エピローグ

いつか、君の名を

/epilogue1 空色少女と夏の日差し



 夏の陽光が白く舗装された路面をきらきらと反射する。空は痛いくらいに真っ青で、そして透明だった。

 ゆるやかな風が少女の黄昏色をなでる。少女――シエルは再び賑わうエルデの街を歩いていた。


 あれから一週間ほど経った。あのあとこの世界はいろいろと大変だった、らしい。というのもシエルがこの世界を訪れたのは一週間ぶりで、あの事件のあとから今日まで人間界エルデを離れ、彼女は神々の居所〝神界〟――つまり、自宅へ戻っていたのだ。


 その間、エルデではザクロとマコが様々な影響力を使って事件の後始末をしていたと聞く。

 学校には遅まきながら警察が駆け付け、事情を掴まないまま騒ぎのにおいだけ嗅ぎつけたマスコミがつめかけ、壊れた壁や内装を直すために土建会社が呼ばれ……今はこのあたりだそう。


 事件の震源地であった桜花高校はまだまだ元通りには時間がかかりそうだが、街はすでに以前訪れたときのような活気が戻っていた。

 被害こそ少なかったものの、シエルがザクロと出会ったあの日に起きたヘリ衝突事故から始まり、予測されていない皆既日蝕、異形の出現……そんな非日常からたったの一週間で元に戻るなんて。ザクロたちの手腕によるものなのか、それともネームレスたちの性質なのか。


 シエルは周囲を見回す。

 そこにはまるで、以前この街を歩いた時と全く同じ映像を流しているみたいだ、と感じてしまうような不思議な既視感があった。

 この世界の普通の人間――ネームレスは特別なことがない限り同じ日常を繰り返しているだけなのかもしれない。動く背景とはよく言ったものだ。


 ザクロだけが、この世界の奇妙な構造に気付いていた。

 彼はこれを呪いと呼んでいたが、この世界がもともとなのだから、呪いを解く方法なんてなく。

 顔も名前もない『誰か』たちの中で、唯一この世界のしくみに違和感をもってしまった彼は、ひとり孤独と戦っていた。だから身近な人間を『誰か』じゃない何者かにしたくて『総統かのじょの名を呼びたい』と願っていたのだろう。


 シエルは視線を隣に移す。そこには今回の騒動の発端である灰天使、もとい、ヒツガイがいた。

 翼もなく、肌も血色を感じられるヒトの色をしている。この世界の登場人物としての姿だ。二人はザクロがいる公邸に向かっていた。


「『やったことの後始末はつけてもらう』って言われてたのに、あのあと神界に強制送還されることになるとは~」


 副総統サマ怒ってっかなぁ、と台詞の内容に反して一切申し訳なさの感じられない気の抜けた声で彼はつぶやく。


「当り前じゃない。 神 おとうさまの名を名乗って私を騙していたんだから」


 シエルは少し不貞腐れたように、彼に非難の目を向けた。


 そう、すべて最初から。今回の事件はすべて灰天使が仕組んだものだった。

 灰天使の護石を割ったことだけでなく、シエルに『灰天使の護石を見つけて修復したら願いを叶えてやる』とゲームを持ちかけたことも全部。


「まんまと騙されたわ!」シエルは不満げに頬を膨らます。


「騙しちゃいましたぁ」と相変わらず反省の色を見せずへらへらと笑うヒツガイ。


「……というか、 神 おとうさまを演じるなら、私を使ってザクロを護石に誘導する方法なんてほかにいくらでもあったでしょうに。わざわざ痛い思いしてまで護石を割る必要なんてあった?」


「ちょぉっとだけ真実を混ぜること、それが嘘つきのコツなんでぇす」


 人好きのする笑顔。シエルはこめかみを押さえて呆れたように息を漏らした。


神の子わたしを攻撃するだけじゃなくて 神 おとうさまを演じるなんて罰当たりにもほどがあるわ。文字通り〝処分〟されてもおかしくなかったのよ? 少しくらい反省なさい」


「あっはっはーちゃぁんと反省はんせーしてますって! ヒツガイって登場人物がこーゆー喋り方なんですぅ」


「よくわからないひとね。あなたも、あなたが演じるヒツガイも」


「それにまぁ、処分されるならそれはそれでよかったっつーか……脇役ネームレスが一人消えたところで誰も気づかないのと同じように、登場人物ですらない灰天使わたしが消えたところで誰も気づかねーよなぁって思ったら、消えたいとまでは思わなくても存在することに対する執着ももうすでになくって」


 もともとザクロを手にいれたら、あとは神に処分されるのを待つつもりだったという。

 そうあっけらかんと言うヒツガイの声色は相変わらず能天気で。

 シエルは「やっぱりあなたってよくわからないわ」とつぶやいた。


「でもこんだけいろんなことやらかしといて、お咎めなしだったのは意外でしたねぇ」


 ヒツガイが不思議そうに首をかしげる。

 今回の件に関する灰天使への処分は意外にも軽い注意程度で、それ以上は何もなかったのだ。それどころか護石の修復も神の手によってなされた。


「シエルちゃん、何か心当たりあります?」


 処遇が甘すぎて怖いんですけどぉ、とシエルのほうを見ると彼女は「かわいい子は心も広いのよ」とだけ言った。


「え、やば! もしかしてシエルちゃんがあるじ様にお口添え? してくれた感じ? やだぁシエルちゃん最高カワイイダイスキー」


「まあ、あなたの境遇には少しだけ同情するものがあるし、それに……」


「それに?」


「ゲームにしては、そこそこ楽しめたもの」


 満足げにほほ笑むシエル。皮肉や、彼を責めるニュアンスは少しも感じられない。

 しかしヒツガイは――その笑顔に心臓が凍りつきそうになった。


 すべて灰天使に仕組まれていた一連の出来事も、彼女にとっては〝暇を持て余した神々の遊び〟に過ぎないらしい。

 巻き込まれた彼女でさえその程度の些事さじとして捉えているのだ。

 それなら傍観していたであろう神は、わたしの創造主は?


 名も呼ばれないくらいだ。赦されたのではなく、神にとっては最初から自分のことなど眼中になかったのではないか。

 普通の人間には認識されないどころか、創造主たる神さえも自分の存在をないものとして扱う。そう思うとチクリと胸を刺されるような、複雑な感情に支配されそうになるも「神々の寛大なおココロに感謝しまぁす」と強引な笑顔でそれを心の奥底へと封じ込めた。


 ――大丈夫だ。「君はもう孤独じゃない」と言ってくれたあの人がいるから。


 心の中で自分にそう言い聞かせていると、ふたりは目的地にたどり着いた。

 白くて大きい、まるでお城みたいな建物が大小ひとつずつ。整備された綺麗な庭に噴水。

 数日しか離れてないのにひどく懐かしい。


「うわぁ、なんか緊張してきた……帰っていい?」とヒツガイ。


「帰るって神界に? 私はそれでもいいけど」


「……シエルちゃんのいじわる。、返してあげないっすよ!」


「あ! 私のナイフ!」


 ヒツガイがどこかから取り出したのは、護石に置いてきてしまっていた彼女の武器。取って帰ってきて、とザクロにお願いしていたのにすっかりうやむやになるところだった。

 手を伸ばす。ヒツガイは彼女がとることができないように高い位置までそれを持ち上げる。


「返してちょうだい!」


「ワタクシの本当の名前を呼んでくれたら返しますよぅ」


「無理ね。


「!」


 彼女の言葉にまたしても凍りつきそうになる。この世界はわくわくするもので溢れてた、とあの人は言っていたが、やはりこの世界は残酷らしい。


 ――早くわたしの名を呼んでくれるあの人のもとへ向かわなければ。


 ――ああ、でも、あの人もわたしの名を忘れてしまっていたら……。


 曖昧に笑ってごまかしナイフを返した彼は、そんな一抹の不安を抱えながら公邸へと歩き出した。


「さて、と」


 シエルは彼の背中を見送ると、ツインテールをひるがえす。そこにあるのは賑やかな街並みと、顔のない人々。

 天を仰げば、そこには数日前と変わらない青い空。

「良い世界になったものね」そう感じた数日前とは、少し違った感情を抱いた。


「今日はどこに向かおうかしら」


 少女は歩きだす。

 そこには夏の日差しが降り注いでいた。










/epilogue2 いつか、君の名を



 ヒールを鳴らして僕の前を歩く彼女。でも、その姿は曖昧だ。



「ええっと、次の予定はなんだっけ?」



 聞き慣れた彼女の声。でも、僕は彼女の声を聞いたことがない。



「たまにはふらっと出かけてみたいなぁ、仕事じゃなくてさ。ほら、空も元に戻ったしさ!」



 楽しげな表情の彼女。でも、その顔はよく見えない。



「……ザクロ、聞いてる?」



 僕の名を呼ぶ彼女。でも、出会ってから九年も経つ彼女の――








 ――君の名を、僕は


「まーだ知らないんだよなぁ~~~~~~……」


 はぁぁぁあああ、と盛大なため息を吐くザクロ。そんな彼を総統は怪訝そうに見つめていた。もっとも、彼女には依然として顔というものが存在してないのだが。


 事件前と変わらない青い空。相変わらず呼ぶことができない君の名前。


 脅威は去って一件落着……と言いたいところだけど、結局何も変わってない。

 彼は本日何度目かもわからないため息をまた一つ吐く。


「ザクロ!」


「へ? っ痛ぁ!?」


 すごく気持ちのいい音がした。衝撃に思わず目を閉じる。彼女の中指がザクロの額をはじいた。

 突然の出来事に混乱する彼の頭は「デコピンって本当にやる人いるんだ……」などという的外れな所感を抱いていた。


「またボーッとして。アンタが人の話を聞かないのなんていつものことだけど」


「うう、酷い言い様……」


「あの事件のあとからずーっとうわの空でさ。ヒツガイさんがいなくて忙しいのはわかるけど」


「いや、それは別にいいんだ。忙しいことには変わりないけど、最初に異変が起きたときに君が的確に動いてくれたおかげで目立った被害もほとんどなかったし」


 窓の外を見る。そこには同じシーンを何度も使いまわされたような、見慣れたエルデがあった。平穏、は喜ぶべきところなんだろうけど。


「……変わらないなって思ってさ。『願えば叶う』なんて言うけれど、どうやったって叶えられないこともあるみたいだ」


 瞳の柘榴ザクロ色が物憂げに細められる。


「そういえばザクロの願いって何だったの? ほら、シエルちゃんが言ってたじゃん」


「……君にだけは絶対教えない」


「えー! そう言われるともっと気になるんだけど!」


「だって恥ずかしいし」


「別に誰かに言いふらしたりしないって! ねっ?」


「だーめ」


「むぅ、ザクロのけち」


 そのやりとりに思わず頬が緩む。

 もし君に顔があったとしたら、くるくる変わる君の表情を僕はずっと見てしまうんだろうな。ああ、それって今とそんなに変わらないじゃないか。


「ねぇ、総統。あの日僕が君にした願い事、覚えてる?」


「なんだっけ?」


「名前呼んでってやつ」


「ああ」彼女はたった今思い出したようにつぶやいた。そして彼の名を呼ぶ。


「もちろん覚えてるよ、ザクロ」


「もっかい」


「もっかいどころか、飽きるくらい呼ぶって言ったでしょ。ザクロ」


「うん」


「ザクロ、ザクロ。……ザクロ」


 その響きはくすぐったくて、心地よくて。

 同時に彼女の名を呼び返すことができないことがもどかしかった。


 ああそうだ。カイが帰ってきたら、僕も同じように彼の名を呼んであげよう。


 世界は誰かのつくりもの。

 奇妙な世界構造は、ネームレスという仕組みは、きっとこれからも変わらない。

 この世界はそういうふうにつくられた物語だから。


 それにもし君の名を呼べる日が来たとしても、今とそんなに変わらないのかもしれない。

 君が大事だって気持ちに名前は関係ないんだ。

 


 それでも、魔法知った僕は奇跡を期待してしまう。

 呼んでみたいって願ってしまう。


 ――いつか、君の名を。








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