第三章
麒麟を入れることが決定し、玉船優子は、蘭の仕事場にまたやってきた。とりあえず、蘭に向かってお願いしますと頭を下げ、仕事場に置かれている台の上に腹ばいになって寝た。
「じゃあ、行きますよ。総手彫りだから、痛いかもしれないですけど。」
と言って蘭は、消毒機の中から針とのみを出して、彼女の背中に、麒麟の輪郭線を彫り始める。
しかし、驚いたことに、彼女は痛いとも言わなかったし、泣こうともしなかった。女性だと、大体が痛さで泣いてしまう人が多いのであるが。
「よく、平気でいられますな。」
と、蘭が言うと、
「ええ、幼い頃、学校の先生から叩かれた痛みよりかはマシですよ。」
と、彼女は答えるのである。
「学校の先生から?」
「ええ。うちにお金がなくて、そういう変な学校しか行けなかったんです。いまでこそ、公立学校は悪いという認識がまかり通っているけど、むかしはそうじゃなかったわ。だから、ひどいことされても、誰にも信じてもらえなかったのよ。ほんとに、ひどい学校だった。だって、先生が、生徒を殴って、勉強を教えていたから。」
彫っている間、みんななにかしゃべる事が多い。大体の人は、痛みに耐えるため、喋って気を紛らわそうとする。だから、その言葉に、嘘はないと蘭は信じている。
「そうだったんですか。じゃあ、優子さんの行った学校は、先生が、平気で体罰をしているような学校だったんですね。」
蘭がそう言うと、彼女はそうよ、と言った。
「あたしもよく殴られたわ。他の生徒の前に見せしめにして、余計に恥ずかしい思いをさせてね。よく、学校にあったものさしとか、分度器なんかで思いっきり殴られた。」
「どうしてそういう体罰があったんでしょうか?」
「授業を聞いていなかったり、先生に返事をしなかったりいろいろよ。そして必ずこういうことをいうの。お前たちは社会から捨てられたゴミなんだ。それを、先生たちが、鍛え直してやっているんじゃないか。殴られたことを、神様に、感謝しろ。とね。」
ひどいものだ。そんな教育が平気で行われているとは。そんなことを平気でする教師がいるなんて、蘭は呆れるというか、ため息が出てしまった。
「そうですか。うちに来るお客さんはみんなそういう人ばっかりですよ。学校で辛い目にあったとか、親から虐待されたとか。どうして、すべての人に幸福というものは、与えられないんでしょうね。」
蘭がそういうと、優子はそうねといった。
「そうなんですよね。僕もこの仕事について、20年以上たつんだけど、救われる人は、本当にわずかで、救われない人ばっかりですよ。彼女たちは、それを、うでや背中に神仏を入れることによって、それでも生きようとしているんだ。確かに、自ら死を選んだ人も少なくなかったですけどね。」
「その、死を選んだ人って、どういう人なんですか?」
蘭がそういうと、優子はそういうことを言った。
「ええ、ああ、えーと、そうですね。なんていったらいいんですかね。本当は優れた能力を持っているはずなのに、家の人たちからの理解がなかったというか、愛情がなかったんでしょうね。どんなことやっても、うまくいかなくて、結局死ぬしかなかった人も、何人かいました。」
蘭が、とりあえずそういうことを言うと、
「あたしも、そうなってもいいかな。」
と、優子はそういうことを言うのである。
「そうなってもいいかなって、あなたは演歌歌手としても、成功しているし、今はニュースなんでもで引っ張りだこじゃありませんか。そうなっているんだから、それでいいじゃないですか。」
と、蘭が言うと、
「そうねえ。でも、本当は、服部さんのほうが、有利というか、あたしは、代理人みたいなものだもの。」
と優子は答えた。
「代理人?」
「ええ。本当は、服部さんのほうが、歌がずっと好きだったし、テレビに出たいとかそういう気持ちも、上だった。あたしは、高校で、体罰受けながら、もう人生終わりにしたいといつも思ってたわ。本当はね、あたしよりも、服部さんのほうが、デビューするべきだったのよ。でも、彼女は、できないで、あたしが出ちゃった。なんでかなって時々思うことがあるわ。もうあたしは、世捨て人にでもなろうかなってそんな気持ちしかなかったのにね。」
「そうですか、、、。」
蘭は、そうつぶやいた。確かに、この世では、本当にその分野が好きな人ほど、それを職業とするには、難しいということも数多い。音楽が好きなのに、家庭の事情で音楽大学に行けなかったとか、絵の才能があるのに、絵の学校へ行けなかったとか、そういう人が多い。本気でやりたければやりたいほど、障壁が多くてできなくなってしまうらしい。
「でもそれなら、あなたは、服部さんの代理人なんですから、代理人として、その責務を全うすることが大切ですよ。だってその人は、もうこの世には帰っては来れないんですから。」
と、蘭は、そういって、彼女の背に針を刺した。
「そうね。あたしもそう思うべきかもしれないわね。」
玉船優子は、そういって初めて痛そうな顔をする。
「そうですよ。ほかにも、何かしたくても、できない人はいっぱいいるはずなんですから。せっかく、芸能人という、みんなに夢を与える職業に就いたんですからね、それを精いっぱい全うしてください。」
蘭は、刺した針を抜きながら、そういうことを言った。
一方そのころ、杉ちゃんは。
「いやあ、今日の演奏も素晴らしかったよ。ぜひ次は、テンペストを聞かせてもらいたいな。」
と、烏山歌穂に、向かって拍手をしていた。駅は、大勢の人でごった返していたが、電子ピアノを弾いている烏山歌穂のほうには、誰一人、振り向かないのだった。
「なんだか、リクエストするたびに、曲の難易度が上がっていくんですね。」
一緒にいた、花村さんが、そういうことを言う。杉ちゃんの手伝いで一緒に来た由紀子も、テンペストという曲名は、聞いたことがあった。
「それでは、今日は、拝聴料だけでなくもっといいものをあげよう。さっきそこのハンバーガ屋でハンバーガーを買ってきたのさ。そこのベンチで、一緒に食べようぜ。」
と、杉ちゃんが、にこやかに笑って言う。由紀子が、ハンバーガー屋の袋を見せると、歌穂は、驚いた顔をして、しばらく何も言えなかった。
「じゃあ、そこのベンチに座りましょうか。この広場で食事する人は、ほとんどいませんから。」
と、花村さんの指示で、全員立ち上がって、近くのベンチに移動した。由紀子が分けたハンバーガーを全員受け取って、いただきまあすとかぶりついた。
「うん、うまい。さすがに、ハンバーガーの専門店というだけある。」
杉ちゃんが、にこやかにそういうことを言った。
「そうですね。こういうものは苦手だったんですが、確かにたまに食べるとうまいですよ。」
花村さんもそういうことを言う。
「しっかし。」
ハンバーガーにかぶりつきながら、杉ちゃんがそういうことを言った。
「なんでいつまでも駅で路上ライブしているの?それよりも、どっかのでっかいホールでも借りて、入場料取って、パフォーマンスすればいいのに。」
「そうですねえ。」
と、歌穂は一瞬ボケっとしたようだったが、
「もう、ピアニストとして、自信がなくなってしまいました。そういうことは、もうできないかなって。」
と、答えた。
「なんでだ?少なくとも、今まで聞かせてくれた、なくした小銭への怒りとか、みんな技術があってうまいと思うぞ。」
「そうよ。素人の私でも、素晴らしい演奏だったと思うわ。」
杉ちゃんの発言に、由紀子もそういって付け加えた。由紀子は、水穂さんのことを思い出さずにはいられなかった。
「ほら、特殊な事情があるわけではないでしょう?例えば世の中に出ていくには、はばかられるような事情があるわけでもないわよね?そういうことがあるわけじゃないんなら、もっと堂々と活動していいと思うわ。」
「ええ、そうですね。」
と、歌穂は、頭をかじった。
「でも、僕は、もう演奏はできませんよ。本当はクラシックのピアノをやっていきたかったのに、テレビの関係者が、ポピュラーソングをしつこいくらい要求してきたんですから。それを断ったら、今度は自分がおかしくなって、テレビ局から追い出されてしまったんですから。もう演奏は、できる自信がありません。」
「そうかあ、でも、お前さんは、そういうことがあったとしても、それをカバーできる技術が十分にあると思うけどな。」
と、杉ちゃんが、言った。隣でコーヒーを飲んでいた花村さんが、
「ええ、確かに誰でも、人には言えない過去というのはあると思いますけど、それは、演奏技術で何とかなると思いますよ。それでも、もう、日の当たるところには出たくないとお思いですか?」
と聞いた。
「いいえ、いくら演奏技術があるとしても、僕は、有名な音楽学校を出たわけではありませんし、どこかのコンクールで優勝したとか、そういう実績があるわけでもありません。だからもうそういうところには出られないかなと思います。」
と、歌穂は答えた。
「いいえ、音楽学校なんてみんなそんなもんですよ。ただ、音楽学校を出たという、なんともない称号にしがみついて、誰かと比べているだけのことです。私も、大したところを出ているわけではありませんし。」
と、花村さんは言った。杉ちゃんが、あれ、花村さんって音楽学校に行ったの?と聞くと、花村さんは、東京芸術大学だと答えた。
「それじゃあすごいじゃないですか。芸大なんて、日本の音楽学校の頂点みたいなものでしょうが。それがどうして大したところではないになるんです?」
由紀子が素人なりの感想を言うと、
「でも、邦楽科なんて、大したことありませんよ。私は、生田流専攻ではありませんでしたから、大した学生ではありませんでした。山田流ですとね、宗家についた方が、より正確に学べるんです。私の実家は宗家でしたから、芸大の邦楽科なんて宗家から習ったことを、もう一回やり直しているように見えて、つまらないの極まりないところでした。」
と、花村さんは言った。
「邦楽はね、大学に行くより、もっと近い道があるんです。わざわざ大学に行って、どうのこうのという世界ではなかったことに私は、気が付かなかったんですね。生田流のひとにはさんざんバカにされるし、洋楽専攻の方々からも、やる人が少ないのだから、優秀賞をもらうなんてずるいと嫌味を言われたり。芸大なんて、山田流をやる人にとっては、大したことありません。」
「なるほどねえ。花村さんも、そういう風に、傷ついたことがあるんだねえ。」
と、杉ちゃんがコーヒーを飲みながらそういうことを言った。
「ええ、だから、学校なんて、大したことないんです。私が経験した大学生活なんて、生田流の人にばかにされるだけのことでした。四年間何をしたんだろうと思いますけど、結局私は、宗家を継ぐことで、けりをつけることはできましたけどね。」
「そうですか。もし、それがなかったら、花村さんも、中途半端な学校生活になっていたかもな。」
と杉ちゃんが言った。
「でも、花村先生、先生のようなお偉い方なら、何か学んだことだってあったんじゃないですか?あたしたちみたいな、毎日やるしかないということはなかったと思うから。」
由紀子が聞くと、
「まあそうですね。私が、つまらない大学生活で学んだというか、はっきり感じたのは、敵だと感じたらその時点で負けだということです。私は、生田流の人に大変バカにされたりしましたけれど、もうバカにされて当たり前のような感じなのが、生田流と山田流の関係ですからね。何を考えたって、生田流を超えることはできはしません。だから、バカにされても、敵だとは思わないこと。敵として、それを超えるためにはどうしたらいいかとか、一切考えないこと。それが一番大事なことだったのではないでしょうか。少なくとも、私は、そのつもりでいます。」
と、花村さんは答えた。つまりそれほど、邦楽の世界では、生田と山田が敵対関係になっている、ということだとおもった。
「なんでもそうですけど、敵だと思わないことです。それがあったとしても、何もしないで自分のすべきことだけやっていればそれでいいんですよ。」
「なるほどねえ。花村さんらしいや。やっぱりさすがだね。家元の家系だけあるわな。」
杉ちゃんは、その話にそう相槌を打つが、由紀子は、こういう姿勢は、誰か本人に強い味方になってくれる人がいないと、成立しないと思った。誰か、家族か、あるいは友人か、あるいはその他の親族か。誰でもいいから、そういう絶対的な味方になってくれる人がいないと、学生時代の負担は乗り越えられない。
「そうですねえ。僕は、何をしているんでしょうかね。僕は、テレビに出て、それでよかったのに、そこのひとと対立して、結局テレビを追い出されることになって。」
歌穂は、花村さんに言った。
「まあそれはそうだと思いますが、経験というものを得たじゃありませんか。よい経験でも悪い経験でもそこから何か得られれば、あなたにとって、財産になりますよ。」
「しかし、具体的にどうすればいいのですか。口で言ったって何かになるわけじゃないですし。」
由紀子がそういうと、
「そうですねえ。例えば、描くという方法がありますよね。自伝でも書いて、インターネットに公開すればだれか見てくれる人が出るかもしれないじゃないですか。そういう時に、名が知られているというのは、いいと思いますよ。何も名が知られていない人間が、そういう分野で大成することは難しいですけど、一度そういう世界を知っている人物の自伝であれば、皆興味持ってくれるのでは?」
と、花村さんが言った。
「そうか!それがいいよ。すぐに原稿用紙買ってさ、ちょっと書いてみてはどう?」
杉ちゃんに言われて、歌穂はちょっと赤い顔をした。
「今は、出版社を介さなくても、SNSなどで、公開することは可能ですから。経験というものを、広めるのもいいと思いますよ。だって、若い人たちは、今の時代、失敗例を聞かされる機会がほとんどないですもの。そして初めて大きな挫折に耐えられなくて、自ら死を選んだりされたりしちゃ、大変ですよね。そうならないように、失敗例を書物にするというのは、必要だと思うんです。きっと、あなたが今ここにいるのは、やり残したことがあるからだと思いますしね。そうでなければ、あなたはここにいない可能性のほうが大きいんですよ。」
「やっぱり花村先生はすごいですねえ。そういうことを、言えちゃうんですから、えらい方は、あたしたちとは、全然違う。」
由紀子は、そういう言葉を、水穂さんにも、話して聞かせてくれたらいいのになあと思いながら、それを聞いていた。
「すごいですね。僕もなんだかやる気が出てきました。もう、僕の人生は終わってしまったと思われたけど、まだやることはあるんだなって気がしてきましたよ。」
「いいえ、私も、杉ちゃんの言葉を借りれば、馬鹿の一つ覚えにすぎません。みんな、そういうことをして覚えていくものです。それを忘れてはいけません。」
歌穂がそういうと、花村さんが言った。
「よし!じゃあ、すぐに原稿用紙買って、それを描き始めてみてくれ。ピアノに文章書きの大急ぎになるが、どっちもおろそかにしてはいけないよ。」
そう杉ちゃんが言ったが、みんないい顔をして、心和んだ雰囲気だった。杉ちゃんも由紀子も、花村さんもにこやかに笑っていた。
「えらい目にあったとしても、それもすごいことになるんですね。」
由紀子は、そういうことをつぶやいた。
そのころ、蘭は、麒麟の輪郭線を描き終えて、
「さあ、今日は、ここまでで終了させておきましょう。次回、色入れをしますから、また来週、来てください。」
と、最後の針を抜いた。
「うれしいです。立派な麒麟が、私の背中に入ったんですね。」
と、にこやかに笑う彼女。いたそうだなという表情は、どこにも見られなかった。
「じゃあ、とりあえず、麒麟の筋彫りは終了です。今日は、四時間施術しましたので。」
と、蘭は、そろばんをはじいて、金額を示そうとしたが、
「はい、もう計算済みです。一時間二万円でしたよね。だからえーと。」
と、優子は、お財布から一万円札を八枚取り出した。財布の中には、一万円札が、一センチ近く入っている。さすがテレビタレントだなあ、お金がこんなにあるのか、と蘭は思った。それならそれを福祉関係に寄付するとか、そういうことをすればいいのに。と蘭は思う。でも、彼女にそういうことを言える立場でもないか、と思い、言うことができなかった。
「それでは、いま色入れの日程を決めておきましょうか?それとも、仕事が不規則だから、電話してもらった方がいいでしょうか?」
と、蘭は、手帳を開いて、彼女に言った。彼女は急いで洋服を着て、自分の手帳を取り出す。
「そうね、来週の木曜日くらいでどうでしょうか?その日なら、私、仕事は早く終わると思います。」
と、彼女がそういうので蘭は、ああわかりましたと言って、その日に玉船さん色入れと書き込む。
「じゃあ、その日でいいですよ。色入れは、筋彫りほど痛くはありませんから、安心してきてくださいね。」
と、蘭が言うと、
「ダイジョブです。あたしは、こう見えても図太い神経をしていますし、絶対半端彫りはしないって、誓いを立ててきたんですから。」
と、玉船優子は、にこやかに笑った。
「ぜひ、手彫りで彫ってくださいね。あたし、彫るんだったら、絶対手彫りのほうがきれいだと思いますから。先生、機械が苦手なんでしょ。ここには、マシンがありませんもの。」
そう早口でいう彼女に、蘭は、自分自身も、しっかりやらなければなと思ってしまうのであった。
「わかりました。僕も久しぶりに、大作を彫るつもりで、しっかりやらなきゃなりませんな。」
蘭は、彼女も彼女なりに、一生懸命人生について考えているのかな、と思いながら、彼女が部屋を出ていくのを見守っていた。
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