第四章

その日も、歌穂は富士駅でパフォーマンスの準備をしていた。今日もどうせ誰も振り向いてくれはしないだろうなと思うけど、自分にできることと言えば、こういうことしかないのだから、やるしかなかった。たとえそれが社会的に低いとか、やってはいけないとか、お金にならないとか言われても、そうするしかできることもなかったから。

とりあえず、電気ピアノをスタンドにおいて、粗末な椅子に座り、譜面を準備して、曲を弾き始める。

今日は、ベートーベンのテンペスト。あの時、ぜひやってみてくれと杉ちゃんから言われた曲だ。

どうせ誰も、自分の演奏には振り向いてはくれないとはわかっているけど、そうするしかできることもないのだから、なんて言い聞かせながら、ピアノを弾く。

「いやっほ。」

ふいに声がして、歌穂は演奏を止めて、後ろに振り向いた。

「やっほ。今日は、いい感じで演奏しているじゃないか。」

後ろにいたのは、杉ちゃんと花村さんであった。

「今日は、私も、演奏していいですか?」

花村さんがそんなことを聞く。歌穂が、どうしようか、迷っていると、花村さんは、地面にレジャーシートを敷いて、そこに箏を置いた。そして、レジャーシートの上に正座で座って、手早く琴柱を立てて、平調子を作る。

「それでは、やってみましょうか。私が弾くのに合わせて、即興で伴奏してくれればそれでいいですから。」

花村さんは、そういって、お箏を弾き始めた。いわゆる、桜桜である。実に単純な旋律であるが、伴奏次第で素晴らしいものでもある。

歌穂は、花村さんの演奏に合わせて電子ピアノを弾いた。花村さんの旋律に合わせて、自身は分散和音を奏でる。なんだか桜桜が、ものすごい幻想的な雰囲気の曲になっている。

とりあえず、最後の節まで、桜桜を弾くと、花村さんは、その変奏を弾き始めた。桜変奏曲、実に見事な演奏だった。

その花村さんの変奏を聞いて、多くの人が集まってくる。花村さんが技巧的な桜桜変奏曲のカデンツァを弾き始めると、集まってきた人たちは、すぐに拍手をした。

「では続きまして、ピアノの演奏をお楽しみいただきましょうか。曲はベートーベンのテンペストです。」

花村さんがそういうと、歌穂はありがたい挨拶をもらったとばかりに、テンペストを弾き始めた。集まったお客さんたちは、興味深そうに彼の演奏を聴いてくれた。そして弾き終わると、全員で拍手してくれた。歌穂は、とてもうれしくなって、ありがとうございます!と、深々と頭を下げた。

お客さんたちは、歌穂に1000円札を渡して、いい音楽を聞かせてくれてありがとう、なんて言いながら去っていく。中には次はいつやるの?といってくれるお客さんも一人か二人いた。いつやるかなんて、何も決めていなかったけど、こんなにいい気分で路上ライブしたのは、歌穂は本当に久しぶりだった。

「歌穂さんよかったな。今日は、いい人と一緒にできてさあ。」

楽譜を片付けている歌穂に、杉ちゃんが声をかけた。

「ありがとうございます。久しぶりに、楽しい気分で、路上ライブできました。」

「よかったな。お客さんも楽しんでくれたと思うよ。音楽って一人でやるのも楽しいけど、二人でやるとなればもっと楽しいだろ。」

「そうですね。」

杉ちゃんの言葉に、歌穂はうれしそうな顔をする。

「本当は、ずっとこれが続いてくれればいいんですけどね。」

「ええ、そうでしょう。私も、何か用がない限り、協力しますから、一緒にやりましょう。」

歌穂がそういうと、花村さんが言った。

「そんな、花村先生は、ご自身のすることがあるでしょうに。」

「もちろん、それは誰でもあります。私も、スケジュールは合わせますから、電話か何かして、連絡を取りあいましょう。これが、私の連絡先です。」

そういって花村さんは、連絡先の書かれた名刺を渡した。

「すごいですね。花村先生は、やっぱり名刺を持っているんですか。」

「いいえ、大したものではありません。ただ、連絡先をお教えしたかっただけのことです。そのために、もっているだけのことです。」

花村さんはにこやかに笑った。

「ああ、じゃあ、ここに書かれている、ラインのQRコードを読み取れば、いつでも連絡できますね。」

歌穂は、名刺のQRコードを指さした。

「ええ、そこで連絡を取ってください。私も、つながるようにしますから。それで、次の演奏のこととか、何か、相談事でもありましたら、いつでも連絡をくださいませ。」

と、花村さんがそういうと、

「おめでとう!友情成立!」

と杉ちゃんがからかうように拍手をした。

「ええ、演奏のことだけでなくてもかまわないですよ。何か悩んでいることがあれば、何か、おっしゃってくれれば、私もお力になります。」

「花村さん、なんだか友達というより、保護者みたいだね。」

杉ちゃんがからかうと、

「いいえ、私たちは、若い方のお力になるような態度で接しなければなりません。このような世のなかを作っていたのは、私たち、年長者なんですから。その責任を放棄するようなことはしてはなりませんよ。」

と、花村さんは言った。

「いいなあ、音楽ってそうやって仲間を増やしてくれるんだからなあ。僕もうらやましいよ。そういうことをできるんだから、やっぱり楽しいだろうな。」

杉ちゃんがうらやましそうに言う。

その数日後、花村さんと歌穂は、二人で駅前広場で演奏をした。曲は、六段の調べを編曲したもの。二人の息はぴったりだ。見事な演奏になっている。その演奏を聞いて、周りのひとも興味を持ってくれたのか、彼らの演奏を聞きに立ち止まってくれた人も、結構見られる。

そして、演奏終了後に、お金をくれる人も増えてくるようになってきた。

演奏し終わると、歌穂と花村さんは、駅近くのカフェに行って、お茶を飲むこともできるようになった。カフェの入り口に立てかけられている、電子ピアノと箏は、二人を優しく見守ってくれる、まさしく保護者のように見えた。

「じゃあ、次回は、七段の調べをやってみましょうか。よろしくお願いします。」

と、花村さんがにこやかに言うと、

「花村先生、ほんとにいいんですか。僕のような、全然無名のものに、手を貸すなんて。」

と、歌穂は言った。

「いいえ、大丈夫ですよ。私は、お手伝いをしているだけですもの。音楽を志す若い人で、真剣であれば真剣であるほど、音楽は遠ざかってしまうことは知っていますからね。私は、その距離を縮めようという役目をしているんです。そう思ってください。」

花村さんがにこやかに言うと、

「でも、こんなえらい先生が、僕みたいな、ちっぽけな人間に手を出してくれるなんて、申し訳ありません。それを、何とか手を借りないで、自分でやっていくのが一番なんじゃないかって、なんだかそんな気がして。」

と、歌穂は、花村さんに申し訳なさそうに言った。

「ええ、確かに、申し訳ないとお思いになるかもしれませんが、私は若い時はえらい人のしんがりになってもいいと思います。確かに、その通りにしたままでいるのは、ちょっと大変かもしれませんが、若い人はそのままでいるのが一番いいと思われます。確かに、自分で何とかとか言いますけど、ほとんどできることはないですから。」

花村さんは、親切な顔をしてそういうことを言った。でも、歌穂は、なんだか申し訳なさそうな顔をしている。

「でも、やっぱり人間ですから、一人で生きていけないとだめなんじゃありませんか。自立していなければ、ダメな人間だって、皆言うじゃないですか。」

「自立することと、共演することは違います。勘違いなさらないでください。」

歌穂がそういうと、花村さんは言った。

「大丈夫ですよ。若いというのは、誰かに頼っていい時期なんです。それを無理して一人で生きようとするから、大変になるんじゃありませんか。」

「でも、、、。」

歌穂は、体を小さくして、そう縮こまった。

「いいえ、大丈夫です。そんなこと、気にする必要はありません。」

花村さんがそういうと、ウエイトレスが、ケーキをもってやってきた。あれれ、ケーキなんか頼んだ覚えはないのに、と言おうとすると、私が、頼んだんです、と花村さんは言う。ケーキをたべると言うのは、本当に久しぶりだ。なんだか感激してしまって、歌穂はケーキにかぶりついた。


その一方で、蘭は、玉船優子の色入れを行っていた。色入れというと、筋彫りよりも痛くないとされているが、彼女は、まったく痛いとも何も言わなかった。

「よく平気な顔をしていられますね。やっぱり、学校の先生に殴られた方がもっと痛かったですか?」

と、蘭が針を刺しながら聞くと、

「ええ、平気ですよ。もうひどいもんだったわ。あの学校の先生ったら、靴を脱いで、その靴で生徒の体をたたいたこともあったのよ。」

と、彼女は、そう答えた。

「はああ。そうなんですか。」

「だから、痛いなんて、この程度では感じないわ。痛いなんて、学校でされたひどいことに比べれば、何もないわよ。」

「そういうことに、なるのなら。」

と、蘭は彼女に言った。

「そのこと、誰かに伝えてあげようとか、そういうことは思いつきませんかね。自分だけの悲劇の材料にするのではなく、誰かに教訓として、伝えてあげることが、一番必要なんじゃないかと思うんですが。」

「いいえ、そんなこと、伝えるなんて、何になるのよ。」

と、彼女は、声をちょっとあらげていった。

「それでは、そういう気持ちにはならないのですか?」

「ええ、ならないわ。だって、あたしが、何回もひどいことをされたって、家族や友人に言っても、そういうことはすぐに忘れろとか、そういうことばっかり言われるのよ。そのやり方はどうしたらいいのかなんて、誰も教えてはくれないわ。忘れるなんて、どういう風にしたらできるのかしら。だから、周りの誰かなんて、信じちゃいないわ。周りのひとなんて、どうせ、自分だけカッコつけたいだけなのよ。本当に悩んでいる人に、答えなんか出してはくれないわよ。どうせ、人のこと、助けようなんて気持ちは、誰も持ってなんかいないのよ!」

それが彼女の本当の気持ちなんだと、蘭は思った。それを受け止めてくれる、悲しい気持ちを受け取ってくれるような人がいたら、もしかしたら彼女は、不幸な目に合わなかったのかもしれない。

「それで、服部優菜さんが、あなたに近づいてくれたんですか。」

蘭は、針を刺しながら、思わずそういってみた。

「ええ、まあ、最初はね、女同士で愛し合うなんて、よくわからなかったのよ。でもね、男は、どうせ、あたしのことを、人間としてみるのではなく、単に性的な道具としか見なかったから、優菜さんと付き合ってみようかなと思ったの。」

と、答える彼女。蘭は、この話に嘘はないと確信した。針を刺している間、嘘をついた客は一人もいない。それは、長年刺青師の仕事をしてきた経験が、そういっている。

「じゃあ、服部優菜さんと、関係を持ったということなんですね。」

「ええ、まあ、そういうことかな。女どうしっていうのもいいかなって思って。」

と、優子は答えた。

「毎日、服部さんの家に通ってね。仕事で疲れたこととか、全部彼女に聞いてもらったりして。初めは、演歌歌手だったから、仕事が楽しくてしょうがなかったんだけど、ニュースなんでもに出るようになってからは、仕事がずいぶん変わったの。だから、あたしは、何回もないたのよ。でも、ほかのひとには、なんでそんなにのろのろしているだって、ずっとぐちぐち言われっぱなし。テレビのスタッフも、誰も、みんな私のことを、ただのゴミだと思ってたわ。そういうことを、みんな、服部さんに話してた。服部さんも何でも聞いてくれたけど、でもあたしはどこか満たされないところがあった。」

「満たされなかったって、何が?」

蘭は、また針を刺しながら、そう聞いてみた。

「そうねえ、あの人、仕事の話は、よく聞いてくれたけど、あたしの過去のことは、ほとんど相談に乗ってくれなかったわ。そういうことはしっかり忘れて生きていくようにって、そういうことを言うしかやってくれなかった。あたしはただ、つらかったね、とだけ言ってくれればよかったの。なんでもいいから、あたしの過去を、そういってくれる人が欲しかったの。でも、みんな、忘れろとか、そんなこと気にするなとか、そういうことしか言ってくれないのよ。どうしても、あたしが本当に欲しいものは、手に入らないじゃないの。」

これが彼女の核心部分だと蘭は思った。たった一人だけでいいから、彼女の話を受け取ってくれる存在があったら、彼女はこういう風にひねくれてしまうことはなかったと思う。いや、もしかしたら、そういう人はいたのかもしれない。でも、彼女には真剣に自分と向き合ってくれているようには、見えなかったのかもしれない。蘭は、彼女は、後者の方が、強かったのではないだろうか、と、思った。

「それで、服部さんを自殺においやったということですか?」

蘭は、そう聞いてみる。さすがに、殺害したのかということは聞けなかった。

「ええ、だってあの人、あたしのこと、気が違っているというものだから。」

と、彼女は答えた。

「気が違っている?」

「ええ、そうよ。あたしが、そうなったから。あたしが、死にたいって、叫んだから。あたしは、時々そういうところがあるのよね。どうしても自分の感情をうまく処理できなくて。」

と、彼女は言った。真偽は不明だが、彼女は情緒不安定なところがあるのかと思った。芸能人となった者には、人との約束を平気ですっぽかすなど、変なところがある人は結構いると聞いたことがある。心というか精神を病んでしまう俳優とか、女優もたくさんいる。彼女、つまり、玉船優子もそうだったのだろう。

「そうですか。あなたも、不遇な運命だったんですね。あなたのことをちゃんと認めてくれる存在があれば、そうはならなかったのかもしれない。」

と、蘭は言った。

「でも、先生だって、きっと自分のことしか考えてないでしょ。心から、あたしのことなんて考えてくれる人なんて、どこにもいやしないわよ。どうせ私は、ただの芸能人として、終わりまでこき使われるだけよ。そんなことは、わかっているはずじゃないの。もう誰も、あたしが望んでいることを実現させてくれる人はいないわ。もう自分が忘れるしかないのでしょうけど、過去を忘れる方法なんて、何もないし。」

そうなのかもしれない。というか、そういうこともあるだろう。ほとんどの人は、そういう忘れられないことを背負って生きていくのが常だ。でもそれを実現出来る人とできない人がいるというのは事実のようである。

「そうですね。それを背負ったまま生きていくしかないんだと思いますが、でも、あなたの望みも、うちに来るお客さんたちはみんな言います。彼女たちは、皆、そういうことはできない人たちだけど、一生懸命、やろうとしてそのために、朱雀とか、玄武とかそういうものを彫るんです。だから、あなたも、そういうことを、考えて生きて行ってくれませんか。僕は決して、あなたのことを、半端彫りにはしませんから。」

と、蘭は、そういって、彼女の背に刺さった針を抜いた。

「そうですね。あたしも、半端彫りにはしないわよ。あたし、完璧主義だから、中途半端が最もいけないと思っているわ。」

彼女は、そういって、額の汗を拭いた。

「ははあ、やっぱり痛かったですか。それでは、あの、学校の先生に殴られた時と同じくらいですか?」

と蘭が聞くと、

「まあね、痛かったわよ。」

と、彼女は答えた。

「それでは、これをですね。新しい自分になるための痛みとしてもらえないでしょうかね。何度も申しますが、入れ墨というのは、彫ったら二度と消せません。つまり、入れる以前の自分にはいやでも戻れないということです。だから、それを頭の中に入れて、生き抜いてほしいんです。僕は、彫るときに、それをいつも言い聞かすつもりで、一生懸命彫ってます。」

と蘭が言うと、彼女は、

「そうね、、、。確かに彫ったら、二度ともとには戻れないわね。」

といった。

「そうですよ。だから、もう二度と前の自分には戻れないんですよ。彫る前の自分には。もうあなたの背中には、麒麟がしっかり入っています。だから、この時点で、もう新しい自分になっているんです。それを、考えてください。内面を変えることは難しいけれど、外見を変えることで、内面も一緒に、ほんの少しだけ変えることはできるんだ。だから、そう思ってください。僕たちは、そのお手伝いをしたいから、施術をしているんです。僕はね、それが、人が入れ墨をする一番の理由だと思っているんですよ。」

蘭に言われて、玉船優子は、ちょっと考えるような顔をした。

「さて、今日も四時間突きました。また一時間二万円で、それで、四時間分となりますと。」

と、蘭がそろばんをはじいていると、

「そうね、ちゃんと現金で払いますから、心配しないで。」

と、彼女はまた膨らんだ財布から、一万円札を八枚取り出した。

「わかりました。ありがとうございます。領収書を書きますからね。」

と、蘭はそういって、領収書を書いた。へたくそな字だったけれど、彼女はにこやかに笑って、それを受け取る。

「じゃあ、今度は仕上げですね。それが済んだらもう、麒麟の絵は完成します。そうしたら、もうあなたは違う自分になっている。それを自覚して、新しい自分になってください。」

蘭は、そういって、服を着ている彼女を見つめた。ジャージ姿だったけど、やっぱりさすが芸能人というだけあって、とてもきれいな人だと思った。彼女が満たされなかった思いがあるということは、本当に分かったから、あとは、それを抱えたままでも、頑張って生きてもらいたい。という、願いを込めて蘭は彼女を見送った。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る