第三章

 草卒に扉に近づいた赤城は取っ手を握ったが、扉は封鎖されているかのように頑なに閉じたまま、決して開くことはなかった。彼は間歇的に、扉を叩いては取っ手を回して開けようとした。しかし外側からは反応も何もなかった。激烈な閉まり方をしたので扉と框の構造が歪んでしまったのではないかと考え、赤城は力を込めて何度か扉を開けようと試みたが、一向に開かない。しまいには赤城は肩で勢いよく扉板に激突するようになった。それでも開かない扉を前に、赤城には諦念も萌し始めていた。よくよく見ると、扉の内側は歴年の手垢のような脂で汚れ、かつ錆びており、扉板も体当たりを紋切型で受け止めるかのように同じ個所の塗装が剥げている。

 これらの物証は赤城に、自身が悪質な企ての被害者になろうとしているといった想像を強いるのに十分であった。彼は扉から脱兎のごとき敏捷さで離れた。そして、わずかに隙間を残して引かれたカーテンのかかる煽り窓へと、少女を半ば突き飛ばすほどの勢いで駆け寄った。ところが、彼がカーテンをつかもうと手を伸ばした時、彼の爪が壁に激突し、激しい痛みをもたらした。カーテンも煽り窓も、何者かが閨の壁に描いた精巧な絵であった。

 赤城はいよいよ卦体が悪くなり、この洋館が魔の棲家であるとさえ思えてきた。赤城はこの不可解な事態を何とか理解しようと、先刻から露も感情を表に出さない少女に対し、

「閉じ込められたのか。君は何か事情を知っているね。今すぐ私に教えるんだ」と、声を張り上げて言った。

 彼女は赤城の瞳を見つめてはいるが、答えることはしない。赤城は語気を強めて再度、

「おい、黙ってないで、答えてくれ。何か知っているのか。この部屋についてでも、この館についてでもいい」と荒々しく聞いた。

 「・・・・・・」

 少女は黙然としたまま、赤城の目の前を通り過ぎて壁際へと到り、鏡卓の上に置かれた陶器の花瓶を優しく一撫でした。少女が前を通った刹那、赤城の鼻腔にはまたあの匂いが漂ってきた。

「君が錠を誤ったのか。それとも、あの爺さんのしわざか。そもそも、君とあの爺さんは血縁なのか。なければまた妙な話だが」

「・・・・・・」

 むろん、少女は答えない。それは彼にとっては予測するに難くないことであったが、彼は独白を続ける必要があった。なぜなら、先刻から彼の詰問を受けている間に、少女はしずしずと葡萄茶の羽織を脱いでしまって、露わになった両腕は少女の両脚とあわせて今宵の雨気を艶やかにまとって陸離としていたから。何人もその婀娜っぽさの前では蠱惑に駆られたであろう。赤城も例外ではない。あまつさえ漂白する芳香によって神経が敏くなっていたので、彼の理性は発言を続けることによる韜晦を命じた。

「まあ、邪推にはきりがない。君も見知らぬ男と閉じ込められるのは嫌だろうが、今は仕方がないから我慢してくれ。なるべく離れるように努める」

 少女がいじくる、花瓶に挿された唐橘に向かって懇願するように言っていた。依然続く無言に呆れた赤城は、少女と対角線上にある寝台に、靴を脱がず両脚を膝で折り曲げた格好で仰臥した。寝床へと寝そべる行為に及ぶことへの抵抗を感じなかったわけではない。しかるに一日の肉体的疲労と、それに折り重なって蓄積された精神的疲労とによって、彼は一刻も早く横になりたいと渇望していた。

「今日はもう、へとへとだ。片時だけでも、休ませてくれ」

 言い訳をするように、彼は天井に向かってつぶやいた。閉ざされた部屋からどうあがいても脱出することができないと知った以上、赤城は先方からの接触を待とうと肝を据えた。長かった一日の疲れがかえって眠りを遠ざけたか、あるいは瀰漫する柑橘の香りによってか、彼は眠りの底に落ちるのにやや時間を要した。

 その時、どこからともなく美しいアリアが聞こえてきた。バッハ作曲の『二段の鍵盤をもつクラヴィチェンバロのためのアリアと様々な変奏』だと分かった。奇妙にも赤城にはこの音色が実際に室中を流れているのか否かを確かめる気は起らなかった。ただ、臥したまま、もっと長く鑑賞していたいとだけ思えてくるのだった。彼の脳裏では、この室中にはピアノがあって、今少女がそれを赤城の夜伽にと、貴顕の息女よろしく弾いているのであった。少女が優しい指の運びで弾くカノンがクオドリベットに変わる前に、彼の中の少女は夜の湿気の中に蒸発していった。

 あいにく、赤城には以降の少女の動向が分からない。ただ、彼の意識の境外で、古い発条時計の針だけが午前一時を目指して夜の底に抗っていた。

              *    *    *

 赤城は浅く続く眠りの中で、とある夢を見た。たった二人だけの会話が音声だけを伴い、みな底から浮かびあがってくるかのように聞こえてきた。

「おキツや、聞いているのかい。いいかい、前に言った通りに、つつがなくやるのだよ。こればかりはお前さん一人の腕にかかる問題なんだから」

「分かりました。でも、万が一ダメだったら、どうすればよいのでしょう」

「ダメとは。相手が不能だったらということか。そんなことは、考えなくてよい。お前さんは言いつけた通りの働きをすればよい」

「違うの。相手の人がどうこうじゃなく、私の方が」

「いったい何を言い出すかと思えば、お前の方がだと。お前はそんなことを言える立場じゃないんだから。いいかい、これはまだ最初の仕事に過ぎないんだよ。これからお前にはもっともっと仕事に精を出してもらわないといけないんだから。亡くなったご両親も、草葉の陰からそう願っているはずさ」

「二人がそう願っていらっしゃるの」

「そうだ、彼れがまだ健在だったころ、よく私に言ったものだったよ。『うちにキツは働き者だから、私達夫婦は安心して老いらくを迎えることができる』とね」

「本当に、本当にそんなことを」

「ああ、確かに言っていたさ。現にほら、今お前さんは立派に仕事をこなそうとしているじゃあないか。ご両親にも、今のお前の姿を見せてやりたかったよ」

「二人が喜んでくれるなら、頑張ってみるわ」

「おお、その意気だ。さあ、行っておいで。頑張ってくるんだ。・・・・・・そうさ、もっと働いて法外な金を持ってきておくれ。さっきの両親の言葉も、記憶違いはあるかもしれんが、大体の趣旨はそんなもんだろう。何せ、お前の親があまりにも能天気だったから、私は自分が騙したことも忘れていたよ」

              *    *    *

 この会話の短い断片が赤城の夢枕に出てきた由来は、まったくわからない。ただ、赤城には、自分の心の中にある何かを披歴しているように思えた。夢を見ていた時間は、おそらくごくごく短い間であったろうが、この夢は彼が目を覚ましてからも彼の脳裏に沈鬱な空想をこびり付かせたままであった。

 赤城は息苦しさによって忽然と眠りから覚めたが、わずかに寝返りをうっただけで、まだうつらうつらしていた。室内は不快な一つの箱と化していた。赤城が寝入ってからどれくらいの時が流れたであろうか。彼には要領を得なかった。だがそれも閉ざされた密室においては関係がなかったかもしれない。息苦しさはやせ我慢できる段階を通り過ぎ、うつらうつらする赤城の目を明確に見張らせた。

 すると、彼は目と鼻の先に、少女の清かな両の目を認めた。そして、今まででもっとも強い蜜柑の香りが彼の鼻腔をつんざいた。少女はつぶらな瞳をとろかせて赤城を正面に見据えながら、彼のしだらなく開いた口を吸っていた。彼が反射的に仰け反った体を引くと、少女の口吻も彼のそれを追従した。眼球を下に滑らせた赤城には、少女の肩にかかっていたはずのワンピースの肩紐がなくなっているのが見えた。ただ、密着していることで、幸か不幸か、この雨夜の迷える妻帯者には少女の裸体が直接に見えるわけではなかった。

 代わりに、少女の肩越しに、この洋館の往時の主なのだろうか、立派なカイゼル髭を蓄えた貴顕紳士の胸像がこちらへ視線を投げかけているのが赤城の目に入った。その塑像からは、恐慌から取りも直さず落魄したというかつての洋館所有者の、像がたたえた栄耀から在りし日の斜陽までがありありとしのばれるような気がした。こんなことを考えて、赤城は我に返った。目覚めてから常に息苦しかった原因が、少女がか弱い力で、だが確固として、赤城の鼻をつまんでいるためであると分かった。

 赤城は少女を自分から離すために、彼女の素肌の両肩をつかみ、自身から精一杯突き放した。ただ意図したほどには離れなかった。それでも赤城はようやく、少女の露わな、しなやかな、艶やかな肢体を見た。湧き上がる蠱惑を感じたが、少女の背後の貴顕紳士の像が彼の理性を留め置いた。なおも裸の少女は寝台のシーツの上をいざりながら迫ってくる。赤城は土足で寝台を踏みつけ、躓きながらもようやく遠くへと逃げた。

「どういうつもりだ。君にこんな真似をさせたのは、あの爺か。とんだ売春宿じゃないか」

 彼に挑んできた少女は今や赤城はもちろんのこと、何者かの目をも意識するかのごとく、兢々とした立ち居振る舞いでようやく桐箪笥の陰にもたれた。彼女は貴顕紳士の像の向かいの壁に掛けられた、ドレスアップした貴婦人の油絵を恐れるようにうかがっていた。この様子にただならぬ事情を察した赤城は、一転して優笑顔を作り、

「誰を、何を、気にしているんだい。まるで誰かに見られているようだ。ここには私と君しかいないだろう」と、包むような口調で問いかけた。彼は眠りから覚めているものの、まだ微睡の中にいるような気持ちで、物言わぬ弁天様と相対しているような感覚があった。彼が箪笥の縁まで踏み込もうとした時、紫電一閃、少女は機敏に彼へ体当たりをした。だが彼は身をひるがえし、突進してくる少女をいなした。少女の最後の試みは徒労に帰した。

 赤城は再度転じて、まだ戦意凛凛といった少女を制するために彼女の両腕を抑えにかかった。少女の諦めはまだ遠く、もがく相手ともみ合ううちに、赤城はまったくの成り行きでペルシャ絨毯の床の上で少女を組み臥す形となってしまった。重く水気のある夜気が沈滞する床は、待ち構えていたように両者を受け止めた。

 それからどれほど時を経たかわからない。

 部屋の中に、男のものか女のものかわからない荒い息がはずんでいる。

 赤城は自らの腹の下でなおも小刻みに蠢動する少女を力任せに抑えたままだった。抵抗することを止めない少女を下にしては制するのが当然のことではあったが、いつの間にか、彼は自分が力づくで屈服させていることと、少女のミニアチュールのような肌理と触れていることによる官能の滾りを感じた。

 激しい雨の中、やむなく泊まることとなった古風な洋館で、自らに迫りくるうら若き少女を膂力に物言わせて組み拉がなければならないという異常な事態。赤城はこう自問するようになった。自身も目の前の少女と同じことを望んでいるのではないだろうか。自分のこの腕は、慰めるように腰へと回るべきなのではないか。なぜこのような挙に及んでいるのか。いったい、何が自分を掣肘しているのか。

 赤城の脳裏にはこのような種々の妄念が去来し、心はにわかに掻き曇った。問いに対する答えは、いつまでたっても雲をつかむようであって確固としなかった。胸像の目、油絵の目、背後に広がる暗がりに感じる翁の目が、少女の目を通して赤城に見えたような気がした。

 この時、午前三時を指す発条時計がうめくように鳴いた。深夜に時報が鳴るということ自体、普段ならあり得ないことであろうし、甚だ不可解であったが、誰も気に掛けることなく、夜の底を打つように鳴り響いていた。

 少女は既に疲労困憊したと見え、蠢動はその勢いを弱めていた。赤城は喘汗する少女を凝視した。赤城の目には征服者の倒錯した快感が滲んだ。

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