第二章

 およそ半時後、赤城はビラを持ちつつ、ビラに書かれた住所と路傍の掲示を頼りに宿を探していた。

 しばし時をさかのぼるに、阿佐ヶ谷駅まで戻ってきた時分には省線は順全と運行していて、赤城は翁の妄言に惑わされなかった自分を誇らしげに思いつつ切符を求めて窓口へ向かった。折しもそこへ駅員が現れ、無数の人だかりに対して、

「ただいまの連絡によりますと、市ヶ谷、四谷間にて、豪雨による増水のため一時的に線路が運行不能となっているとのことです。したがって、当駅も新宿方面行き、吉祥寺方面行きともに一時運休となります。お客様には暫時お待ち頂けますよう、謹んでお願い申し上げます」と力の限りに叫んだ。

 これを聞いた赤城は、荻窪までの輸送がある西武へ向かおうと身構えた。しかし、そう考えた折から、無尽蔵にも思える数の人が一斉に西武の軌道線停留所のほうへ奔るのを見た。次いで彼は駅前に円タクの一台でもと望みをつないだが、同時に背広の隠しをまさぐったところ、そこにあるべき財布がなくなっていることに気づいた。直後、赤城は翁のもとへ引き返していた。

 盛り場を抜けて、見覚えのある街角まで来た。辺りは雨戸を閉め切った家屋が軒を並べており、外に人気はなく、家によってさまざまな、石垣や竹垣、柴垣、籬などが敷地を区画している。赤城がこの区画に素直に従って徒行していると、だしぬけに空地へ出た。

 空地では古いブランコが、たった今までこの雨の中なのに漕ぎ手がいたかのように惰性で揺らいでいた。彼が四辺を見回すと、空地の片隅に、まだ年端もゆかない、だが確実に艶容をまといつつある、ハイティーンを目前にした蝶のさなぎのような少女がたたずんでいた。彼は色を正して尋ねた。

「少し聞きたいことがあるんだけど、いいかい。このビラに書かれている宿を知りませんか。あと、もう遅い。家まで一人で帰れるかい」

 赤城は自分の傘を少女の頭上にかざすことを名分に近づいた。

「・・・・・・」

 少女は俯いたまま、黙然と雨の音楽を聴いている。やがて雨音がトッカータからフーガになって、またトッカータに戻ったように聞こえた。少女は突然、赤城の傘から逃れるように走りだし、空地を出て辻を駆けていった。

「あ、待ってくれ」

 赤城は図らずも大声を上げて少女を追った。少女はいくら奮励して走ったとはいえ、追いかける大人の脚力にはかなわず、たちまち赤城に捕捉された。手を伸ばして止めようとした時、少女は急転回して路地に滑り込んだ。赤城が続いて路地に入ると、そこに少女の姿はなく、眼前に、雨の中巌のように地に構える洋館が現れた。そのマンサード屋根には、梅雨の夜空の黒きがのしかかっていた。

 洋館は旧時代の西洋建築美を誇り、背後に背負う雑木林は自然な景観を作っていた。鉄柵の裏に茂るクチナシは旺盛な香りを降り注ぐ雨に抗って醸し出していた。

 赤城は三井本館と比べても遜色ない洋館に気圧された。レンガ造りの洋館の華麗なファサードに圧倒されて発見するのが遅れたが、重厚な門扉には洋門に似つかわしくない純朴なヒノキ板が据え付けられていて、行書まじりに「欧風旅籠 柑子屋HOTEL」と書かれていた。赤城はビラと照らし合わせて、現在位置が翁の勧誘した宿であることを確認した。先程からの宿のイメージと眼前の姿とのギャップを感じ、赤城はわずかに気後れしたが、翁とのつかの間のよしみを頼み、門をくぐった。屋敷の窓はすべてカーテンが閉められており、寝静まっているのか、真っ暗である。玄関先のランプは点けっ放しで、妖しく暈を実らせながら煌々と雨夜を照らし続けていた。スクラッチタイルの壁に蔓延る濡れた蔦が、へばりついたナメクジとともにランプの光に焼かれているようだった。

 赤城は車寄せまで早足で到り、傘をたたんで背広を叩き、襟首を直して玄関扉の呼び鈴を鳴らした。ただし、館内は無反応だった。彼は訝しみ、何度か続けて呼び鈴を鳴らした。しかしそのたびに、彼が反応を待つ静寂が漂白するだけであった。軒の下にはいるものの、風に乗って足元を侵す雨にじりじりと押されるように前へと追いやられる赤城は、とうとう声を上げた。

「もしもし、ごめんください。どなたか、いらっしゃいませんか。どなたかお取次ぎくださいませんか」

 彼は近隣に迷惑をかけないように気を付けて呼び掛けた。おもむろに時計を見ると、いつのまにこんなに長い時間が経ったのかと思うほどであって、もう九時半を回っていた。彼は業を煮やし、堅い玄関扉に手をかけて、やおら開け放した。

 玄関扉を開けた赤城の目にまず飛び込んできたのは、踊り場で折り返して二階へと続く、赤絨毯の敷かれた階段と林立する角柱だった。そして目を凝らすと、ホールの片隅の、階段わきに設けられた帳場に物言わず座る件の翁が見えた。反射的に体を仰け反らせた赤城に、翁は先手を打つように

「そろそろいらっしゃる頃だと思うて、待っておりました。どうぞこちらへ」と言った。

 続けて、手元不如意かつ疑念を持つ赤城の心を見透かしたように、

「宿賃のことなら、ご心配は無用でございます。こちらも少々強引なお引止めを致しましたので」とつぶやいた。この言葉は赤城の嫌疑を革新的なものに変えた。

「強引とは何のことを言っているのですか。心当たりがあるならば、お返し頂きたい。今なら十分帰るのにも間に合うでしょうから」

 赤城は傲岸不遜とも受け取られかねない態度で言った。

「これはこれは、何をおっしゃいますやら。強引と言うのは、こんな大雨に路頭で声をかけたことでございます。何もわたくしめはお客様を束縛するつもりはございません。まだ間に合うなら、どうぞお急ぎくださいませ。もっとも、一晩泊まって頂いた方々には、決まって後々もご懇意にさせて頂いておりますゆえ、お代は即日に頂かなくても結構なのでございます」

 これも故意か否か、翁は赤城が要求するのを財布の返還ではなく赤城自身のそれと理解している口ぶりで長口上をとうとうと述べた。彼には翁の様子から、財布の心当たりなど、さの字だにうかがうことはできなかった。

 ここにおいて初めて、彼は省線車内の人ごみを沸々と思い出していた。さらに、新宿から阿佐ヶ谷に到るまでのあの混雑した車内で幾人もの人々が彼の夏背広に、ある者は肩で、ある者は腕で、またある者は五指で触れた可能性もあるということを考えた。その中にスリが含まれていなかったということを、はたして言い切ることができるだろうか。今ほど彼は自身の記憶の鮮明な蘇りを不都合に感じたことはなかった。

「そうですか。それは客には喜ばれるでしょうな。私も今晩は欲を言わせてもらいましょうかね」

 強く出た手前、赤城は自分と翁の間に生じた齟齬をつまびらかにして自身の面目を潰すことを避けていた。彼の発言には阿諛さえ流露していた。

「ではでは、お部屋に案内致しましょう。おおい、キツ、キツや、お客様じゃ」

 翁は声を張り上げるでもなく、嗄れ声で小間使いか誰かを呼んだ。すると、ホールへ続く廊下の先の暗闇から、先刻ブランコのある空地で逃げた少女が静かに現れた。

「あっ、君は、さっきの」

 赤城は顔に知る辺を得た馴れ馴れしさをたたえて話しかけたが、外見と異なり声色は幼い少女は、赤城に答えるでも、彼と面識があると翁に言うでもなく、ただ翁に目くばせするようなそぶりを見せて、

「お部屋の用意は整っております。こちらへ」と、伏し目がちに言っただけだった。

 赤城は一瞬、人違いをしたのかと思った。彼にそう思わせるほどに、少女は赤城の言葉を滑らかにいなした。しかし考え直すに、背格好から年恰好まで、明らかに先刻の少女と同じであることから、この少女がわざと素知らぬふりをしているのだと思った。彼は少女の口から一言だけでも何か言葉を盗もうとして、

「ちょっと、今晩泊まる旨を、家内に連絡しておきたいのだが」とことさら厳めしく言った。ところが、少女は赤城の声が聞こえているはずであるのに反応もせず、代わって、赤城の背後で見送っていた翁が、

「さようで。思い至らずに申し訳ございません。ちょうど最新の電話機がありますから、ぜひご利用ください。あちらです」と、ホールの右側を指差した。時流に合わない古めかしい洋館に、アップトゥデイトな文明の利器が備え付けられていると聞き、赤城は内心喜ばしく思い、近づいた。しかし、その場所にあったのは、昨今音に聞く三号自動卓上電話機ではなく、二号共電式壁掛け電話機だった。赤城は数年前、当時最新の自動卓上電話機を自宅に設置していたが、今眼前にあるのははるかに古い明治期の型だった。徳川時代の鎖国が解けた日本ではあるまいし、赤城は幻滅し、あまつさえ、電話は交換局にさえ通じなかった。

「やはりだめですね。この雨風で、どこかで途切れたんでしょう、通じません」

「そうでしょう。では改めて、この子が案内致します」

 赤城と翁のやり取りの間中、翁は状況にふさわしくない微笑みを浮かべていた。客への愛想笑いのつもりだったかもしれないが、赤城には意味深長な含み笑いに見えた。彼は一点だけ、尋ねた。

「つかぬことをお聞きしますが、この館はあなたのものですか。語弊があるかもしれませんが、これほどの洋館の持ち主はただ人とは思えないのですが。しかも洋館で宿を営むとは。差し支えなかったら、お教えくださいませんか」

 彼は緊張しながら核心をついたが、その直後には長台詞を反省し、出過ぎた真似なのではないかと疑い始めた。

「いや、どうしてもというわけではなくてですな。ちょっと興味を抱いたものですから」

 赤城は苦し紛れにそう言ったが、翁はあっけらかんと答えた。

「この館でございますか。これは元の主は別におりまして、ある名代の華族様が主でございました。ところが、数年来のこの不況で、華族様の中にも世相にたがわず没落なさる方もあり、邸宅も抵当に入れ、やんぬるかな、わたくしめのような者の手中に転がり込んだ次第でございます」

 語尾で翁は語気を強めた。しかし、翁はここで語りを途絶えさせた。次いで、少女が赤城を先導して暗い廊下をゆく。途中、廊下の明かり取りは用をなさず、ステンドグラスは叢林とゲルマン人の牧童を持て余して陰鬱そうに朝日を待っていた。壁の上のランプの光量は少なく、天井蛇腹を陰翳深く浮かび上がらせるだけで、足元はおぼつかなかった。

 微々たる明かりの中で赤城は前を行く少女をしげしげと観察した。視界は明瞭としていなかった。したがって、この観察も所詮たかが知れてはいたが。

 少女がまだ年端もゆかないのは、先程見た少女の顔から容易に判別できたが、改めて背後から見ると、身の丈は既に伸長し終えているようで、早熟な後ろ姿は大人とほとんど変わりがない。むしろ、彼女が着こなすアールデコ柄のワンピースや、夜ふけ早ふけの冴えに備えて着たのであろうか、葡萄茶の羽織からはあたかも渡世を送ること長き酌婦の雰囲気が醸し出されていた。

 赤城がこんな夢想にふけり、不謹慎な官能の高ぶりを抑えようと心掛けた刹那、少女はとみに立ち止まって振り返り、まさに彼の願いを叶えるように美しい顔を彼の眼前に披露した。彼女の背にさえうっとりとしていた赤城は、明眸皓歯を目の当たりにして、今宵の湿気のために水を多く含んだ息を呑んだ。

「このお部屋でございます」

 少女が示す部屋には、特に番号や名称もないようだった。赤城の前後には、彼に示された部屋の扉と同じ扉が、赤絨毯が見えなくなるまで等間隔で並んでいた。ただ、赤城は少女を見てなかば悦楽のような心地でいたためさして気にならなかった。扉に目を移すよりも、その明眸皓歯を今少し眺めていたいというのが、正直な本心であった。

「ああ、ありがとう」

 彼は少女を見つめたまま、気がない返事をした。その様子を見かねて少女は再度、

「あの、このお部屋が今晩のお部屋でございますので。何かご不明な点はございますか」と、聞いた。

 赤城は取り成すように、

「わかった。ありがとう。特にないので大丈夫だ」と、吃音気味に、かつ早口に発した。

 少女は扉を開け、開き切った扉とともに傍らの壁に寄りかかり、微笑みとともに赤城へ部屋への進入を促した。彼は何者かに背中を押されるように、自然と歩を進めていつのまにか部屋の中央付近に到った。この時、室内を丹念に見ていた赤城の背中から肩を越えて胸へと、明かりの無い闇の中でも白砂のように白くて小さいことが分かる手が這った。赤城は驚いて飛び上がりそうになりながらも、身をひるがえしてこれを避け、少女の方に向き直った。

「背広をお召しになったままでは、いけないと思いまして」

 そこには少女が身悶えするように、うろたえた顔で立っていた。彼女は、自分のなにげない所作が相手に断固拒絶されたことに衝撃を受けたと見え、それ以上の言葉を失っていた。赤城はごまかすために、

「いや、自分で脱げるから大丈夫だ」とつぶやいて、まだ乾かない背広を脱いで少女に渡した。

 彼女の恥じらいは深く長く揺曳することはなかった。

 少女が背広を受け取って衝立衣桁に掛けている時、赤城は、省線車内で嗅いだ覚えのある香りが辺りに漂っているのに気が付いた。一体どこから漂っているのかは、見当もつかない。今となっては、車内のその香りが蜜柑のそれと断定してよいのかどうかさえも不明であったが、二つの芳香が同一であることは確かだった。彼は少女に洒脱を装って聞いてみた。

「時に、この蜜柑か何かの香りは何だろう。君にも匂うかい。門にも『柑子屋』とあったね。何かゆかりでもあるのかな」

 すると少女は、雨の中の出会いや今までの接待からは予想もできない人懐っこさをもって、

「あら、今頃になって。この館内には全館香っているはずよ。あなたもとっくにお気づきになっていると思ったわ」と答えた。その微笑みは、赤城の作り笑いにも劣らなかった。

「そうか、私には今香ってきたように思えたんだが。それに蜜柑の季節は冬だろう、こんな梅雨の時季に」

 こう言いながら、赤城は首をかしげる素振りをわざとらしく見せたが、彼女はすぐさま、

「季節のことなら、オーナーの知り合いの方が南半球の遠い国から送ってくださった舶来の香りだからよ。横文字の品種名は忘れてしまったけど」と早口で述べた。

 その慌てて述べ連ねた少女の様子は、赤城にホールでの翁の様子を思い出させたが、少女のそれは微笑ましいものに映った。

「なるほど。それにしても、心地よいことはよいんだが、長いこと嗅いでいるとだんだん神経が敏くなってくるな。君は慣れているから平気かもしれんが。おじいさんに、もう少し抑えてくれるよう言伝しておいてくれないか」

 饒舌な少女を会話するうちに、赤城はこう正直な感想を吐露した。そのセンシティブな赤城に追い討ちをかけるかのように、彼が床に目を落とした弾指の間に、短気な鳴神が轟音と共に室内を駆け抜けた。今まで遠音に聞こえていた外の雨音なぞ中有に蹴飛ばすほど、激しい音だった。

 赤城はさ躍るほどにびっくりして、音が発せられた扉のほうを目を見張って振り返った。開けたままであったらしい重厚な扉は密に閉ざされ、赤城と少女は部屋に甕閉された形となった。少女は窓の方を見ていた。赤城は扉の方をひとしきり観察し終えると、今度は少女の様子を、充血してやや赤色に染まる目でうかがっていた。

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