晴れのち雨 ところによりマモノ

阿井上夫

第一話 雨の日の来訪者

 俺――相模さがみ紀明のりあきは、雨が大嫌いだ。


 朝、目が覚めた時に雨音が窓の外から聞こえてくると、ひどく憂鬱ゆううつになる。

 それは、『雨の気配』と呼んだほうが相応ふさわしいほどに穏やかなものであっても、誰かがバケツをひっくり返したようなどしゃ降りであっても、大差はない。いずれにしても、雨の日にはろくなことが起きないからだ。

 その日――梅雨の時期の月曜日もそうだった。

 枕元に置いておいたスマートフォンのアラームを停止すると、俺は意識が覚醒してゆくのを意識しつつ耳を澄ます。そして、窓ガラスを叩く雨の音に気づいて、大きな溜息をついた。

「ちぇっ、今日も雨かよ」

 先週金曜日夜から引き続きの雨である。

 土日は外出せずに家の中に引きもっていたが、平日はそういうわけにはいかない。それに、晴れの日ならば次にセットされているアラームまで二度寝することが出来るが、雨の日は今すぐに起きないと学校に間に合わない。

 俺はゆっくりと上体を起こすと、ベッドから出てカーテンを開けた。

 俺の家は祖父の代からの一軒家で、俺の部屋は二階にある。東京都の市部、そのわりには建物が密集していない地域にあり、窓から周囲の風景を見渡すことが出来る。

 まだ重たいまぶたを開いて外を眺めてみると、どしゃ降りというほどではないが、割とちゃんとした雨が降っていた。

 視線を上に上げると、雲は重々しく空をふさいでおり、そこを陽光に明け渡そうとは露ほども考えていないようだった。

「どうやら一日中降り続きそうだな」

 俺はそうつぶやくと、顔を洗うために部屋を出る。


 階下の洗面所に行くと、妹の相模さがみ美香みかが歯を磨いていた。

 身長百八十センチ前半の俺とは頭一つ分以上違う、百五十センチ前半の小ぶりな身体。髪を「長いのは動く時に邪魔になる」という理由で、ショートカットにしている。

 美香は気の毒そうな顔をすると、身体を洗面スペースの脇に寄せた。

「ありがと」

 礼を言ってから、俺は蛇口をひねって冷たい水を顔にかける。わずかに残っていた眠気の残滓ざんしが一気に払拭ふっしょくされた。

 かたわらに積んであったフェイスタオルで顔をいていると、その間に歯磨きを終えたらしい美香が俺に向かって言った。

「今日は雨だね……」

 やはり、気の毒そうな声である。俺は少しだけ笑顔を作りながら、

「ああ、そうだな。でも、いつものことだから大丈夫だ。心配すんな」

 と言って、妹の頭をでた。

「もう、子供扱いはやめて頂戴ちょうだい――」

 美香は顔をしかめて後ろに逃げると、すぐに気の毒と笑顔の中間ぐらいの顔に戻る。

「――でも、そう、いつものことなんだよね」

「そうだよ。いつものことだよ」

 俺は、今度は心から笑う。そして、つられて美香が眼を細めて笑う姿を見つめた。

 良く出来た妹だと思う。

 人への気遣いが出来る――時折度が過ぎることもあるが、大切な素質だと思う。お陰で、俺の朝の気分は少しだけ前向きになった。


 身支度を整えてからリビングに行くと、親父――相模さがみ賢一郎けんいちろうは既に家を出た後だった。

 東京都でも市部になると交通の便が悪い。自宅からバス停まで出て、駅で電車に乗り換える必要がある。その上、親父は国家公務員だったから、都心の霞ヶ関まで出なければならない。

 それでも、俺が『雨の日シフト』の日ならば顔を見ることぐらい出来そうなものたが、今日もいなかった。むしろ雨の日のほうが親父の出勤時間が早い。

 ――何か朝一番の用事でもあるのかな。

 親父が何の仕事をしているのか、細かいことを俺は知らない。総務省のキャリアなので事務方の細々とした仕事だろうが、雨の日限定というのは思いつかない。玄関に傘立てでも出しているのだろうか。

 四十歳前半には見えない白髪頭の、俺より頭一つ分背の低い、温和な表情をした親父の姿を思い浮かべつつ、俺はダイニングテーブルの椅子に腰を下ろした。

 それを待ち構えていたように、お袋――相模さがみ良子りょうこが具合良く焼いたパンを手にしてキッチンから出てくる。

 身長が俺と見た目があまり変わらない百七十センチ後半の、それ以外は美香と相似形をしたお袋は、ダイニングテーブルに皿を置きながら、

「準備は大丈夫? 忘れ物はない?」

 と、いつもの台詞セリフを『雨の日バージョン』――穏やかな声の中に少しばかりの真剣さをにじませて言った。

「ないよ。ちゃんと持ってる」

 俺は、軍用品レベルの防水機能が付与されたかばんを軽く叩く。お袋は安心して笑うと、

「そう。じゃあ、早く食べなさい」

 と言って、キッチンに戻っていった。

 妹は身支度を整えるのに時間がかかるので、俺は一人で朝御飯を食べる。

 背中のほうからテレビの音がしていた。国営放送のローカルなほうの放送時間で、妙に落ち着いた雰囲気の女性気象予報士が、やけに落ち着いた声で東京都の天気予報を伝えていた。

(今日は梅雨前線が活発で、そのため全国的に雨模様となり、東京の遭魔確率は五十パーセントを超えるでしょう)

 俺は少しだけ眉をひそめた。

 想定内のことだったが、改めて客観的な声で言われると神経を硬いブラシで一撫ひとなでされたような気分になる。

 急に食欲がうせたので、俺はそこで食事を切り上げて家を出ることにした。

 ――お袋が心配しそうだな。

 そう思いながら、心の中でお袋に手を合わせて謝罪しつつ、俺は鞄を手に取った。肩とひじてのひらに結構な重量を感じる。

「それじゃあいってきます」

「あら、今日は早いわね。いってらっしゃい。気をつけてね」

 キッチンからお袋が顔をのぞかせて、そう言った。やはり、穏やかな声の中に少しばかりの真剣さがにじんでいたので、俺は笑って言った。

「ああ、大丈夫。いつものことだから」


 俺が家を出ると、隣りの家の玄関前に同級生の柏崎かしわざき琴音ことねが、傘をさして立っていた。

 長い黒髪と切れ長の目。黙っていれば良家の子女に見えるほどの気品がある容姿だが、ただそれは外見だけのことで実際の彼女は結構気が強い。

 今日も憮然ぶぜんとした表情をしていたが、これは雨の日であれば必ずと言っていいほどそうなので、俺は驚くこともなく、

「おはよう」

 と声をかける。

「……おはよう」

 琴音は不機嫌そうな声でそれに答えた。

 これも、雨の日にはいつものことなので俺は気にしていなかった。それに、不機嫌なのは俺に対してではない。

「お袋さんと喧嘩するなよ」

「……大丈夫、言われなくてもわかってる」

 琴音はねたように横を向くと、小さな声で言う。俺は苦笑すると、

「じゃあ、先に行くわ」

 と言いながら、学校のほうに向かって歩き出した。

 俺の背中に向かって琴音が、

「気をつけてね」

 と、不満そうな、それでいて気持ちのこもった声で言ったので、俺は少しだけ振り向くと傘を振ってこたえた。

 これも、いつものやり取りの一つである。


 自宅前の道路は住宅地を横断する二車線で、普段から交通量が少ない。

 月曜日の朝だと車は殆ど通らないし、天気が良ければご近所さんが犬の散歩をしていることもあるが、雨の日となると誰も通らない。まあ、危険だから用がなければ外には出ないだろう。

 その二車線道路を百メートルほど歩くと、四車線の大通りに突き当たる。そこで、普段ならば左に折れて最寄りのバス停に向かうルートを選択するのだが、雨の日は右に折れ、七キロメートル近く大通り沿いの歩道を歩くことにしていた。

 自宅最寄のバス停から高校最寄のバス停は、五つ先になる。家からバス亭まで五分。バスに乗っている時間が十分程度で、バス停から高校までが五分となるので、合計で二十分前後だ。

 だから、普段は八時に家を出ても八時半前には学校に着く。

 しかし、雨の日には高校まで徒歩で通学することになるので、もっと時間がかかる。

 全体で七キロ程度の道のりだから、普通に歩くと一時間近くかかる上に、余裕を見て六時半には家を出るようにしていたので、途中何も問題がなければ七時半には学校に着く。

 ――何も問題がなければ、だけどな。

 俺は内心苦笑した。雨の日に俺に何事も起こらないことを期待するほうがどうかしている。

 そして雨の日の朝、俺の家族や琴音が俺に対して決して余計なことを言わないのは、それで俺の通学時間がぎりぎりになってしまう可能性があることを良く理解しているからだった。

 俺は歩道を、無言で、ただ歩き続けた。

 早朝であっても大通りの車の往来が途切れることはないが、それでも車の数は減るし、雨の日ならばなおさらだ。人影もまばらで、まるで活気がない。

 その中を俺は、無言で歩き続けた。

 すると途中で、前方に近所の小学校の名前が側面に書かれたマイクロバスが路肩に止まっていた。雨の日専用の通学バスで、バスの助手席側に背中のやたら大きい男が座っているのが見える。

 サイドウインドウが開いていたので、俺はバスの隣で足を止めると助手席の男に声をかけた。

「権藤さん、お早うございます」

「おお、相模君か。おはよう」

 鵜森警察署生活安全課の権藤ごんどういさむ巡査部長は、いつもの通り豪快な笑顔でそう言った。

「警戒態勢ですか?」

「ああ、そうだ。いつもの通りの雨の日シフトだよ」

「ごくろうさまです」

「いやいや――」

 権藤さんは苦笑しながら言った。

「――本当は君に同行すべきではないかと思うのだがね」

「それが無駄なのは、これまで何度も試してみて分かりきったことですから」 

 俺も苦笑しながらそう答えた。

「まあ、そうなんだがな――気をつけろよ」

「はい。まあ、いつものことですけどね。権藤さんもお気をつけて」

「よせやい。お前にそういわれると、尻がかゆくなる」


 権藤さんと別れて、また黙って大通りを歩く。

 人目があるところは問題ないと経験上分かっているものの、一応は警戒を怠らないようにしていた。「絶対安心」ということもまた、経験上あり得ないことが分かっているからだ。

 そうこうしているうちに、大通りを高校最寄りのバス停まで歩く。

 そのすぐ先にある細い路地を左に折れ、そのまままっすぐ歩いて行けば高校の正門前に着くのだが、俺はその路地を通り過ぎた先で、併走している道に入った。  

 最短ルートの道は、いくら時間をずらしていても同級生が歩いている確率が高い。だから、巻き添えにならないうように迂回している。

 それに、そのことは学校でも知れ渡っているらしく、雨の日にこちらの道を通りたがる生徒はいなかった。

 俺は曲がり角の手前で小さく息を吐き、道に足を踏み入れる。道は左方向にゆるやかに曲がっており、先が見えない。

 俺は鞄のファスナーを軽く開きながら、出来る限り遠くを監視するように心がけつつ、耳を澄ましながら歩いた。

 今日の遭魔確率は五十パーセントということだったから、遭わない可能性はある。しかし、そちらのほうがレアで、まず遭うことを前提に行動した方が良い。

 それに、俺の耳はさっきからその「音」を捉えていた。

 鞄に右手を差し込んで、中にある金属製のグリップを握る。

 掌が濡れていることに気がついたが、それが雨によるものなのか、汗によるものなのか判別はつかなかった。

 慎重に歩みを進める。

 それにつれて、道の向こう側から漏れ出してくる「音」――激しい息づかいが次第に大きくなっていった。

 こうなるともう疑いようがない。

 俺は鞄から、鋼鉄製の狂気――拳銃を取り出し、傘を捨てて両手で左下に構えた。

 ――来る!

 前方、曲がり角の向こう側。

 少しずつ目標物の姿が、空間に湧き出すように現れてくる。

 最初はまるで黒い染みのように。

 それが次第に輪郭を整え始める。

 最後に黒い影の中に赤い光――眼光が灯る。

 ――魔物マモノ!!


 俺はその眼光を狙って、拳銃の引き金を引いた。

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