、自らの力に不釣り合いな作業にも不満そうな顔一つせずに、老人や娘たちと一緒に、黙々と晩秋の山野に向かっていた。彼の精悍な表情には、いやらしい面などごうもうかがわれない、純粋な労働への讃美が湛えられていた。

「清助、清助や。そっちは諏訪様の御料地じゃ。勝手に入ってはならぬぞ。注意するんじゃぞぉ」

 免田清助の祖母は、草刈りのために屈めていた上体をその年齢に似合わず急に起こして、孫へと忠告した。その様は、はたから見るとまるで、一面の尾花や萱の野から忽然として現れたかのように見え、すぐ脇にて作業していた娘の、鎌を持つ手元を驚きによって狂わせた。娘が力任せに引いてしまった利鎌は、糸のように細い彼女の薬指を掠めて、後には鮮やかな紅色を残した。幸い、大事には至らなかった。

彼女のこの行動とほとんど同時に、先の忠告への応答が野に響いた。

「ああ、わかっとるよ。おれぁ、次は向こうの方をやるつもりじゃ」

 清助は、不慣れな草刈りに勤しんでいた手を一旦止めて、忠告をしてくれた祖母に答えた。そして、一度止まった手は近くの竜胆を優しく一撫でしてから草刈りに戻った。彼は今十八歳、既に年齢の上では、このような山野での草刈りではなく、向こうの杣山にて伐り出しに労力を費やす方が、集落全体の利益にはなるはずであった。当然清助自身も、村のためにそれを望んだ。現に、つい近頃までは彼も、村の年長者や朋友と共に杣山に踏み入っては材木を村へと下ろしていた。

 ところが急に、この村の方針一切を決めている、地頭の末裔徳田家の嫡男、惣一が、清助を名指しして草刈り方への助力として遣わしたのだった。惣一は、かつて地頭だった徳田家の嫡子であるが、家の現当主である父が長年病床に臥したままであったので、今や叔父とともに集落の要事一切を仕切っていた。徳田家は、諏訪大社ゆかりの諏訪惣領家による庇護を受け、権威を保っていた。諏訪氏は、古くは『古事記』中、大国主命の国譲りに際してあくまで抗戦を繰り広げた御子、建御名方神の末裔とされる氏族である。

 清助の年齢は十八、そして惣一の年齢は清助よりも二つほど上の二十であった。しかし、清助はと言うと、早生まれのこともあって二十歳の惣一に比べて遥かに幼い風情を、その顔に残していた。そして実際、清助は、その童顔にたがわず、性質まことに純朴な青年、いや少年であった。

「おおい、こっちはそろそろきり上げるぞお。もう日暮れも近い。そっちも今日はおしまいにしろよお」

 先刻から、向こうの杣山を出て、草刈り方へと歩み寄って来ていた権八爺が、裾野の真ん中で叫んだ。これを聞き取った清助は権八爺に身振りで応え、次いで、草を刈り続けている祖母へと視線を移した。しかし祖母は、矍鑠たりと言えど年齢を積むに連れて耳が遠くなっていることは確かなようで、今の権八爺の呼び掛けに反応することはなかった。この祖母の姿を見た清助は、遠くの権八爺に向かって、草刈り連を代表するように叫んだ。

「はあい、分かったあ。こっちもすぐに止めにするよお」

 清助のこの高声での返答は、祖母の耳にも届き、祖母は初めて清助の方へと直った。そして祖母は、遠くの裾野にこちらへの呼び掛けを終えて杣山の方へと踵を返した直後の権八爺の後ろ姿を認めた。

「おお、清助や、権八が何か言っておったかの」

 祖母にこう尋ねられた清助は、

「もう夕暮れも近いから、そろそろ引き返そう、だと」と、改めて伝えた。

「ほう、そうかそうか。昔より、秋の日は釣瓶落としと言うからな。今日はもうこの辺で終わりにするのが賢明じゃろ」

 祖母は、老齢の忘却の篩に掛けられてもなお残った語彙を、孫に教えるように呟いた。

「釣瓶って、井戸のあの釣瓶かね」

 清助は無知を恥じることも、卑しく隠すこともせずに、敬愛する祖母に聞いた。

「はは、そうじゃ。秋の一日は、釣瓶が引き縄を握る手を放されて、井戸の水面へ落ちる時のように早く暮れてしまうと言うことだて」

「なるほど、そうか、知らんかった」

「まあ、物は何でも、落ちる時は瞬く間に落ちるものじゃがのう」

 祖母はおどけたように笑った。

 しかし清助は真面目に考えて、

「そう言えば、おれもつい今朝方、水を汲んで井桁に置いといた釣瓶をあやまって落としちまったっけか。また一つ物知りになったなあ」と答えた。

 清助は、感懐を感懐の通り正直に述べて、その後は、刈り残しの斑な野原を見つめていた。彼が静かに見つめる野の先には、今日一日の作業では刈り尽くせなかった草が叢叢と茂っていた。無論、そのような刈り残しは明日以降、いつでも簡単に処理することが可能であった。しかし清助は、今出来ることを先延ばしにすることを嫌がった。それは、まことに彼の性質を反映していた。

「おぬしはどこまでも今のまま、素直と誠を貫くがよいぞ・・・。さすれば、きっとよいことが待っとる。きっとじゃ。わしがいなくなろうとも、覚えておくんじゃぞ」

 祖母のこの、無意識に微笑を伴って発せられた言葉は、清助の耳へと届くよりも前に、まもなく西の山脈を燃え立たせるであろう夕焼けの兆しに赤く照らされて掻き消された。

 そんななか突然、清助は思い立ったように、

「そうじゃ、お婆。おれはもうちょっと、せめてあの刈り残したところぐらいまで、今のうちに刈り切っておくよ。お婆はあの娘達と一緒に、一足先に帰っておれ」と、言うと同時に既に指差したところへと歩み始めていた。

 祖母は、母を早くに亡くした清助の面倒を長年見て来て、孫の気質を熟知していたために、あえて無理に引き留めることはしなかった。黙ってうなずいた後、一言だけ、

「遅くなって暗くなると危ないから、気をつけるんじゃぞ」と言い聞かせた。

 そして祖母は、帰り支度を終えてぞろぞろと引き返してゆく老人や娘らの列に続いて里へと向かった。労働がやんだ後、迫り来る夕闇に急かされるように帰路を辿る農民達は、一度火照ったその体のために一層寒さに苛まれ、揃って身を竦めていた。

 里へと帰ってゆく祖母と入れ違いに、清助のもとへと駆け寄って来たのが、里の娘の一人であるお豊であった。お豊は清助に追い付いて、後ろから肩にすがると同時に、なるべく陽気な様子で声を掛けた。

「清さん」

 お豊は清助に身を添えるなり、男好きのする嬌態を呈した。

「ねえ、清さん。皆もう帰るのに、まだ草刈りをやるのかえ。それなら、わたしも手伝いたい。ねえ、清さん、いいじゃろ」

 清助はやや意表をつかれた格好で、お豊のもたれ掛かりによろめきそうになった。しかし、自分の顔に必要以上に迫り来るお豊の顔を避けるように清助は身を退いた。それでもお豊は、勢いは弱めながらも、しなやかな体を清助の半身へと密に当てていた。

「お豊、いい加減にしてくれ。おれぁ、今から刈り残しの続きを済ませんだ。場合によっちゃあ、遅くなるかもしれねぇんだから。帰ってくれろ」

 彼は突っぱねるようにして言い放ち、続いてお豊を傍から引き離そうと試みた。しかしお豊は清助にしがみついたままで、はしゃぎながらこう言った。

「心配してくれとるの。ありがたいのう。今日はどうせ、皆伐り出しの作業に掛かりっきりで、里への帰りも遅いだろうから、いいんだって」

 清助は一刻も早くあの刈り残しを済ませてしまいたかったので、とにもかくにも、お豊はうっちゃって置き、自らの目的を遂げようと早足になった。

 並んで歩んでゆくうちに、お豊はようやく密着を解いて清助から少し離れていったが、離れ際に清助の鼻腔にはお豊の芳しい体臭が匂って来た。先の祖母による清助の性質への讃美はあれど、清助もまた例外なく、壮気あふるる若人である以上、お豊の匂いに蠱惑を催されないはずはなかった。

「そうじゃ、父さんの体の具合はどうなった。よくなってきとるかえ」

 お豊は呆気羅漢として聞いた。この時分にはもはや、清助の意図に反し、清助とお豊は協力者となっていた。お豊がこれまでの一連の言動を、このような結果を企図して行っていたとするならば、お豊の知謀の成功である。

「ああ、何とかな。一番悪かった時よりかは、随分とよくなってきとるよ。心配してくれて、ありがとうな」

 身内を心配してくれる女の優しさに動かされ、清助は正直に答えた。清助の父は、夏の盛りに激しい吐瀉を伴う流行り病をこじらせてから今に到るまで、ずっと病の床にいた。夏の終わりには、父は一時、生死の境をさまよったこともあった。

 お豊は、演技か否か判然としない、つつましげな悦びの様を見せて、

「それはよかったなあ。きっと、お小夜さんが村におってくれとるからじゃ」と言った。清助は当初、お豊の言葉を純粋に受け取るつもりだった。ところが、彼女の口からお小夜という名を聞いて、清助の気色には傍目にも顕証な狼狽の色が滲んだ。そして、特段反駁するようなことでもないにもかかわらず、

「な、何で、お小夜が関係あるんじゃ」と、わずかながら声を荒げた。

 これに対し、お豊は、

「だって、お前さんの亡くなった母さんとお小夜さんは、故郷も同じ。故郷とこの村を行き来する巫様でおわすことも同じ。それに加えて、村の年寄りの間の評判じゃあ、風体も瓜二つなんだと」と、清助を鎮めようと微笑みながら語った。この時のお豊の、瞳に夕陽を宿した様は、相対する者が清助に非ずんば、嗜虐的な性質の顕れを思わせる様子に見えたであろう。

 しかし、清助はそのようなことには思いも及ばず、

「そうか、そういう意味か」と、やや取り乱したことを恥ずかしがりながら優しく言った。

 清助は、お豊と徳田家の惣一が徳田家の屋敷の離れや、果ては村の外れにある、今や新築の社へ御霊を遷して久しい鎮守の旧い社においてさえ、逢引きを重ねていることを知っていた。彼は嫌忌の念をもって、この村の公然の秘密を黙認していた。

「惣一様の御心までも、占って盗らなきゃいいんじゃがの」

 不信心にこう呟いたお豊に、清助は、

「何を言っとる。おぬしは、お小夜がこの村に何しに来とると思ってるんじゃ」と諭した。しかし彼は同時に、自身の心のどこか隅のほうを、名状しがたい侘びしさに浸蝕されていることを確かに感じた。

「夕方には、もうめっきり寒いのう」

 心を一度入れ替えようとするかのように清助は、今の今まで全身に降り注いでいた、目を劈くように照る夕日の赤光を、馬手で遮りながら遠目に独りごちた。

 清助が何気なく視線を下ろすと、その先にはお豊の手の甲があった。彼女の手は白妙に光り、扁爪には垢だけでなく泥沙すら入り込んではいなかった。目指していた刈り残しの地まで、もう目と鼻の先の場所まで来ていた。清助はやおら、終日草を刈った後の、泥だらけになった自らの手を瞥見し、その手を軽く握り締めた。この付近には水路はおろか、いさら川すら存在していなかったので、清助には、お豊が一度泥にまみれた手を洗い流しているとは考えにくかった。途端に清助は、労働を厭うお豊の懈怠な性格を戒めてやりたい心を起こした。

 しかし、お豊はそんなことは露知らず、事も無げに、清助にとっては余りにも残酷であることを言ってのけた。

「まあ、もうすぐ長い冬が来る。寒さでもってあの氷の路が塞がるその前に、お小夜さんは故郷へ帰るだろ。そうなりゃ心配はいらんね」

 お豊のこの弁を耳にした清助は、これこそ反駁して否定したかった。だが、お豊の言ったことが決して避けることの出来ない将来であると自分でも分かっており、ぐうの音も出なかった。

 彼自身の村と、お小夜の故郷の村とをつなぐ唯一の山道、『氷の路』と慣習的に呼ばれる一縷の道が、冬の時期に一夜にして雪と氷が造形する天然の袋小路になってしまうことは、清助も毎年の経験から理解していた。さらには、その氷の路が古来神の通い路として、一握りの神憑りの者の交通を除いては、ただびとの立ち入りは堅く禁ぜられていることも重々承知していた。そして、氷の路の再びの開通には、春の雪解を待つ他ないことも清助には分かっていた。彼はようやく、お豊への相槌を思い出し、

「ああ、寒い、寒い冬が来るなあ・・・」と、陰鬱な調子で答えた。ところがこの言の葉は、遽然吹きすさんだ寒風によって、遙かにそびえる蓼科山へと連れ去られた。

「雁の列じゃ。ほれ、あすこ」

 お豊は、赤焼けの上空を淡海の方角へと飛びゆく雁行を指して清助に示した。

 ところが清助はと言うと、雁行には目もくれずに、雁の飛びゆく方角の空とは真逆の、入相の蓼科山へと帰る白鷺と黒鴉をただうち眺めていた。

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