第五章
月の船が雲の波間をゆきゆきて、村雲を俯瞰するに到り、まさに中天へかかろうとした時、楼上の上臈は改めて口を開いた。
「あの夜、あなたはわたくしを逃がすために、自分の命を賭して出てゆきました・・・。なぜあのようなことをおできに。怖くはありませんでしたか」
桐葉はすぐに、上臈とともに屋敷から連れ去られた日のことだと気づいた。
「怖くなかったということは決してございません。ただ、わたくしめはあのお屋敷に仕える身、何か事あらば、この一身を挺してでもやらねばなりませんでしたし、その覚悟もしておりましたから」と、桐葉は決然として答えた。
上臈はこの桐葉の言葉を聞いて、思わず振り返り、氷輪を見ていた目を桐葉の顔へと移した。
この時にはすでに、それまで上臈の目にわずかに浮かんでいた涙は大粒の感涙と化していた。しかし、濡るる顔を侍女に見られる羞恥からか、上臈はすぐに桐葉から目を逸らした。目を逸らした上臈の眼差しは、楼門の長押、さらには櫺子窓の奥なる深き闇へと移っていった。上臈は今にも噎び出しそうに、のどから絞るように声を発して、
「あなたには、感謝してもし切れません」とつぶやいた。桐葉は上臈に対する憐愍の情に堪えかねて、
「いいえ、あの時は願うような功も立てることあたわず、勇み立つや否や、とらえられまして・・・。ご覧じた通り、軽々と担がれてしまったのです。しかし、そのお蔭で、今もこうしてあなた様に祗候することが叶っております」と、わざと道化じみた口調を用いて何とか上臈を慰藉しようと試みた。
ところが、続く上臈の返答が発せられるよりも前に、賊徒を兼ねる芸人連が囃し立てられて雅楽まがいの遊びか催馬楽にでも夢中になっているのだろうか、境内のどこか遠くから鞨鼓や龍笛の音色が無造作に聞こえて来た。それは楼門とはやや距離を隔てていたために絶え絶えに聞こえ、先の桐葉の道化をかき消すほどのもの哀しさを携えて来た。
桐葉のお道化に笑みをひとしきり浮かべた後、上臈はにわかに真剣な表情になって、
「いいですか、桐葉。もはや、あの屋敷は焼けてありません。私ももう以前のように領家の息女として振る舞うことはできません。然らばここでは、あなたはわたくしに祗候する義理に束縛されてはいないのですよ」と、くしくも述べ連ねるにしたがって段段と冷徹になってゆく調子で言った。
轡虫と馬追虫が喋喋と鳴く夜の中で、桐葉は暫時言葉を失った。
やがて桐葉は辛くも一言だけ返答した。
「いいえ、お言葉を返すようですが、わたくしめにはそんなつもりは毛頭ございません・・・」
すると、これを待っていたかのようにすぐさま、上臈は蚊の鳴くような声で、かつ読経する時のような潺湲とした音吐で、
「見るに、あの御方に最も寵愛されているのは、いいえ、将監様の御手で寵愛されることが願うことか否かは別として、現に寵愛されているのは、わたくしよりもあなたの方だと思います。今身に着けているこの表衣、小袿も、本来ならば譲られたあなたが召すべきお着物です」と言葉を連ねた。
まさか、自ら好んで仕える上臈からかような言葉を浴びせられるとは思いも寄らないでいた桐葉は、驚くとともに浅ましい意地を張ってしまって、
「そんなことは、決してございません。そうお思いになりますのなら、失礼ながら、それはあなた様の僻目と申すものでございますかと・・・」と、抗うような言葉が桐葉自身、意識しないままに口を衝いて出た。
「あなたは、わたくしがあなたに対して嫉みか何かなどという浅ましい情を含んで、僻目もてこう申しているとでもお思いなのですか。ああ、何たる辱め。よもや、信を置く者の口から、かような言葉を聞くことになりますとは。口惜しきこと」
上臈は、冷徹さが尾を引いている口調の中に勃然と湧き上がる興奮を滲ませながら嘆いた。
桐葉は、上臈の心乱れする姿を抱擁したい心持ちで見守っていたが、
「いいえ、何もそこまで無礼千万なことを申し上げたわけではないのです。どうか、おわかりになって下さい」とつぶやいた。
「ごめんなさい、つい・・・。でも、一体、わたくしは誰をか憎むべきであるの。あなた、あの御方、それとも、忠実に勤め上げて下さっているあなたに対して不条理とわかりながら当たるわたくし自身・・・」
上臈はやりどころのない鬱憤に心潰えそうになって、煩悶の末に語尾では自嘲の色が濃く顕れていた。上臈は先の自分の、桐葉に暇を出すような言葉をとっくに忘れてしまったかのように、新たな言葉を連ねていた。
そしてその後は桐葉の釈明のあいだ中、ずっと啾啾として体躯を屈めて小さくなっている。後ろから見るとそれはまるで、結われていない御髪に隠されたうなじを月影にひたそうとしているかのようであった。
不意に、上臈の啾啾たる声と秋の虫の音とが重なって冴える楼門につたない声明の人法不和の声が近づいた。これをほのかに聞いた桐葉は蒼惶とし、
「なにとぞ、今ばかりはお静かに」と、上臈へとささめいた。
明らかに真言声明のそれでないとわかる、ありし日の寺の宗論とは異なる和讃の主は、無人の楼門から聞こえる卦体な息づかいに肝を冷やしたのであろう、急に道を逸れ、また闇へと帰っていった。
依然、上臈は泣きやむ気配を見せることがない。
そしてこの時、右顧左眄していた桐葉は、楼下から続く道のかなたに浮かび上がる幾多の蒼白き人影を見た。
「あっ、お帰りになられました。将監様がお帰りに」
桐葉は、上臈の肩を心の高ぶりのために無礼にも大仰に揺さ振ってから、かなたを指差した。桐葉の袖の兎はたちまち生気を得て、月の下に雀躍したように見えた。しかし桐葉は気づいていなかった。縮こまった姿勢から転じて遠くへ向き直る上臈の顔に、これまででもっとも深刻な翳りが宿っていることを。上臈は桐葉の目の前で欄干に白皙のもろ手をついて、体躯を虚空へとひと伸しさせた。
上臈と桐葉がかなたに見たものは、まぎれもなく将監率いる群盗の凱旋であった。その夜行の先頭を、馬上にて悠悠と進む将監は、ちょうど桐葉が彼を発見したのと時を同じくして、楼上に人影を認めた。将監は、自分が命じたままに二人の側女が楼上にて自らを待っているらしいことに快い充足を覚えた。そして、この半月のあいだに南都で廓の白拍子から巷の傀儡女までをも枕席にはべらせた、いくばくもの淫蕩からくる気だるさが晴れわたってゆくのを肌で感じた。
だがその途端、将監の目には、楼門の欄干を軸に半転し月光に映えながら真っ逆さまに堕ちてゆく人影が映った。これを目の当たりにした将監はしばし言葉を失い、過日肌を合わせた聾唖の舞姫がわが身に取り憑いたのではないかと思うほど、竦然として馬上の荷と化した。
まもなく将監が楼下に到ると、そこには上臈のうつ伏せになった墜死体が地に桔梗の花を散らしていた。そしてそのすぐかたわらには何と、仰向けになった桐葉の亡骸がまるで上臈の死出にさぶらうように添い転がっていた。
二人の女の亡骸を茫然と見ていた将監は、何かをこらえるように金秋の夜空を仰いだ。将監は依然ものの文色も分かたない状態であり、照る月も彼の目に入ることはなかった。代わりに、今宵のような夜には見えないはずの天の川が、淡い広がりをもって楼門を抱いているのが見えた気がした。将監にとってのさやけき月は、たまゆら地によどんだ桐葉の血汐に湖月のごとく映じて、すぐに渇いた地の奥へと吸われて消えた。
血で地を潤していた上臈と桐葉の亡骸は、片やうつ伏せに、片や仰向けになって、死してなお将監の眼下に色を競べていた。が、その姿以上に二人を別様にしていたものがあった。それは、上臈に殉ずる墜死を果たし損ねたらしい桐葉の、はだけた胸ぐらを突いて屹立する匕首の、月明に玉散る氷の刃であった。
将監は桐葉をかき抱いて、慟哭に啼哭を重ねてこの一夜を明かした。
了
【小説】月下楼門(げっかろうもん) 紀瀬川 沙 @Kisegawa
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