4-9


 名は体を表す、という言葉がある。名前がそのものの実体を表すものであるという意味だ。


 そう、その言葉の通り。


 名はそのものの実体を表す。

 裏を返せば名を持たないものはそもそも実体を持たない。


 なのだ。


 だが、どうだろうか。名を有していても、誰からも認知されないなら。それは存在していると言えるのだろうか。

 答えは、否。

 わたしというものが誰からも認知されないなら、カイわたしの名を呼ぶものがいないのなら。


 わたしの存在はないも同然。

 だから、だから、ああ。



「あなたにわたしの名を、呼んでもらいたかった」



 それだけだ。たったそれだけの、願いだったのに。




§



 ひとり、ザクロは灰天使の護石の前に立っていた。


 倒壊した石碑。ザクロは割れた鏡面を見つめ、目を細める。

 石碑はゆらめくような鈍い光を放っていたのだ。


 ――扉が、開いている。


 ザクロは逡 巡しゅんじゅんした。初めてここに来た時は一緒だったシエルが今はいない。手助けは不要だと自ら申し出たのだが……一人で向かうのは危険だろうか……。


 しかし彼はすぐに迷いを捨てた。自分が無事帰ってくることを信じてくれている友人たちの想いが、彼に勇気を与えたのだ。


 深呼吸をひとつ。

 そして――石に触れた。


 とたんに光の奔流がほとばしった。光は絹糸のようにザクロに絡みついた。すぐに彼の全身がそれに包まれ、光はやがて潮が引くように石の中へ回収されていく。

 ザクロの姿は、消えていた。



/



 いつの間にかどこかに立っていた。両側にはくすんだ灰色の壁。灰天使がいたあの宮殿の通路に違いなかった。

 ザクロは迷いなく先に進んだ。足音を気にすることもなく、堂々と。


 そして玉座の間へ踏み込んだ。


 最初に視界に入り彼の視線を釘付けにしたのは、水盤の縁に座る灰天使だった。水面に視線を落としていた彼は、ザクロが部屋に踏み込むのと同時に顔を上げ、驚く様子もなく静かに一人の来訪者を見た。


「……次はどう攫ってしまおうか、と考えていたのに。理由はなんであれ、まさかあなたのほうからわたしのもとへ来てくださるとは」


「〝まさか〟って言うほど驚いてるようには見えないんだけど」


「もちろん。ずっと見てましたから」


 水盤の縁を撫でる。すると、水盤そのものが跡形もなくどこかに消え失せた。

 ふと背後を振り返ると、この部屋の入り口もいつの間にか閉ざされていた。逃げ道はどうやらなくなったらしい。


「今度こそ、逃がしませんよ」


「!」


 頭上から声が降ってくる。十数メートルは離れていたはずの灰天使が真後ろにきていた。反射的に身を固くする。


「そう構えないで。わたしはあなたを傷つけない。あなたを手に入れさえすれば、名を呼んでさえしていただければ、ほかには何も望まないのですから」


 抱擁するように両翼でザクロを包み込む。

 見上げると、自分のもの同じ色をした赤目と目が合った。


 灰天使の赤い右目。それは昔マコに抉ったザクロの右目を埋め込んだものである可能性がある、と総統とマコが言っていた。


「…………」


 真偽を問いたい。しかし、彼は結局それをしなかった。その行動ももはや無意味に感じたのだ。


「……ヒツガイさん」


 ザクロは問う代わりに、慣れ親しんだその名を呼ぶ。灰天使は不快そうに顔を歪め、その名を否定する。


わたしはカイ。ヒツガイという人間は存在しません」


「そんなことない。十年間、僕を支えてくれていた彼は確かに存在していた」


「っ、それなら――!」


 彼の瞳に、一瞬何かの色がひらめくのをザクロは感じた。


「それなら、わたしは、はどこに存在するというのですか……!」


 それは悲哀の色だった。すがりつくような口調がザクロに浴びせかけられた。


わたしは名を有するにも関わらずネームレスと変わらぬ存在。この物語の登場人物じゃない。個として認識されない。だが不幸にも、ネームレスと違ってわたしはその事実に気付いてしまえた」


 灰天使は一息にそう言って、さらに続けた。


あるじ様はわたしに万能を与えてくださった。何でもできる、何にでもなれる。しかしただ一つなれないものがあった。――それはわたし自身。エルデという世界では、登場人物だれかになったわたしは見てもらえるのにわたし自身は誰からも認識すらされない。名を呼んでもらえない! 誰にも見てもらえないならそれは……っ、それは存在しないことと同義ではないか……!」


 その誰に宛てたものでもない静かな叫びは、打ち消す別の声もなくただ虚しく響いて消えた。

 乱れた呼吸を整えると、灰天使は笑顔をつくった。そうとしか表現できないほどぎこちない笑みで「失礼しました」と小さな声で言った。


「……君の目的は、ただ名を呼ばれたいだけじゃなくて、〝名を呼ばれることで自分の存在を証明したい〟ってことだったんだね」


 ザクロは責めるふうでもなく、かといって同情もない中立的な口調で言った。


「エルデを元に戻して欲しい。そして一緒に帰ろう」


「何を馬鹿なことを。せっかく、ようやく、あなたを手に入れたのに。あなたは唯一そのままのわたしを認識してくれる。あなたさえいれば、わたしわたしではない登場人物だれかにならなくて済む。――まあ、気がかりならひとつめの願いごとは叶えて差し上げます」


「僕がいればそれでいいって言うなら、ずっとここに閉じこもっておく必要もないだろ」


「必要なら大いにあります。誰かに認めてほしいとか、愛しいひとを独占したいとか、こういうのってすごく人間的な考え方でしょう? わたしは人間ではありませんが、この世界に長くいるうちに人間あなたたちらしい考え方が身についてしまったようです。人間であるあなたからなら共感を得られると思ったのですが」


「僕には理解できない」


「それならそれで結構。どのみち帰すつもりはございませんし」


 平行線を辿る会話。ザクロは感情をため息に変えて吐き出した。


「……一緒に帰ろう。そのために僕は来たんだ」


「それは、大切な総統サマご友人からの頼まれごとだから?」


「それもある、けど」


「けど?」


 ザクロは言葉を選んでいるようだった。

 少しの沈黙のあと、彼は慎重に口を開く。


「ここから逃げ出すとき、シエルに言われたんだ。『会いたい人を思い浮かべて』って」


「それで?」


「僕が思い浮かべたのは総統と、それからヒツガイさんだった」


「……は……?」


 灰天使はぴくりと反応する。

 ザクロの言葉に皮肉のニュアンスは微塵もなかった。


「ずっとそばで支えてくれていて、僕にとっては家族よりもずっと家族みたいなひと。僕は君たちが好き。君たちといるエルデが好きだ。だから一緒に帰りたい」


「それは……あなたもわたしのことを見てくれない、ということですか」


 灰天使は失意に顔を歪めた。ザクロは「そうじゃない」と即座に彼の言葉を否定する。


「ヒツガイさんの存在を肯定することは、君の存在を否定していることと同じじゃない」


 意味がわからない。わたしわたしが演じる登場人物ヒツガイは同時に存在し得ないのに。

 そんな彼の考えを汲み取ってか、ザクロは言葉を付け足す。


「難しいことじゃない。んだ。ずっとエルデを守ってくれていた君も、ずっと僕のそばにいてくれたヒツガイさんも、どっちの君も僕は知ってる。どんな姿の君もぜんぶ本物なんだって、僕は信じたい」


 そこまで言うと、ザクロは困ったように頬をかいた。


「ああ、やっぱりダメだな僕は。いろいろ考えたんだけど、月並みな言葉しか思い浮かばないや」


 気の利いた言葉を言えなくて悪いけど、とザクロは続ける。


「僕たちって結構、似たもの同士なんだと思う」


わたしと? あなたが?」


「うん。僕たちはきっと孤独だったんだ」


 自分自身がこの物語の登場人物じゃない、個として認識されない存在だということに気付いてしまった灰天使。

 誰かにつくられた世界で、周りの人間が名前を持たないことに気付いてしまったザクロ。


 二人は奇妙な世界構造にさいなまれながら、孤独の中を生きていた。


「ずっと生きづらいって感じてた。この世界は呪われているんだって。でもそうじゃなかった。世界は僕が想像していたよりもずっと、わくわくするもので溢れてた」



『願ったことはなんだって叶う』

 そんな奇跡まほうが、この世界には存在していた。




「エルデでやりたいことがまだまだたくさんあるんだ」


「総統サマの名前を呼ぶこととか?」


「うん。でもそのとき君がいなくちゃ物足りない」


「物足りないって……」


 複雑な心境に上手く言葉が出ない灰天使。そんな彼をよそに、ザクロは「それから」と声のトーンを少しだけ落としてさらに続けた。


「今回の騒動は到底笑って済ませられることじゃない。やったことの後始末はきっちりつけてもらう」


「げ」


「『逃がさない』って君は言ってたけど、違う。僕が君を逃がさないんだ。君にはこれからも僕の下で、エルデのために働いてもらう。――だからこれからも僕のそばにいてくれないか。君はもう孤独じゃない」



 灰天使の手をとる。



「存在の証明なら僕がするよ、。何度だって、君の名を呼ぶから」



 だから一緒にエルデに帰ろう、ともう一度ザクロは言った。


 長い沈黙。灰天使は形容し難い感情の波に飲まれ、次の言葉が出てくるまでにかなりの時間を要した。

 やがて彼は詰めた息をどっと吐き出したあと、小さな声で宣言した。


「………………降参です。やっぱりあなたには敵わない」


「! カイ」


 もう一度、彼の名を呼ぶ。彼は戸惑っているようで目を泳がせた。


「ずっと望んでいたこととはいえ、なんというか……」


 こほん。と咳払いを一つ。


「願ったことはなんだって叶う、ねぇ」


 灰天使は部屋の中央まで歩き、そう呟くと彼は再び水盤を出現させた。

 そこには二人がよく知る世界、エルデが映っていた。水面をなぞる。

 すると今まで遮られていた陽光がしたのが見えた。


「帰りましょうか、エルデに」


 その言葉とほぼ同時。視界が明転し、ザクロは思わず目を閉じた。

 次に目を開けたときには、いつの間にか桜花高校の校舎裏、鏡石の前に二人は立っていた。

 言葉もなく目の前の石碑を見つめる。


 静寂。


 その静寂が、事件の終幕を告げていた。



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