第二章
「しっかし、烏山が、あんなところで演奏しているとは、とても思わなかったよ。スーパーマーケットで、電子ピアノで、モーツァルトのソナタをやっていたよ。」
杉ちゃんは、蘭に向かってカラカラと笑った。
「そうか、烏山はそうなっていたのか。彼もまあ、決して良い人生を送ってきたわけじゃないけど、そうやって、自分で何とかしようとしているんだね。」
蘭は、そんな杉ちゃんを見て、はあとため息をついた。
「どうしたの蘭。そんなにため息ついちゃって。」
と杉ちゃんが聞くと、
「もう、杉ちゃんが買い物に行っているときに、お客が来たんだ。あの彼女。有名な、あの元演歌歌手で、今は、ニュースなんでもの司会をしている、あの彼女だ。
名前はえーと確か、、、。」
蘭は答えに詰まった。
「ああ、あの女性か。玉船優子かい?」
杉ちゃんが即答すると、
「そうそう。彼女だよ。あれはまさしく彼女その者だったと思う。なんでも、アリとキリギリスのキリギリスみたいなやつでさ。もう、演歌歌手ではなく、テレビの女優になってしまったことを嘆いていた。」
と、蘭はそういってお茶をずるっと飲んだ。
「フーン、そう。」
杉ちゃんは、腕組みをしてそういった。
「何か考えていることでもあるのかい、杉ちゃん。まったくあきれるよ。若い奴ってのは、すぐにあきらめたり弱音を吐いたりするものかな。それくらい、弱っちゃったのかなあ。今の若い奴は。」
蘭がそういうと、
「そういうもんかもしれないぞ。若い奴は、あんまり自分から立ち向かおうという人は少ないだろ。逆に、烏山歌穂みたいに、一からやり直そうと努力しているやつのほうが、珍しいかもしれない。」
と、杉ちゃんは年寄りみたいなセリフを言った。
「そうだなあ。そうかもしれないな。でも、生きようという気力のない奴に、下絵を描いて、神仏を彫るなんてことはしたくないよ。」
蘭は、またお茶をずるりと飲んだ。
「まあ、お前さんもそう思うんだったら、生きようと思うようにさせるんだな。それも、彫り師の務めだって、あの彫菊爺さんが、言ってたんでしょ。だったら、そういう風にさせることだよ。」
「杉ちゃんすごいこと言うね。」
と、蘭は、あーあとため息をついた。
「だけど、僕は、彼女に施術はどうもしたくないな。僕のところにきているやつは、上のひととか家族に居場所を分捕られて、自分なりに何とかしようと考えているやつだったからなあ。もう、世の中に対して投げやりな奴は、そういうことしたくないと思うんだが。」
「頭の中ではそう思っているのかもしれないよ。」
蘭の一言に、杉ちゃんは言った。
「ほら、僕、涼さんに聞いたことあるけどさ、人間ってのは、自分が感じていることなんて、九分九厘もないそうじゃないか。逆を言えば、自分で考えていることなんて、一厘しかないってことだぜ。残りは、人間が自分で操作していると感じないで決めちゃうんだって。」
「杉ちゃんすごいこと知ってるな。涼さんがそんなこと教えたのか。」
「そうそう。一目ぼれなんていい例じゃないか。それと一緒で、玉船優子は、口では怠けているようにみえるが、頭の中ではそうじゃないのかもしれない。そういうこともあるだろう。まあ、こんなのはバカの一つ覚えでしかないけど、そうなっているんじゃないのか。」
「なるほどねえ。」
と、蘭は、また杉ちゃんの意見にため息をついた。
「もし、やる気がないように見えるんだったら、もっと真剣に生きられるような絵を描いてあげるのも、お前さんの務めじゃないの?」
と、言われて、蘭は、黙ってしまった。真剣に生きられるような、そんな絵を描いてやるのか。そんなもの、どこにあるというんだろう。逆にそこまでへらへらしている、玉船優子に彫りつけるなんて、神仏のほうが泣いているような気がする。
蘭が、まずいお菓子を食べていると、玄関のインターフォンがなった。なんだろうか、と思ったら、華岡だった。
「どうしたの華岡。また風呂に入りに来たのか?」
と、蘭が言うと、華岡は、ぼんやりして小さくなっている。
「違うんだ、どうしても話さないといられないことがあって、、、。」
華岡は、そんなこと言いながら、食堂へやってきた。蘭はその変わりぶりに、驚いてしまった。
「どうしたんだよ。警察のお前が、そんな抜け殻みたいな顔をしてちゃ、富士市の治安も、悪くなる一方じゃないの?」
「いや、それがね、こないだ話した、レズバーのママ殺人事件、あれ、ほかのやつが、絶対に、玉船優子の犯行だと主張するもんだからさ。俺、なんだか落ち込んじゃって。玉船優子は、かわいいし、俺はニュースを見るのが楽しかったのになあ、、、。」
華岡は、そんなことを言っている。
「はあ、まったくそんなことでうちに来たのか。刑事にしては本当に小心者だな。そんなんで、よく警視まで務まるよな。」
蘭がそういうとを言うと、
「だって俺、玉船優子のテレビ番組見るの、楽しみだったんだよ!」
と、華岡は言うのである。確かに、蘭が先ほどあった彼女は、かわいい顔だちをしていて、人を引き付ける要素がある顔であった。それははっきりしている。
「しかし、玉船優子が、本当に犯人だという、証拠というか、そういうものはあるのかな?」
と蘭が聞くと、
「いや、玉船とそのレズバーのママ、服部優菜さんが、仲のよさそうに店にいることは、多くの人から目撃されている。そして、玉船優子が、ニュースなんでもの主役に抜擢された数日後に、服部優菜さんの口座に、大量の金が振り込まれていたこともわかったんだ。多分、手切れ金というものだと思うんだけど。それで俺たちは、その手切れ金のことをめぐって、玉船が、服部優菜さんを殺害したとにらんでいるんだけどなあ。」
と、華岡は答えを出した。
「なるほど、それにまつわる物的証拠でもあるの?」
蘭が聞くと、
「いや、ない。確かに、玉船と服部さんが、話し合っていたのは、目撃されているが、玉船はそのあと取材に行っており、服部優菜さんの死亡推定時刻の時に、現場にいたかということは難しい。ただ、それを証明できる人はいないということだ。」
と、華岡は答えた。
「で、凶器とかそういうものは出たのか?」
杉ちゃんが、華岡の前に、カレーのはいったお皿を置きながらそういうことを言った。
「いや、まだだ。それに服部優菜さんの死因は、刺し傷でもなければ、撲殺でもないんだ。」
「じゃあ、なんなんだよ。」
杉ちゃんが華岡にお茶を渡してそういうことを聞いた。
「毒殺。正確に言えば、睡眠剤の過剰服用によるものだった。飲んだ水が水ではなく、焼酎になっていた。しかし、服部優菜さんが、自殺をするようなきっかけは見当たらないので、俺たちは、玉船優子が、だまして与えたのではないかとみているんだが。」
と、華岡は答えた。
「ちょっと待て。華岡。整理しよう。服部優菜さんは、睡眠薬の過剰服用により死亡した。彼女がなくなる少し前、玉船優子が彼女と話していたのが、目撃されているんだな。そして、服部優菜さんが、自殺するような理由はない。玉船については、優菜さんと話しているのが目撃されているが、彼女が死に至ったときそのときは、テレビの取材に行っていたと本人が証言して言うんだね。だったら、玉船が、その取材をしていたか、裏を取ればいいじゃないか。」
と、蘭は、華岡の話をまとめた。やっと話がまとまって楽になったらしい華岡は、その通りだと言って、むしゃむしゃとカレーを食べ始めた。
「いやあ、蘭がまとめてくれて、本当によかったよ。俺、頭の中でつっかえてて、本当に困ってたのさあ。」
まったく、華岡ときたら、こういうことを言うんだから、本当は刑事に向かないんじゃないの、と蘭は思いながら、それを眺めていた。
その次の日、杉ちゃんと蘭は、用事があって、富士駅近くの商店街にある、食品店に行くことになっていた。というのは、その店ではないと、売っていない果物があったので。
「えーと、甘夏は、これだよな。」
と、杉ちゃんは、甘夏をたくさん買って、序にドラゴンフルーツもかった。文字の読めない杉ちゃんに、蘭がまた、支払いを手伝った。この店は現金のみの支払いなので、プリペイドカードでの支払いはできなかった。
「これで、甘夏のジャムが作れる。いやあ、今年も、甘夏ジャムを作ることができて、ありがとうございます。」
と、杉ちゃんは、楽しそうに、店の店主と話をしている。店の店主も、こんなに爆買いみたいに買ってくれるお客さんは、そうはいないと言って、にこやかに応じた。それを、30分くらいして、よし、帰ろうか、と、二人は、あいさつをして、駅に向かって移動を始めた。
駅に近づいてみると、電子ピアノの音が聞こえてきた。あ、今度はベートーベンのバガテルか、と、杉ちゃんはにこやかに笑って、そのほうへ行ってしまう。蘭は、もうなんでこういうところに首を突っ込むんだろう、杉ちゃんはとブツブツ言いながらそのあとをついて行った。
聞こえてきたのは、ベートーベンのバガテル変ホ長調であることは間違いなかった。駅のタクシー乗り場の近くにある、ちょっとした空間で、電子ピアノを弾いていたのは、間違いなく烏山歌穂だった。誰も、演奏を聞こうという人はいないけれど、確かにピアニストらしい演奏であった。演奏し終わると、杉ちゃんは、お、いいぞと言って、拍手をした。
「ほれ、いい音楽聞かせてもらったから、そのお礼だよ。」
杉ちゃんは、彼に、財布の中から、千円札を取り出して、それを手渡した。
「いいえ、これはいただけません。あんなつまらない演奏に、こんな大金なんて、当てはまりません。」
と、烏山歌穂は、杉ちゃんのお金を受け取らなかった。
「いやあ、それに匹敵する、すごい演奏だったと思うけど?」
と、杉ちゃんは言うが、歌穂は受け取らなかった。
「なんでだ?だって、お前さん、こんなところでパフォーマンスするほど、生活に困っているんじゃないの?」
杉ちゃんがちょっとからかうようにそういうと、
「そうかもしれませんが、今の演奏は、こんな大金に匹敵するものではありませんよ。」
と、主張する歌穂に、蘭は、なんだか親近感というか、文字に表すのは難しい、好意がわいた。
「ほんなら、大金に匹敵する演奏をやってみろ。例えば、ベートーベンのなくした小銭への怒りとか。」
杉ちゃんに言われて、歌穂はわかりましたと言って、またピアノの前に座って、その曲を弾き始めた。確かにベートーベンのなくした小銭への怒りという曲なのであるが、単に、お金を落っことして、それにイラついている、という演奏ではないような気がするほど立派な曲である。十六分音符の連続なんて、とても蘭にはまねできそうなものではなかった。
弾き終わると、杉ちゃんは、また大拍手をした。
「ありがとうございます。」
と、杉ちゃんに向かって敬礼する歌穂に、
「今度こそ、この千円もらってくれるか。」
杉ちゃんは言った。歌穂は、ありがとうございますと言ってそれを受け取った。
「いやあ、本当に素晴らしい演奏でした。僕にはまねできそうもありません。これからも頑張ってください、応援しています。」
蘭は、思わず、歌穂に声をかけてしまった。
「ああ、ありがとうございます。大した実力もないのに、こんな大金いただけて、申し訳ないです。」
という歌穂は、本来謙虚であまり出しゃばらないタイプだったんだなと思われた。テレビでは、明るくて、いつも自己主張ばかりしているタイプに見えたのに。
「そんなことありません。本当に素晴らしかったですよ。これからも、応援していますから、頑張ってください。」
「ありがとうございます。」
と、歌穂は軽く頭を下げる。本当に謙虚な人だなと蘭は思った。そこを生かせば、もうちょっと芸能界で活動できたのではないかと蘭は思う。
彼のその謙虚ぶりを、玉船優子にも分けてやりたいくらいだった。
「で、パフォーマンスは、毎日ここでやっているの?」
ふいに杉ちゃんがそう聞く。
「ええ、ほぼ毎日やっています。できる限りここでやらせてもらおうと思っています。駅前は、反応がストレートに出ますからね。聞きたいと思わせる演奏ができないと、こっちを向いてはくれませんから、どういう演奏をすれば、みんなが振り向いてくれるか、試行錯誤しているんです。」
歌穂が答えると、
「そうなんだね。じゃあ、明日も聞きに来させてもらうよ。今度は、ベートーベンのロンドとか、そういうものを聞かせてもらいたいな。」
と、杉ちゃんは笑っていった。
「そうですか。わかりました。また聞きにいらしてください。大体、このくらいの時間には、いつもやっています。」
歌穂がそういうと、駅前の鳩時計が、三回なった。つまり三時にはここにいるということか。
「よし、明日も聞きに来るよ。また楽しませてもらうからな。」
杉ちゃんは、もう楽しそうにしているが、蘭は、まったく杉ちゃんってどうしてこう、すぐに仲良くなれてしまうんだろうか、と思って、あきれてしまうのであった。
電子ピアノのわきに、10枚ほど、ディスクが置かれているのが見えた。おそらく演奏を録音したものだろう。蘭が、それに目をやると、
「よかったら、持って行ってください。」
と、彼は言うのである。
「ああ、そうですか。おいくらですか?」
蘭が聞くと、
「いいえ、今日は、お金をいただいたので、追加でこちらが請求することはしません。」
と、歌穂はそういった。蘭は、本当に謙虚な人だなと思い、じゃあ、これを持っていきますから、と言って、ディスクを一枚とり、カバンの中に入れた。
その翌日。杉ちゃんは、約束した通り、駅へ出かけてしまった。その日は、雨が降りそうな曇り空だったが、約束を破るのが大嫌いな杉ちゃんだから、蘭の心配も気にしないで行ってしまったのである。
蘭のほうは、その日、玉船優子がやってくることになっていた。昨日徹夜で描いた下絵を、玉船が気に入ってくれるかどうかは、別問題だが、、、。
玉船が来るのは、2時だった。柱時計が二時を告げたのと同時に、インターフォンがなる。蘭は急いで、玄関先に向かって、彼女を迎え、仕事場に案内した。
「今日は時間通りにきてくれてありがとうございます。それではですね、とりあえず、下絵を描いてみましたので、どれを彫るのか、選んでいただきたく思います。」
と、蘭はテーブルの上に、何枚か画像の描かれた紙を置いた。観音様のような具体的な聖者像だけでなく、朱雀や玄武などの、神事にまつわる動物を描いた紙もある。
「これがいいわ。」
彼女は、一番大掛かりな絵だと思われる、麒麟の絵を描いた紙を手に取った。
「これを、私の背中に入れてください。」
そういう彼女は、先日あった時よりも、静かで、より真面目そうに見える。そうなればやっぱり杉ちゃんの言う通りなのだろうか。本当は、キリギリスではなくて、まじめな女性なのだろうか?
「あの、どうして、これを入れようと思ったんですか?」
蘭は、そういうことを聞いてみた。
「いえ、単に、私は、その、なんて言ったらいいのかしら、ずっと演歌歌手としてやってきたのに、それは無視されて、テレビのキャスターなんかやっているから。」
と、答える彼女。
「つまり、本当は、演歌歌手としてやりたかったんですかね。」
蘭が聞くと、彼女は、静かに頷いた。
「でも、もうそういうことはやれなくなってしまったので、何かむなしさのようなものを感じているのでしょうか。」
蘭は、彼女にそう聞いてみる。
「ええ、そういう感じですね。私は、演歌歌手をやっていくだけで十分だったんです。それが、どういうことか、こんな変なニュース番組の。」
「そうですか。でも、僕の友人は、あなたが、ニュース番組に出演するのを、楽しみにしていたそうです。そういう人も、いるんですが。あなたは、それも楽しくないというのですか?」
と、蘭は彼女の言葉をさえぎって、そう聞いてみた。
「ええ、確かにそうではあるんですけど、、、。」
と答える彼女。
「そうではなくて、変なニュース番組なのかもしれないけれど、それを喜んでくれる人がいるってことは、本当に素晴らしいと思うんですけどね。それをもうちょっと自覚してくれたら、あなたも、周りのひとも、幸せになれると思うんだけどなあ。そうは、思わないのですか?」
と、蘭は、また彼女に聞いてみた。
「昨日、富士駅で、烏山歌穂さんという人の演奏を聞きました。彼も、一度は堕落した人かもしれないけど、今は一生懸命路上でパフォーマンスを続けていますよ。そういう人だっているんだから、あなたは、もっと恵まれていると思って、一生懸命やってくださいよ。玉船さん。」
「ああ、あの人ね。」
と、彼女、玉船優子は答えた。
「確かに、あの人も、一世を風靡したかもしれないけど、今は、人目のないところに消えてしまって、、、。」
そう言いだす彼女に、やっぱり人の批判は簡単なんだなと蘭は思ってしまった。しかし、彼女の顔は、演技しているようには見えなかった。ということは、烏山歌穂が本当に嫌いなのだろうか?それとも、彼を悪い見本としてみているのだろうか?
「あたしは、あの人のようにはなりたくないわ。テレビのニュース番組の司会をするのも嫌だけど。」
という何ともわがままな主張をする彼女だった。
「でも人間は、二つあったら迷いますよ。一つなら、迷いようがない。だから、人生の的は一つがいいのではないですか。」
蘭はそういってみたが、彼女は、テレビ番組のいやな面を主張するばかりで、烏山歌穂のことを張り合いに出しても、それ以上の反応はなかったのである。
一方その烏山歌穂は、富士駅前の駅前広場で、ベートーベンのロンドを電子ピアノで演奏していた。観客は杉ちゃん一人だけであったけれど、テレビに出ていた時よりも、ずっと演奏しているという感触を持ち続けながら。
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