第四章

 桐葉は今でもあの夜のことを夢に思い出すことがある。桐葉は自分でも時折思い出しては苦しむのであるから、上臈においてはその苦悶甚だしいであろうと思い、なおさら心痛むのだった。そしてその夢は決まって、桐葉の脳裏に焼き付いていまだに離れない上臈のある印象的な表情で幕切れを迎えた。

 将監が率いた、まだ小規模だった頃の匪賊はある夜、荘園領家の屋敷を襲撃した。その夜、匪賊襲来の一報が舞い込むまでは、上臈と桐葉はいつもの部屋にいて、徒然の夜を読書や管弦の遊びに耽ることで凌いでいた。その部屋からは前栽の姫牆に囲われた梨の木が見えたので、彼女達は格子と障子が混在するその部屋を梨壺と呼んでは、自らを内裏の昭陽舎にて祗候する女官と同一視しながら、普段の慰みとしていた。

 ここまでは、旧時代における権門勢家の庶流の末孫に生まれた、麗しき息女の暮らしであった。これが典型的なのは、今の御世に斜陽差す家が、自家の荘園を大寺院、ここでは興福寺膝下の寺へと寄進することで、地頭の脅かしから脱することができていたためである。

 ところが、そんな脆くも安定した日常も、あの夜において、凶刃に斬り崩され、火焔に焼き崩されたのだった。

「賊は屋敷の北方より網代垣を破って侵入し、はや、劫略をなさんとしています。一刻も早くお逃げ下さいますよう」

 平生、屋敷の排水を流す溝近くに櫓を構えているために二人が滝口の武士と称していた兵どもの一人が、非常事態であるためだろうか、まったく無遠慮に、矢のごとく梨壺へと躍り入って警告を発した。そしてすぐに太刀を握り締めてどこかへ引き返した。かの侍の太刀を握る手がその類い稀な膂力にもかかわらず小刻みに震えていたのが、上臈と桐葉双方の目にしかと映った。侍の安否は、今となっては知りようもない。

「・・・・・・・・・・・・・・・・」

 上臈は梨壺にて無言のままおののいて、にわかに戦場と化したここには極めて不釣り合いな琵琶を、救いを求めるかのように強く抱きしめていた。その様子をつぶさに見た桐葉も、粟を生じた自分の肌を撫でながら、肚から突き上げてくる嘔吐をこらえるのに精一杯であった。

「とにかく、あの侍が申しました通り、一刻も早くお屋敷から逃げようではございませんか。ここに居続けましたならば、それこそ本当に御身が危のうございます」

 桐葉は、自分よりも上臈を落ち着かせるために、大胆にも上臈の両肩をつかんで言い聞かせた。しかし上臈は依然、慄然として、

「わかりました、わかりました。でも一体どうすればよいのでしょう」と不明確な質問を口にするばかりだった。

 そのうちに、いよいよ遠く榑縁を踏みつける大きな跫音や、焔の木材を敲く音、兵どもの阿鼻叫喚が否応なく二人の耳に入るようになってきた。

 上臈は逃げようにもこの梨壺から一歩出ること自体、恐ろしくなって、

「ここにもやがて賊は到りますでしょう。しかし、外に出れば今すぐに賊と出くわすやもしれません。ああ、お父上お母上はご無事でいらっしゃいますでしょうか」と、これはもはや、桐葉に向かってさえも言っていない様子で、半狂乱になりながら叫んだ。

「きっと大丈夫でございますから、早くお逃げになって下さいまし。わたくしめが、自らの命に懸けてお守り致しますので」

 桐葉は上臈をしかと正面に見すえて、今の今まで自分をも襲っていた戦慄を一心不乱に抑えながら言って聞かせた。そして、梨壺には不適合ゆえ平生しまって置かれていた匕首を素早く取り出して、これ見よがしに上臈の眼前へと呈しながらこう述べた。

「須臾、本当に少しばかりのあいだ、おいとまを頂きたく存じます。本来は逃げる案内をし申し上げるべきですが、今や焦眉の急、あなた様を守るお力添えをして参ります」

 桐葉はそう言い残して、遣り戸口を開け放ち、榑縁を駆けていった。上臈が咄嗟に突き出した白皙の手は、桐葉の裾をつかむことができずに、ただ、上臈がひとり残された梨壺に立ちこめる煙を切っただけだった。いつの間にか、桐葉が表衣などを脱いでしまって軽装になっていたことに、上臈は孤独になって初めて気がついた。

               ✳   ✳   ✳

 梨壺に上臈がひとり取り残されてから、もうだいぶ時が過ぎ去ったように、彼女自身には感ぜられた。滝口の侍に請われ、さらにはまめまめしき侍女桐葉が自らの命に替えてでもその猶予を与えようとしてくれた脱出の、まさしく絶好の機会を、上臈は見す見す逸してしまっていた。そして、その悔やむべき事態の出来にすら気づかないほど、上臈は沈みきって潸潸とひとり涙を零していた。

 その間にも絶え間なく、賊の襲撃を受けた屋敷の混沌は度を深めてゆく。ついには、匪賊の放った火の地獄が屋敷全体を黒煙とともに蔽い尽くし、あちこちから倒壊する建物の断末魔が聞こえてくるに至った。

 上臈はいまだに腰も立たないでいた。彼女をさらに脅かすように、隣の房の半蔀から業火が蛇のように天井をなめて顔を出し、天に冲する勢いで昇っていった。この世のものとは思えない、今まで上臈が聞いたこともないような音の数々が、産毛に優しく守られし上臈の耳を情け容赦もなく襲った。

 ちょうどそこへ、敵か味方か、棟梁と思しき一人の重装の兵を先頭として、合わせて三人の兵が梨壺の前を通り掛かった。彼らは一様に血走った眼を煌煌と燃やして、顔に付着した煤は流れる汗によって斑に綾なしていた。そのうち一番後ろに馳せる一人は、生身の女を一人、その肩に担いでいた。担がれている女は身をよじって抵抗しているが、いかんせん、膂力に劣っていて敵うこともなく、徒労に齷齪しているようであった。その女は刀剣の一つも持たずに大の男、それも屈強な賊の一人に歯向かっていたが、それも疲労によってかやめてしまい、後には小さい拳だけが男の肩上の杏葉を押しのけようと必死に動くばかりであった。

 上臈が立ちこめる煙越しに見ると、その女はまさに桐葉であった。上臈は声を出して自らの存在を桐葉に伝えようと思ったが、残る三人の男に怯えて失語してしまった。

 折柄、棟梁と思しき男が煙の先に上臈の姿を認めて、

「待て。あそこに誰かいるぞ」と怒鳴るように二人の手下に伝えた。その刹那、最後尾の兵の肩の上から甲高い女の声で、

「早く、早くお逃げ下さいまし」との絶叫が熱気をつんざいて轟いた。

 ところが、これを聞き届けたはずの上臈は、灼熱の中で凍ったように、微動だにしなかった。この時、男の肩の上から叫んでいた桐葉には、幽かな煙の切れ間からたしかに上臈の表情が見えた。その顔が暗黙のうちに泣訴していたことは、敵味方の区別なく、とにかく自分を、行き先のいかんにかかわらず能動的に運んでいって欲しいという、深刻とも浅陋とも取れる洞ろな希求であった。

「連れてゆけ」

 将監は肩の空きたる兵に対してぞんざいに命じた。

 かくして上臈はあの夜、身動きも、声を出すこともせずに、まるで典麗な反物か何かのように唯唯として運ばれていった。

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