ひも

増田朋美

第一章

その日、まだ夏にはなっていないと思われるのに、エアコンが必要なほど、暑い日だった。そういう日には、積極的に、薄着をした方がよいと思われるのであるが、なぜか、テレビでも、皆厚着をしていて、薄着になろうという人は、あまりいなかった。

「じゃあ、食べるかあ。」

と、杉ちゃんが、つくった料理をベッドのサイドテーブルの上に置いて、お茶を注いだ。

「どうぞ蘭。しっかり食べて頂戴ね。」

急いで、蘭は布団の上に起きた。その近くで、アリスが、あきれた顔をして、部屋に入ってくる。

「まったくねえ蘭。こんな時に風邪をひいて寝込むなんて、タイミングが悪いわねえ。」

と、言われて、蘭はむきになって、

「なんだよ。こっちは熱が出て大変だっていうのに。」

と反論した。

「バカねえ。熱が出てるのに、文句を言えるんだから、そんなに大した熱じゃないわよ。まったく、こんな時に熱を出すなんて、仕事、一生懸命やりすぎなんじゃないの。」

アリスは、カラカラと笑った。

「ほら、おかゆ作ったぞ。急いで食べろ。」

「なんだよ杉ちゃん、水穂に言うときもそんなぶっきらぼうな調子なのかい?」

杉ちゃんが言うと、蘭はそういった。

「まあ、そういうことは、まず置いておくことにするか。それよりも、杉ちゃんの作ったおかゆだから、うまいはずだ。」

と、蘭は、杉ちゃんからおかゆの器を受け取って、おさじでおかゆを口にした。

「ああ、うまいじゃないか。やっっぱり杉ちゃんのおかゆだから、すごくおいしい。」

「一口食べてそういうことが言えるんだから大丈夫だ。まあ、一日寝てればすぐよくなるさあ。」

杉ちゃんに言われて、蘭は、ちょっとむきになった顔をした。

「あ、そうだ。もうこんな時間。人気報道番組が始まるところだったわ。えーと確か、番組名は、ニュースなんでも、だったかしら。」

アリスが、ベッドサイドテーブルから、テレビのリモコンを出して、テレビをつけた。テレビは、ちょうど、ニュースなんでもが始まったところだった。

「あ、始まった始まった。ニュースなんでも。玉船優子見なくっちゃ。あたし、大ファンなんだ。」

「こんなときに、テレビなんか見て。玉船優子なんて、たいしてかわいいと思わないけどなあ。」

と、蘭は言っているが、杉ちゃんはすでに楽しそうだ。テレビなんか見ないくせに、アリスと、テレビで面白可笑しく解説している、ニュースにくぎ付けになっている。

「いいじゃないか、時々ダジャレを言う、面白い女優だって、僕も聞いたことあるよ。確か、元は、演歌歌手だったという。」

「杉ちゃんよく知っているわね。まさしくその通り。演歌の歌唱力が認められて、地域の高齢者に喜ばれていたそうよ。そこから、このニュース番組に抜擢されて。今は、ニュースなんでもで引っ張りだこよ。」

杉ちゃんとアリスはそういうことを言い合っている。杉ちゃんテレビを見ないのに、よく知っているなと思ったが、そういうことが知られているほど、有名な人なのであった。

「でも、彼女の幼少の頃のこととか、そういうことはわかってないのよね。玉船優子、大のマスコミ嫌いで、有名だから。」

と、アリスが言うことも、また事実であった。有名女優となると、多少ウェブサイトなどで、何か有名なエピソードが取り上げられたりするものであるが、彼女はトーク番組にも一度も出たことがないし、自伝小説を出したりしたわけでもない。

「そうか。そうなると、有名人であっても、何もわからないって、なんだか異常な雰囲気あるよなあ。歌はうまくても、何だかちょっと変な気がするよなあ。」

と、杉ちゃんはテレビに向かってそういうことを言った。テレビに映っている女性は、はりのある力強い声で、歌を歌っていた。確かに、大物演歌歌手というだけであって歌はうまい。

「演歌だけではなく、これでは、ほかのジャンルも行けそうだな。なんか、彼女、クラシックが大本のように見えるけど?」

杉ちゃんがそういう通り、その女性の歌い方は、演歌というより、クラシックの謡形近いものもあった。なるほどねえ。と、蘭は、頷いた。

翌日。熱が下がった蘭は、一応結果報告のため、病院を訪れた。すると、病院には、大勢の人垣ができている。あれれ、なんだろうと蘭が考えていると、そこへやってきた看護師が、

「入院されている患者さんや、お医者さんたちを励ますための、慰問演奏なんです。今日は、ピアニストの烏山歌穂さんが来てくださいました。」

と言った。確かに、モーツァルトのソナタ11番が聞こえてきた。蘭が近づいてみると、一人の男性が、病院に設置されている、電気ピアノを弾いていた。ただの電気ピアノも、こういう人が弾くと、うまいように見えるのであった。また、烏山が美しい容姿をしていたため、おんぼろの電気ピアノが、かっこいいものに見えてしまうのであった。

「なるほど。慰問演奏か。なかなか上手だな。」

と、蘭は、ぼそっとつぶやいた。どうせなら、水穂がそうなってくれればいいのに。

「烏山歌穂ねえ。」

蘭はまたぼそっとつぶやく。

「確か、ついさっきまでテレビに出ていたような気がするんだけどなあ、、、。」

と、つぶやくと、伊能さんと診察室から声がかかったので、蘭はそっちの方へ行った。診察が終了して部屋を出ると、もう慰問演奏は終わっていた。要で、人垣は解散していた。


蘭が診察が終わって、薬をもらい、タクシーに乗って、家に帰ると、アリスが待っていた。

「お帰り蘭。どうだった?」

「ああ、もう心配ないって。ただの風邪だから、今はやりの、発疹熱とは無関係だからなと。」

アリスは、はあとため息をついた。

「明日から仕事に戻るよ。またお願いが入っているからね。」

と蘭は、下絵の確認をしに、仕事場へ戻ろうとしたところ、

「おーい蘭!いるか!」

と、華岡の声がした。またこんな時になんで、と蘭は思うが、あまり外へ出させておくのもいけないと思い、入れと華岡に促す。

「また風呂か。華岡。」

と蘭が聞くと、

「いや、風呂はいいよ。すぐに飯を食べたいのだ。杉ちゃんの家に行っても、誰もいなかったからさあ、お前の家なら何かあると思ったので。」

と、華岡は、蘭の家に入った。そういえば杉ちゃんは、今日は、製鉄所を手伝いにいったとかで、家にはいないのだった。

「で、華岡、今日は、何の用でこっちに来たんだよ。」

華岡は椅子に座りながら、

「いや、あのな。静岡テレビの、ニュースなんでもという番組に出ていた、玉船優子という女性を知っているかな?」

と、蘭に聞いた。

「まあ、昨日杉ちゃんから聞いたけれど、なんでも元演歌歌手で、今は、女優として活動しているそうな。」

と華岡の質問に蘭は答える。

「ああ、それで、その玉船優子なんだが、何でも、その容姿の端麗さから、いろんな男性からのハートをつかんでいる。だけど、彼女に思いを寄せているのは、そればかりではない。こないだ、レズバーのママが殺害されたのを知らないかな?」

と、華岡は話し始めた。その事件なら、蘭も知っている。テレビだけではなく、新聞でも話題になった。結局、犯人は見つからず、そのままになってしまったらしいけれど。

「レズバーのママがどうしたんだよ。」

「ああ、玉船優子がその女性と、交際していた過去があるんだよ。」

つまり、玉船優子が、そのレズバーのママのことを好きだったのだろうか?

「まあ世の中には、いろんな人がいるから、同性愛というものもあるだろうよ。だけど、それと玉船優子という演歌歌手が、何の関係にあるというんだろうか?」

「だから、そのレズバーのママが、玉船のデビューを援助したということだ。」

「それが、なんだっていうんだよ。」

と、蘭は、したり顔で華岡に言った。

「まあ、それがなんだと言われたら、それまでなんだが、そのレズバーのママを殺害したのは、玉船優子だと俺たちは見ているんだ。きっと、デビューできたから、そのお礼金でも払えって言ってさ、そのもつれで、玉船優子は怒って、彼女を殺害した。」

「ええ?そんなわけ。ちょっと待ってよ、華岡。初めから話してみてくれ。」

と、蘭が言うと、華岡は、被害者はレズバーのママで、服部優菜さんといった。一週間前に、自宅で遺体で見つかったという。その彼女が、玉船優子と話していたのを、自宅の近隣に住んでいる、人が目撃されているので、彼女を犯人だと華岡たちは見ている、と話した。

「そうなのかあ。まあ、人間にはいろいろあるからな。お前がそういう職業柄だから、何でも他人の人生に首を突っ込みたくなることはあると思うけど、あんまりああだこうだと言わずに、警察の捜査を続けろよ。」

と、蘭は、華岡に言ったが、華岡はそうだよなあ、というだけであった。アリスが、蘭の前に、ラーメンを差し出すと、華岡はものすごい勢いでたべたのである。


次の日、蘭は、いつ通り、刺青師として仕事を再開した。やっぱり熱が出たのは、ただの風邪だったらしい。特に体もだるくないし、何も変わらないのである。

蘭が下絵を描いていると、蘭のスマートフォンがなった。

「はい、伊能ですが。」

「あの、彫たつ先生のお宅でしょうか。」

どこかで聞いたような声である。

「ええ、そうですけど。」

と、蘭が言うと、

「あの、背中に絵を描いてもらえないでしょうか。痛いかもしれませんが、あたし、別の女性になりたくて。」

と、彼女は言う。

「何を入れようかは、まだ決めていません。でも、今までのあたしじゃなくて、別の誰かになりたくて、お願いしたいんです。」

と電話の奥で、彼女はそういうことを言っている。

「わかりました。じゃあ、あなたのお名前と、年齢を言ってみてください。」

と、蘭が聞くと、

「ええ、玉船優子。年齢は、33歳です。」

というので蘭はさらにびっくりする。

「あの、ご職業は何でしょうか?」

「ええ、昔は、歌い手だったんですが、今は、女優です。」

はああ、、、あんな大女優というか、そんな人が。確かに、有名な俳優でも入れ墨を入れている人は今の時代、少なくなくなった。それでも、順風満帆なはずの人生を歩んできたはずの彼女が、なぜ、アウトローの象徴のようなものを入れようとしているのか。

「いつ、こっちに来れますか?」

でも、彼女の人生に踏み込んではいけないなと思った蘭は、そういうことを言った。

「ええ、これからすぐに行けます。お願いできますか?」

と、言う彼女。はあ、と思った蘭は時計を見た。まもなく、時計はお昼の時間を指そうとしていた。

「ああ、それなら、一時にこっちへ来ていただけますか?」

というと、彼女は、わかりましたと言った。蘭はなんでその時、ほかの刺青師に頼んだらどうかということを忘れていた。電話は、よろしくお願いしますと言って切れたけれど、蘭は、そのあとしばらく呆然として、何も言えなくなってしまった。


そして、午後一時。

蘭がお茶を用意して待っていると、玄関のインターフォンがなる。蘭が急いで、玄関に行くと、そこには、テレビで見た通りの、あの玉船優子その人が立っていた。

「あ、あの、、、。」

蘭が言うと、

「お願いに参りました。玉船優子です。」

と彼女は言うのだった。蘭はとりあえずお入りくださいと言って、彼女を仕事場に案内する。

「とりあえずここに座ってみてくれますか。」

蘭は、彼女を椅子に座らせた。

「で、一体どうして、入れ墨を彫ろうと思ったんですかね。それではおかしいでしょう。だって、今、テレビとかで一生懸命活動している方でしょう。それなのになんでアウトローのするようなことを?」

「ええ、あたしは、そんな大したことありません。だって、一応テレビには出てるけど、元がこうでしょ。だから、大した扱いもされてないの。」

蘭がそういうと、彼女は即答した。

「でも、そういう嫌な境遇であっても、自分が与えられたところで一生懸命やるのが、人間というものだと思うのですが。」

と、蘭がそういうと、玉船優子さんはちょっと苦笑いするような笑みを浮かべた。

「何を言っているの。彫り師の先生にそういうことを言われるとは思いませんでした。あたしは、もともと、テレビに出て、報道番組の司会をするということは、考えてもいなかったの。初めのころは、歌を歌えばそれでいいと思っていたのよ。それなのになんで、そういう役をさせられるように。」

「はあ、えーとそうですか。」

蘭は、とりあえずそういうことを言った。

「まあね。だからあたし、テレビの世界で何も頼るものもないから、それで背中に観音様でも入れたら、ちょっと変われるかなとおもって、今日やってきました。もうテレビで、ただの演歌だよりとか、お年寄り専門とか、そういうことばっかり言われ続けるのは、つらすぎるから。」

「そうですか、、、。」

と、蘭は彼女を見た。多分、彼女はつらいことがあるのだろう。

「あの、レズバーのママの事件はどうなったんですか?」

蘭は、彼女におせっかいというか、何か言ってみたくなってそういってみた。

「ああ、確かに、服部優菜さんと、交流があったことは事実です。でも、あたしじゃありません。それは、警察の方にも言いました。あたしでは、彼女を殺めるなんてできやしませんから。」

と、彼女は答えを出した。

「まあ、そりゃあそうですね。確かに、そういうこともあるかもしれない。早く疑惑が解けることを願います。でも僕は、あなたのような有名人に施術をすることはできないな。だってそれは、明らかに不利になりますからな。」

と、蘭が言うと、

「そんなこと気にしないで、彫り師さんというのは、どんどん仕事をするもんだと思ってましたけどね。」

と彼女は言った。

「そうじゃないんですよ。あたしは、こうしてテレビでデビューしてしまった以上、演歌歌手の回しものしか見られることはありません。だから、もういいんです。」

「そうですけどね、、、。」

蘭は、思わずそう続ける彼女に、そういうことを言うのだが、もしかしたら、この話が効くかもしれないと思ってこの話を始めた。

「あなた、烏山歌穂さんという人をご存じですか?」

「ええ、知ってますよ。あの人は、私、悪い見本というか、そういう風に考えているの。」

と、蘭の話に、玉船優子はそう答えた。

「あの人、クラシックのピアニストを続ければいいと思ったのに、適さないジャンルに入り込んで、結局辞めざるをえなかったから。」

彼女は、そういうことを言う。人の批判は簡単だがなあと蘭は思うのであった。

「確かに、そうではあるんですけど、歌穂さんは、しっかりと病院で慰問演奏して、しっかりやっておられます。確かに堕落した人かもしれないけど、地道にやって、一生懸命やっているんだから。」

蘭は、彼女に言った。

「そうねえ。でもあたし、今、そういうことをやっているのはつらいなっていうか、なんだか、やってられないっていうか。」

と、彼女は、そういうことを言ったままなのであった。

「僕としては、改心して、ちゃんと芸能人をやっていればいいと思うんだけど。そういうわけにはいかないのかな。」

と蘭は、思わずはあとため息をつく。おそらく、芸能人になって、金銭面で不自由していないから、そういう気もちになってしまうのだろう。

「ねえ、お願いできないかしら。背中に、何か、入れてほしいの。そうね、神に関するものがいい。それでは、できないかしら?」

「そうだねえ。でも、そう言うことはちょっと、できないですね、、、。」

蘭は頭をかじってしまった。

「じゃあ、下絵を見せますから、その中で何を入れたいか、考えてください。」

とりあえず、彼女にそういう。

「それよりも、私は先生に、下絵を描いてもらいたいと思うんですけど。」

と、彼女はそういうのである。

「そうですねえ。それはできないなあ。下絵を描くとなると、大変な時間がかかりますよ。それに、費用だって掛かるし。」

蘭は、そういうことを言ったが、そのような費用とかそういうことは問題にならないんだなということを悟った。

蘭は、ここで押し問答してもダメだろうな、と思った。

「ええ。それでは、彫ることはしますけど、ちゃんとそれにまつわる費用も出してくださいね。お願いしますよ。」

と、蘭は言った。

彼女の顔がぱっと輝く。


一方杉ちゃんは、由紀子と一緒に、買い出しのためショッピングモールにやってきていた。

「おい、ピアノの音が聞こえるぞ。」

と、杉ちゃんは言った。そして、お金も支払うことも忘れて、音がするところに行ってしまう。杉ちゃんの後を追いかけて、由紀子もその場に行ってみると、小さな人垣ができていた。そこで、先日病院で演奏していた、烏山歌穂が、また電子ピアノを弾いていたのだった。

「おう、モーツァルトのソナタ11番だぜ。」

確かに、由紀子も聞いたことのある、有名な曲であった。

「あの変奏曲形式で行われている、ソナタね。」

その烏山歌穂は、その独特な容姿で、なんとなく、水穂さんをほうふつとさせるところがあった。なんだか、水穂さんの二代目というか。もちろんやっている曲は、ゴドフスキーではなくモーツァルトなんだけど。

彼が第一楽章を弾き終えると、周りのひとたちは急いで拍手をした。演奏が上手なので、一曲終わってしまったと思ってしまったらしい。杉ちゃんたちは、おいおいまだだよと言おうと思ったが、周りの拍手は、いつまでも鳴りやまなかった。

「上手な演奏だなあ。なんか、ストリートミュージシャンにしてはもったいないよ。」

テレビを見ない杉ちゃんが、そういうことを言うが、由紀子はその人が、烏山歌穂であり、かつてはテレビ番組にも出ていた人だというのを知っていた。確か、クラシックのピアニストとして演奏していたのが、何かのきっかけで、ポピュラー音楽に方向転換して、そこで堕落した人物だ。

「まあね。人生は、いろんなことがあるものね。」

とりあえず由紀子はそういうことを言った。杉ちゃんは、そういうことを知っているのか、知らないのかは知らないが、はははと声をあげて笑っていた。




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