終章
今日も電子ピアノを両手でもって、烏山歌穂は富士駅に向かう。代金がないから、乗り物には乗れず、歩いて持っていく。駅前広場について、スタンドを組み立て、粗末なパイプ椅子を置いて、電子ピアノをスタンドの上に置く。今日は、杉ちゃん来るのかななんて、一瞬思ったけれど、人には頼っちゃいけない。何とか自分の力で、演奏を盛り上げるようにしなければ。そう思いながら、今日もピアノを弾いた。曲は、今回はとっつきやすい曲にしようと思って、アントン・カラスの第三の男を選んだ。
多分、エビスビールの宣伝の曲だから、みんな知っていると思ったけれど、誰も振り向きはしなかった。歌穂は、それでも、演奏を続けた。それしか、今、自分にできることもないということはよく知っていたから。
「歌穂さん。」
演奏し終えると、杉ちゃんの声がした。
「今日もよくやってたな。」
振り向くと、杉ちゃんと花村さんがたっている。
「なあ、今日は、お時間あるか?」
杉ちゃんにこう言われて、ええ、とりあえずあります、と歌穂は答えた。
「そうですか。だったら、ちょっと来てもらいたいところがありまして。ピアノのレッスンというわけではないんですけど、ぜひ、演奏を聞いてみたいという方がいるものですから。」
花村さんは、にこやかにそういうことを言った。
「そんな、僕には、誰かに聞かせるくらいの腕前はありませんよ。」
「だって、この駅前で色いろやっているじゃないかよ。」
歌穂がそういうと、杉ちゃんがすぐに言った。
「それがクリアできるっていうことは、人に聞かせる腕前だってあるってことだぜ。ほら、タクシー呼んであるから、持ち物をすべて持って、一緒に行こうぜ。」
杉ちゃんは、タクシー乗り場を顎で示した。
「わかりました。」
歌穂は、急いで、ピアノを袋に入れ、スタンドと椅子を折りたたむ。花村さんに手伝ってもらって、大型タクシーの中にそれを入れた。そして、杉ちゃんと花村さんが、運転手に手伝ってもらって、タクシーの中に乗り込んでいくのを確認して、自分はタクシーの助手席に乗った。
「ほんじゃあおじさん。大渕の製鉄所までのしてってくれ。」
と、杉ちゃんが言うと、あいよ、と運転手さんはタクシーを動かし始めた。見たことのない風景の間を走っていくので、歌穂はちょっと不安そうな顔をしたが、
「大丈夫だよ。帰りも、ちゃんと、お前さんを送っていくからな。」
と杉ちゃんに言われて、ちょっと安心した。
タクシーは、大きな日本家屋風の建物の前に来て止まった。急いで杉ちゃんが運転手に手伝ってもらってタクシーを降りる。歌穂がピアノを出そうとすると、
「ああ、ピアノならいらないよ。グロトリアンのピアノを貸してやるから。」
と杉ちゃんに言われてまたびっくりする。グロトリアンなんて、相当なピアノマニアでなければ知らないメーカーだ。音大生だって、弾いたことのない人が多いのではないか、と思われる。
歌穂は、花村さんに言われて、中に入った。先日杉ちゃんと一緒にいた、今西由紀子が出迎えた。由紀子に挨拶をすると、こっちへ来てくれという。ずいぶん長い廊下を、きゅきゅ、と音を立てて歩き、由紀子は、彼をある部屋へ連れて行った。
「失礼します。」
と、歌穂がふすまを開けると、部屋の中には、一人の男性が、布団の上に座っていた。その隣に、グロトリアンのロゴが書かれたピアノが、占領しているトドみたいに寝そべっている。そして、布団に座っていた男性は、歌穂もどこかで見かけたことのある顔だった。げっそり痩せて、痛々しい風情だけど、確かに、見覚えのある顔だ。
「あ、あの、もしかして、右城さんではありませんか。右城水穂さん。違いますか?」
歌穂は思わずそういってしまう。
「ええ、確かに右城は僕の旧姓ですが、どうしてそれを前もって、知っているんです?」
水穂さんが尋ね返した。
「あ、はい、若いころ、演奏を聞かせてもらったことがあったんです。確か、ソナタとかやってましたよね。あの、ゴドフスキーの。そうですよね。」
「まあ、そういう自己紹介は後にしろ。それよりも、お前さんの18番を、こいつに聞かせてやってみてくれ。」
歌穂が言いかけると、杉ちゃんがそれをさえぎるように言った。
「ちょっと待ってくださいよ。18番なんて、そんな自信をもってできる演奏はありません。それに、僕と右城さんでは、天と地の差があるくらい全然違いますよ。」
「バーカ!それをうまく使うんだよ。えらい奴に、聞いてもらえるなんてめったにないじゃないかよ!さあ、早くピアノに向かってやったやった。屁理屈は、演奏した後だ。いや、演奏すれば自己紹介も何もいらないよ。」
「そうですね、、、。」
杉ちゃんにそういわれて、歌穂は、すこし考えて、
「じゃあ、平均律の第一番でよろしいでしょうか。」
といった。
「まあ、難しい理屈は抜きだ。さっさとやってみろ。」
「はい。」
杉ちゃんに言われて、歌穂は、こわごわピアノの前に座る。駅前広場で演奏するよりずっと緊張して、演奏をした。なんだか、一人で弾くときは、恐ろしいほど単純な曲だと思っていたのが、今ここで弾くと、とんでもなくむずかしい曲になったような気がした。それに、電子ピアノよりも、本物のグロトリアンのピアノは、鍵盤が重たくて、なかなかうまく押せなかった。
それでも何とかして、グロトリアンのピアノで、平均律グラビーア曲集の第一番を弾いた。
弾き終わると、水穂さんも拍手をしているのが見えて、
「す、すみません!こんなへたくそな演奏で、申し訳ありませんでした!」
と思わず言ってしまうが、水穂さんはいいえ、と黙って首を振った。
「何もへたくそじゃないですよ。よくできているじゃないですか。」
水穂さんはにこやかに笑った。
「よくできてなんかいませんよ。僕の演奏は、右城さんに比べたら、何もなりませんよ。そんな、立派な方からお褒めの言葉をいただけるなんて、無理なことに決まっていますから。正直に言ってください。こいつはとても下手だって。」
歌穂は、そういうことを言った。
「あのなあ、もうちょっと素直になったらどうだ?」
と、杉ちゃんが、大きなため息をついた。
「だったら、ここにいるやつら全員に聞いてみよう。こいつの演奏が下手だと思ったやつは、正直に手を挙げろ。」
誰も手を挙げなかった。由紀子も花村さんも、そして水穂さんも、にこやかに笑っている。
「ほらあ、見ろ。誰も手を挙げないだろ。その通りだと思えよ。なあ、みんな。こいつの演奏うまかったよな。」
「そうですね。」
と、水穂さんが言った。歌穂は、ヒヤッと全身が冷たくなる。この人に、批評されたら、もう身の破滅のようなものがある、というくらい、この人は、ものすごい立派な演奏家だということを知っていたから。
「ただ、向き不向きの作曲家だっていますよね。ベートーベンは確かに重要なレパートリーだと思うんですけど、ちょっと、その柔らかいタッチでは、難しいかなと思うんです。」
水穂さんは、音楽の専門家らしい話を始めた。
「だから、そういうものではなく、柔らかい曲をやればいいと思うんです。グラナドスの演奏会用アレグロとか。あ、あの、批判しているわけではないんですよ。ただ、向くか向かないかだけですから。誰だって、向き不向きはありますよ。出なければ、こんなに何十人も、ピアニストがいるわけないでしょうから。」
「なるほど、グラナドスの演奏会用アレグロね、よし、やってみてくれ。」
と、杉ちゃんが単純にそういうことを言った。
「だけど、譜面がないと弾けませんよ。」
歌穂が言うと、
「ああ、そこの本箱にある楽譜を勝手に出して、弾いてみてくれ。」
と杉ちゃんが言った。そんなこと言ってもいいだろうか、と歌穂は思ったが、本箱に由紀子が手を伸ばして、
「これでいいのかしら?」
と一冊の楽譜を取り出した。確かにグラナドス全集と書いてある。由紀子から楽譜を渡されて、歌穂は、先ほどよりもさらに緊張しながら、演奏会用アレグロを弾き始めた。
弾き終わると、さらに大きな大拍手が飛ぶ。
「なかなかいいじゃないですか。こっちのほうがずっと、若い人にはやりやすそうですよ。」
花村さんが言った。
「そうでしょうか。」
と歌穂が言うと、
「ええ、あたしは音楽に関しては素人ですけど、でも、素敵でしたわ。」
と、由紀子も言った。
「ただ、もう少し、伴奏を柔らかくした方がいいと思いましたけどね。それは改善の余地がありますから、大丈夫でしょう。」
と、水穂さんが言った。それはきっと、自分に改善ができるということだ。だから、そういってくれたのだ。
「でもよかったじゃないか。水穂さんに聞いてもらえたんだからよ。今度はぜひ、グラナドスを駅前広場でやってね。よろしく頼むぜ。」
杉ちゃんにそういわれて、歌穂は顔を赤くした。
「本当にありがとうございました。今日はわざわざ、演奏を聞いていただいて。」
歌穂が水穂さんに向かってそういうと、水穂さんは、返事をしなかった。返事をする代わりに激しくせき込むのだった。由紀子が、これを見てすぐに背中をたたいて、出すものを出しやすくしてあげている。そして、由紀子が当てがった布が赤く染まっているのを見て、歌穂も、水穂さんがどうして演奏業界から姿を消したのか、なんとなくわかってしまった。本当は、すぐ治るはずだけど、そうしなかったのは、きっと人には言えない重い事情を抱えているということもわかったので、歌穂はそのことにはついては、何も言わないことにした。
「お体、お悪いのに、わざわざ演奏を聞いてくださって、申し訳ありません。体を大事にして、しっかり治して下さい。そして、また、僕たちに演奏を届けてください。」
「バカだなあ、そういうことはもうこいつにはできんのだ。だからお前さんがそういうことをするんだよ。」
杉ちゃんに言われて、歌穂は、え、と、思わず言った。
「そうですよ、そのくらい実力はおありなんですから、もう、駅で演奏するのはやめて、どこか別の場所で演奏されたらいかがですか?」
花村さんに言われて、歌穂は、でも、という顔をしたが、
「やり方は色いろありますよ。例えば、動画サイトに演奏を投稿することもできますし、どこかのイベントに参加させてもらうことだってできるでしょ。あるいは、どこかの施設に、慰問させてもらうことだってできるはずです。あるいは、ピアニストを募集している合唱団と探すとか、方法は色いろあるはずですよ。ピアノは、僕たちがやっているお箏と違って、みんなが知っている楽器だから、それを強みにしていけばいいんです。」
「そうですか、、、。でも、自信がないです。」
小さくなってしまう歌穂だが、
「いや、それだけ弾ければ大丈夫さ。だって、少なくとも、僕たちを動かすことはできたんだからな。人間を動かすのは、鉄の塊を動かすよりも難しいよ。」
と、杉ちゃんに言われて、歌穂はさらに顔を赤くした。
「でも、僕、一度ピアノ演奏で、失敗しでかしているので、、、。」
「そんなもん、人間だもん、一度や二度はするさ。でもな、機械とは違うところは、人間は、二度と同じ失敗をしないようにと考えることができるということだ。」
杉ちゃんに言われて歌穂は、わかりました、といった。同時に水穂さんの発作がやっと治まって、せき込む音が、だんだん静かになった。それを見て、歌穂は、右城さんには失礼かもしれないが、少なくとも自分はこんなことをするほど、悪くなってはいないということに気が付いた。そう、自分の体はまだ動けるのだ。よし、それでは、体の動く限り、音楽を続けよう!と彼は心に誓ったのである。
「あの今日はありがとうございました。お辛いのに、演奏を聞いてくださって、本当にすみません。」
歌穂は水穂さんにそう語りかけたが、水穂さんは返答しなかった。もう、発作のため、疲れきってしまったのだ。由紀子に、横にならせてもらって、かけ布団をかけてもらって、すやすや眠り始めてしまったのである。
「目が覚めたら、本人に伝えておきますね。今日は、お帰りのご挨拶ができなくて、本当にごめんなさい。」
由紀子がそういうと、歌穂は、ええ、ありがとうございます、と言って、四畳半を後にした。
一方そのころ。蘭の家では。
「さて、今日は仕上げですね。もうしばらく僕のところに通うことはないと思うけど。多少色が落ちたりすることはあるので、その時に来ていただければ。」
と、蘭は、仕上げ用の細い針を取った。玉船優子は、いつものように、台の上に寝そべって、蘭の施術を待っている。
「よろしくお願いします。」
と言われて、蘭は、はいと言い、彼女の背に針を刺した。もう麒麟は八割くらい出来上がっていた。後は微調整だ。色の濃い薄いを確認して、麒麟像をよりはっきりと浮かばせることである。
相変わらず、彼女は針を刺しても何も痛がらなかった。女性にしては珍しい方だった。それほど、学校の先生に殴られたのがいたかったのだろうか。
「それにしても、彫って一度や二度は、激痛で泣くんですけど、ほとんどそれがありませんでしたね。」
蘭は、針を刺しながら、彼女に言った。
「ええ、だって、学校の先生に物差しでぶったたかれた時のほうが、痛かったわよ。誰も、そのことをわかってくれる人は、いなかったわ。」
と、予想通りの答えを彼女は出した。
「そうですか。それでは、あの、レズバーのママも、あなたのことをわかろうとはしなかったんですか?」
と、蘭は聞いた。
「ええ、まあ、優菜さんは、どうだったのかな。」
と、彼女は言葉に詰まった。
「だって、一応、あなたのことを好きになってくれたわけでしょうに。それを、あなたは、わかろうとしてくれなかったと答えるんですか?」
蘭がもう一回聞くと、
「ええ、優菜さんは、あたしのことを好きになってくれてた。でも、あたしは、あの人の持ち物になってしまうのは、ちょっと困った。あたしは、あの人のそばにずっといられるわけではないし、意思があって、ちゃんとテレビでやっていきたいと思っていたのに。でも、彼女は、そういうことを望んではいなかったの。あたしが、演歌歌手になるのではなくて、あたしが、あの人のそばにいることを望んでいたのよ。」
と、優子は答えた。
「つまり、ずっと一緒にいろということですか?好きになれば、そりゃ、誰だってそういうことを感じるでしょう。」
と、蘭が聞くと、
「ええ、そうなんだけどね。あたしは、あの人のそばについて、ずっと何かしようというのは、ものすごく苦痛だったのよ。素敵な人ができてくれるといいなとか、よく彼女は言ってたけど、そこらへんの意味が私もよくわからなくて。それではあたし、永久に彼女の持ち物になってしまうのかなって。優菜さんが、ずっとずっとそばにいてって言ったとき、もうあたしは、あたしとしての人生を歩けなくなっちゃうのかなって、不安になってた。」
おそらく彼女は、愛情というものについてちょっと勘違いをしているのかな、と蘭は思った。別に優菜さんは、彼女を四六時中そばに置いておきたいなんてことは、思わなかったはずだし、自分の持ち物にしようとか、そういう気持ちもなかったはずだ。
「それに、優菜さんは、レズバーのほかの女の子たちにもあたしのこと紹介してね。あたしは、まるで高級ブランド品のバックみたいに、レズの女性たちの前で縮こまっていなければならなかったのよ。そんなの、いやでしょう。あなただって、経験あると思うけど、人ってのは、どうしても所有物を自慢したくなっちゃうものなのかしらね。そんなにほかのレズの人の前で、自分のものを見せびらかして、楽しかったのかしら。あの人は。」
「なるほど、、、。」
蘭は、玉船優子の話を聞いて、彼女が服部優菜さんを殺害した理由がわかるような気がしてきた。
「それで、あなたは、優菜さんが、あなたのことを好きと言っても、素直に受け取ることができなかったわけですか。」
「そうね。だって彼女はおかしかったもの。いくら何でも、あたしを自分の自慢の一品にしか見ないのは、どう見てもおかしいじゃない。あたしは、ものじゃないんだもの。自慢の骨とう品とか、そういうものじゃないのよ。ずっとそばにいてほしかったら、信楽焼でも買えばそれでよかったのよ。」
玉船優子は、そういうことを言うのだが、誰もそれを是正する人がいなかったというのに、蘭は驚いてしまった。でも、すぐに納得した。彼女は、おそらく、社会でしっかり愛情を受けていないのだ。きっと、学校の教師に物差しでぶったたかれるような愛情しかもっていないのだ。だから、服部優菜さんが、しっかり愛していると言っても、彼女は受け取れなかったのだろう。それで、変な風にしか、愛情を受け取れなかったのだ。
「そうですか。でもですね。きっと優菜さんは、あなたを自慢の一品にしようとしたわけじゃないと思います。だって、あなたのこと、愛してくれたんですもの。そうでなければ、あなたのことを、好きだなんて言いはしませんから。」
と、蘭は、彼女に針を刺しながら、静かに言った。
「まあ、先生は、私のことを間違っているというのかしら。」
「ええ、間違っています。」
と彼女に蘭は、きっぱりといった。
「でも、あなたは、そういう愛情しかもらってないのですから、今回のことは仕方ないのかもしれません。でも、これからは、麒麟と一緒に生きるわけですから、もうあなたは前とちがっていると思ってください。」
「そうね。」
蘭にそういわれて、彼女はちょっといやそうな顔をしながら、なにか考えたような顔をした。
「いいえ、あたらしい自分になるんですもの。罪をちゃんと認めて、償って、ちゃんと愛情を確認できるような、人間になってもらわないと。今日の麒麟はその第一歩です。頑張ってください。」
「わかったわ。」
彼女は理解したのかしないのか、わからないような顔をして、そういうのであった。
「頑張って生き抜いてくださいね。」
と、蘭は、どうか彼女に、途中で投げ出すことのないように、と願いを込めて最後の針を抜いた。
ひも 増田朋美 @masubuchi4996
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