【小説】妄語(もうご)
紀瀬川 沙
第一章
今しがた雑踏の新宿駅を発ったばかりの省線電車は例によって満員で、あたかも都会で人を鵜呑みにしたうわばみのようにして大久保方面へと這ってゆく。これは決して耳目を驚かすための過言であることはない。大げさな形容を忌避したいのはやまやまであるが、この大蛇に似た列列箱子は夕曇りの雲居から見下ろすに、うわばみ、あるいはツチノコの類と見間違われも不思議はないであろう。列車が切り裂こうとして切り裂けないで只中をひた走らざるをえない靄を抱えた梅雨の夕暮れ時は、勤め人から学生、果ては昼の間銀座を闊歩したマダムまで、多くの都会人の帰宅時刻と重なり、社内にむせ返るような蒸し暑さを産出している。そして、人々は自分が梅雨特有の不快な感覚に苛まれていることを知りながら、なすすべもなく忍耐をもって揺られている。
これが不思議なことに日ごとまったく同様に繰り返されているといった状態である。そのうえ、駅から駅へ、行けども行けど、解消されることがない。この循環運動に飽きることはすなわち、呼吸に飽きることであり、人々にとっては生じえないことなのであろう。
ここで一人の会社帰りと見える男が、先刻から曇ったままのメガネを気にしながら、目の前の車窓を遠慮がちにわずかばかり開けた。この男は、今ここで窓を開けるという行為をしなければ、あるいは自身の経歴をてらうような愚挙を社内で突然し出すことがなければ、車内に渺々と広がる人海の一滴でしかなく、ことさらに取り立てられるべき存在ではなかったはずである。
男のメガネよりも濃厚に曇った窓は彼によっていくばくか開けられると、そのおとなしげに対して謀反を起こすかのように、車内に驟雨の巷を見せつけた。次の瞬間、巷は抜かりなく省線に対する侵攻を開始した。車内の乗客がのけぞるのを待たずして、瞬く間に窓際に雨粒が闖入し、それとともに一陣の風が車内を縦断して新宿寄りの壁とかち合って消えた。
それは本当に一瞬の出来事であって、男はもちろんのこと他の乗客にとっても、当座は何が起きたのか把握するいとまはなかった。すべては事後処理として行われた。
窓を開けた張本人の勤め人、赤城憲吉はあわてて窓を閉めたが時すでに遅く、後には衿は濡れ、髪に雨の滴を宿らせて訝しげに彼を見る窓際の乗客と、車内に躍り入った風に涼をいれながら遠巻きに彼を見る奥の乗客だけが残った。椿事を遠巻きにうかがう人々の視線は統一的なものではなく、ある人は傍ら痛いような、ある人は同情するような色を滲ませていた。赤城はそのような視線をしかと感じ取ったが、奥を直視する勇気は持ち合わせておらず、手前に座る水害を被った人々にだけ集中して対応しようという取捨選択を、弾指の間になした。このような臨機応変さを持ち合わせていたことは唯一、彼が自身の勤めに感謝しなくてはならないことである。
「あっ、これは大変失礼いたしました」
あくまで儀礼上の形式則って一廉の陳謝をした彼は、冷静さを取り戻すためかどうかはわからないが、手提げかばんから岩波文庫を一冊取り出して、読むともなく読み始めた。窓際に座る人々も、儀礼に加わるようにして再びうつむいた。そして人海にまた凪が訪れた。
彼が読む本は高等学校、帝大と同期であった友人の訳出した『マルテ・ラウリス・ブリッゲの手記』だった。その同期は現在は母校でドイツ語の講師をしているという。
同期のなかでももっとも秀才の誉れ高かった訳者の業績を読み、付随するように若かりし頃の過ぎ去った日々を追憶してから赤城は文庫本より目を離した。彼が開閉した窓は、彼のメガネはとっくに澄んだというのに再び曇りだし、陰鬱な顔の多い乗客に対して追い討ちをかけるように車窓の景色を晴らそうとしない。
列車はいつの間にか大久保を過ぎ、中野を目指して蜿蜒として梅雨の路地を這っている。今となっては殊にドイツ文学に精通しているというわけでもない赤城は、文庫本をかばんにしまった。彼は自らが下車する吉祥寺までまだ時間があるので、出入りする泡沫の乗客の靴がつくった濡れた床を眺めつつ明日の仕事に思いをはせることとした。車内の混雑は郊外へ出ても解消されることはなく、車窓には赤城が先程捺した手形が、曇りの濃淡によって浮き彫りにされたままである。そのうちに中野と高円寺の間あたりで列車は転轍機を踏みつけたとみえ、俄かに揺れが激しくなった。
刹那、赤城には自らの鼻腔にほのかな蜜柑の芳香が流入してくるように感ぜられた。人いきれで嘔吐しそうな車内、一世紀経っても草木だに一向萌すことのないであろう車内で、その香りは誠に不自然なものだった。もちろん、季節からいっても本物の蜜柑であるはずもないから、赤城は心の内で近頃の女物の香水の妙に感心しつつ、外面はしかめっ面をして辺りを窃視した。しかし、彼の想像したようなけばけばしい女は見当たらず、さらには、乗り合わす客には郁々たる蜜柑の芳香は認知されていないようだった。乗客はただ口だけをせっせと働かせていた。
「財務課の高木はほんとうにダメなやつだよ。あんなの社に置いといても、きたるべき経済不況には無益極まりないね」
「ええ、仰る通りですよ。こないのだの措置も、最善とはとうてい言えません。くびにしてしまって、後釜に鈴木さんを据えるべきなんですよ。会社はわかってないな」
「君も私と同意見とは、まことに頼もしいね。次回の人事ではひとつお節介を焼こうと思っているよ」
「そういえば、最近カフェ・グロリアに可愛い子が入ったよな」
「新しい女給のコウちゃんのことだろ。あの子は稀にみる大美人だ、って、大学の同期のなかじゃ評判だよ。通い詰めだしたやつもいるくらいだ」
「へえ、大美人ねえ。野暮かもしれんが、元は何してたんだろうな」
「大阪にできた歌舞伎座にはもういらっしゃった。千日前の」
「いいえ、まだ。でもやっぱり私は、東京びいきですの。木挽町で観る『勧進帳』の素晴らしさと申しましたら」
「同感ですわ。幸四郎丈の弁慶、菊五郎丈の義経に、羽左衛門丈の富樫、でございましょう」
車中では早くも一日の終わりを控えた乗客が一日のたけなわを惜しむかのようにどよめいて、喋々として運ばれていた。彼らの口から発せられる言葉の数々は無味乾燥なまま、好むと好まざるとにかかわらず翼を与えられて車中を懸命に羽ばたいていたが、たちまち自らの無力さに絶望して無に帰したようであった。
そもそも、ごった返す省線車内でなぜ赤城の嗅覚のみが刺激されたのか。それは決して彼がかつて紀国の蜜柑箱であったという過去に起因するものではない。現に彼は一人息子に夭折された紀国でも名代の素封家であり慈善家でもあった夫婦に引き取られてからは、紅は園生に植えても隠れなしのアレゴリーにたがわず、郷の中学校を終えたのちは帝都の学窓に学び続けた。
そして彼は今や、吉祥寺にささやかながら同僚に一笑してあずまやなどと卑下することのできる邸宅を構え、うら若く器量よしの妻とともに、何不自由ない東京人の暮らしを送っている。三井財閥系列の貿易会社に勤め、日夜ロンドン、ニューヨーク、ベルリンなどと連絡しつつ、帝都の本社で通商を担う若き辣腕である。
そんな彼を文明の利器の中で包み込む芬芬たる果実の香り、読者諸兄以上に赤城自身の興味が俄然湧いてきた。この興奮は、たとえれば官能を紙縒りでくすぐられているようであり、彼は勃然として鼻呼吸を盛んにした。果実の香りが赤城の空想を激し、彼は、どこか切なくて八面玲瓏に感ぜられる世界が梅雨の満員電車内に現出するという幻想を貪っていた。
とこうするうちに、列車はかつかつとして阿佐ヶ谷駅のプラットフォームに入った。降りるべき客はすべて降り尽くし、乗り込む客が一歩踏み出すきわ、赤城は自分の意思に従ったわけでも無理に逆らったわけでもなく、あたかもしかるべき成り行きがあってそれに導かれるように、他の客と肩摩しながら強引にプラットフォームに降り立った。あとちょっとで住み慣れたホームタウンというところで、彼は日常茶飯を見送って、気が付くと驟雨にうたれる駅舎の中にぽつねんのとしてたたずんでいた。
阿佐ヶ谷の駅舎を出て、赤城の目に最初に映ったものは、蝸牛が壁のモルタルに残した粘液だった。それは、赤提灯で安く浮かれた酔いどれが朝方の冴えに耐えかねてかんだ手鼻に似ていた。彼は早々経験のない、帰路での途中下車の醍醐味を希求するように駅前の歓楽街をさまよった。夏至を前にして延びきって締まりのない日足もさすがに午後七時半ともなるとようよう暗がりに浸食されてゆき、赤提灯は暗がりの応援を今か今かと待っている。
「はい、お待ちどう」
「おう、とっくに注文したのに、まだ来ないのか。どれだけ待たせんだ」
「どうもいらっしゃい」
「がはは、そりゃ傑作だ」
支離滅裂に聞こえてくる喧騒の渦中、薄汚れた軒先に咲く紫陽花は無言のうちに客を引いており、赤城はその一々に目を奪われながら歩いた。その先、広小路ともいうべき場所は、酒色に溺れる歓楽街と閑静に眠る住宅街とを隔てる緩衝地帯であるように感ぜられた。赤城は、先進科学の跋扈する現代において狐狸もしくは何やら魔的なものが出没するならここであろうと思った。
「ゴホン、あ、あ」
彼は魔も一緒くたに払ってしまおうと咳を払った。別に風邪気味であったわけではない。むしろ彼は今まで一貫して健康そのものである。それは、日常の多忙という新しい病に慢性的に冒されているからかもしれないが。彼は近代教育を受けてきた者の例にもれなく無神論者であったが、沛然たる夜に一人取り残された寂寥感からか、暗がりに鬼を生じさせないように脳裏の疑心を抑えるのに躍起となっていた。
彼の妻は、杳として行方が知れない夫の帰りを待ちながら、大幅に遅れた自分の夕餉を我慢してまずは幼児に食べさせ、次いで寝かしつけようとしているところであろう。赤城の懐中時計は午後八時過ぎを指している。
赤城はふと妻の顔が見たくなり、からくも明晰さを取り戻した頭脳で省線のダイヤグラムと、帰宅してから述べる遅くなった理由を考えた。リネンの夏物の背広は雨に濡れて染みが目立ち、夜になっても蒸し返すどんよりとした大気に保湿され不快である。
彼は阿佐ヶ谷駅へと踵を返した。その時になって初めて、彼は今まで自分の背後にピタリとついていた翁を発見したのだった。突然至近距離に出来した不審な翁に驚いて、彼はとっさに後ずさりした。翁は指している雨傘が赤城の指している雨傘と重なるほど近くに迫りながら、
「一晩のお宿をお探しですか」と尋ねた。問いかけの内にある種の肯定が含まれていた。
「あ、いえ、違います。ちょっと道に迷ってしまって、さまよっているうちにここまで来てしまった次第で。なるべく早く帰ろうと思っていたところなんですがね」
赤城は慌てて答えたが、篠突くように傘を敲く雨音にかき消されてか、あるいは翁が意図的に聞かぬふりをしたか、とにかく彼の返答は先方の反応をいささかも催すことはなかった。そうと知らぬ赤城は、翁の二の句を待ち、両者の間には雨とともにしばらくの時が流れた。
連続する雨音の中に突然、赤城が列車の警笛を聞いた刹那、翁は話し始めた。
「今晩のこの大雨のせいで、勤め人の方々はたいそう迷惑しているようですよ。何せ、線路が水に浸かって止まっちゃあ。足を捥がれたバッタが仰山蠢き出しますな。良宵かな、良宵かな」
「え、何だって。もう一度言ってみてくれないか」
「いや、滅相もございません。お客さんのことをバッタと申したわけじゃございません。どうかご勘弁を」
「バッタがどうこうじゃない。省線が止まってるって・よせよせ、客引きのために嘘をついちゃいけないよ、おじいさん」
赤城はこなれた作り笑顔で翁に相対した。
「どうなんだい。本当は止まってなんかいやしないはずさ。これで私が帰宅をあきらめて、一晩でも金を落としてくれれば勿怪の幸いといったところなのでしょう」
「いやいや、他人の言うことを簡単にはお信じにならないのは、今の世ではまことに大事な心がけでございますからな。ご自分の確かな目でどうぞご確認くだされ」
こう言って赤城は翁のわきを速やかに通り過ぎようとした。心の中では、しつこく絡み付かれるという事態を想定しながら、歩みを進めた。翁は何もしなかった。ただ、赤城を宿泊させようとした宿の広告が記されたビラを、彼が拒絶できないような合いの手で、すれ違いざまに渡すばかりであった。赤城は早足で歓楽街と広小路との境まで至ってから、後方を振り返った。同時に、自分が傘の柄を右手につかみながら、左手にはカバンの取っ手とビラを握りしめていたことに気が付いた。背後に立ち込める一面の靄と宵闇のなかに、こちらへ向き直りもせずに立ちすくむ翁の背がかすかに見えたような気がした。
赤城は傘を斜めにかかげて、駅舎へと急いだ。彼によって踏まれた姫女苑が、ぬかるみに浸かりながら彼の去りゆく姿を見つめていた。雨に負けじと起き上がろうとする姫女苑を、再度誰かの靴が踏みつけて、ついにその花は大きな水たまりの底に沈んだ。
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