第四章
「放して。放してよ。いい加減にして。いいから、早く放して」
先の時計のうめきが少女にとって何かの幕切れを意味していたかのように、部屋に閉じ込められてより此の方黙りこくっていた彼女が突然発語した。さっきからの赤城の望みは唐突に実現したはずなのであるが、さらなる状況の変化を目の当たりにした赤城は、虚をつかれて暫し自失してしまった。
「急にどうしたんだ。今の今まで、黙りこくっていたのに」
赤城は少女への組み拉ぎを警戒しつつ緩やかに解きながら聞いた。
「せっかく楽しませてやろうってのに、何をむきになってんのさ。痛いったらありゃしないよ。怪我でもしてたら、治療費たんまりふんだくってやるからね」
口調はともかく、彼女がしゃべりだしたことは、その口から事情を聴くには好都合であった。だが一方で、赤城はどこか名状しがたいやるせなさを感じていた。彼が勝手に解釈していたことには、得体のしれない脅威に自堕落な振る舞いを強いられてなお、清新な心を失うことのない少女といったモチーフであったから。その白皙の肌を穢すか穢さないかのきわで舞踏をなすための正当な理由を失ったことに、彼は反発を感じざるを得なかった。
赤城は自らが異様な感覚に襲われていることを自覚した。その異様さを言葉に変換しようと思った。海棠社に遊ぶ瀟湘妃子が変面して紫石街の藩金蓮になったような。その考えも袋小路に入ったことを早々に自覚してやめた。
「どうもこうもないさ。あたしゃ、上野の貧民窟から爺に引かされて、夜中の三時まで無言でここに来た男を誘うようにと金で雇われただけだからね。あんたこそ、何も聞いてないのかい」
「・・・・・・」
打って変わって今度は少女がしゃべりだし、赤城が黙る番だった。彼は絶句したまま、二の句さえ思いつかない様子であったが、少女はこなれた風におもむろに寝台へ向かい、四肢を放擲するようにして仰向けに倒れ臥した。夜目にも純白が明らかだったシーツは少女の土足によって汚泥を擦り付けられながらも、少女のかかとに欣々としているように見えた。少女は既に仕事は終わっているにもかかわらず、裸体という衣装を脱いでいなかった。赤城はひとりごつように、
「しかし、なぜ。誰に何の得があるっていんだ」と脆弱な声で言った。
少女は赤城の方を見向きもせず、仰臥したまま答えた。
「さぁね。私の知ったことじゃないさ。大方、爺が部屋のどこかにのぞき穴でもぶち抜いて、盗み見てるんじゃないの。ふふ、いやらしい狒々爺だね」
さらに少女は続け、
「結局、いつまでも強情はって損したのはあんただけどね。もう仕事は終わったんだから、今から改めてなんか御免だよ。そんなことよりさ、たばこ持ってないかい。半日も吸ってないと大変だよ」と放言した。
赤城は少女がしゃべる間中、彼女の弁舌そっちのけで茫然としていた。そして、よろめきそうな体を壁にもたせ掛けた。彼が持て余した腕を背中側へ回すと、壁絵に描かれた窓の框だけは本物だと知った。少女は立ちすくんでいるように見える赤城に業を煮やして、
「もう、いいやい。とりあえず、私は昼過ぎまで寝るつもりだから。あんたも朝になったら帰りなよ。鍵ならさ、早起きの爺が五時には開けてくれるだろうからさ」と、突き放すように言ったっきり、黙った。やがて少女のささやきにも似た寝息が、底を打ってからようよう明けゆく夜のしじまを呼び込んだ。
少女の寝姿は今の赤城にさえ、天真爛漫、純真無垢と形容できるほどであり、それは寝ざめから始まる彼女の本当の性質をいっこうに顕わすことがないでいた。この窓のない部屋に、赤城一人だけの意識が残された形になった。
今や、彼が辺りを見るに、貴顕紳士をかたどった塑像はそれ以外の何物でもなく、ドレスアップした貴婦人の油絵もそれ以外の何物でもなかった。赤城は自らの冷静沈着さを確認するかのように一度、空唾を無理に飲み込んだが、それは彼の骨と皮だけの喉仏を不気味に一度沈隆させただけだった。
もう長いこと、一人の綽綽とした寝息の他、何も聞こえない。明けゆく夜をこの部屋に教えるものは、ただ、時計の針だけであるはずなのだが、見ると、時計はついに死を迎え、この部屋は時ならず時を失った。窓のないこの部屋を夜明けが訪れるのはまだ当分先、重厚なレンガ造りの館が激しい陽光を室内にまで漏らす刻限を待つ必要があるだろう。部屋の明かりは、何によるものだろうか、芥子粒のような儚き明滅一つを残してみな息をひそめている。
一面暗晦な部屋の中で、一対の眼球が怪しい光を発しながらあくがれている。その眼球は揺らめいたあと、寝台の上で熟睡する容姿端麗な少女の上に到り、そこでさまよいを止めた。その位置からは、眼球の主が寝姿の上に四つん這いになっている様を容易に想像することができる。少女の肌えに触れるか触れないかのきわを、眼球はおもむろに舐めてゆく。少女の露わな下腹からみぞおち、首筋、うなじ、おとがい、唇へと滑るように動いてゆくのが暗闇の中でも明瞭に見える。部屋の時は凍てついたかのように静止した。
部屋を独占していた安らかな寝息が聞こえなくなって久しい。かわって、別の息遣いが、初めのうちは漸進的に、ある時に到ってからは堰を切ったように急進的に、その荒ぶる音響を増幅していった。
この時、それまで頭上に伸びきっていた少女の腕が突然、優しく振り下ろされた。そのまま、少女の小手先は闇の中で何かをつまんだようで、一条の筋が少女の手首から肘へと走るように浮き上がった。みるみるうちに、寝顔のうえに乗っかっていた眼球は周辺を鮮やかな真紅の血管に彩られ始め、わずかに震えながら眼窩を遊泳し始めた。そして、いくばくもなく、部屋には人が人の呼吸を強奪する、荒々しく息せき切る音が響き始めた。部屋の中に閉じ込められた二人のうち、いずれか一方が他方の肺腑から空気を奪うごとに奏でられる音が、吸い吸われる両者の口の間からとめどなく溢れ出し、湿った絨毯の上に落とされては消えた。
やがて眼球は夜の奈落に逝った。最後には、暗闇の他、何も見えなくなり、沈黙の他、何も聞こえなくなった。
了
【小説】妄語(もうご) 紀瀬川 沙 @Kisegawa
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