プラウドジェニー

Mondyon Nohant 紋屋ノアン

 

 五月初旬しょじゅん川田良かわだりょうのもとに二通の手紙が届いた。

 一通は良が五年前に定年退職した会社からだった。

「弊社のOBであり社友であらせられます貴殿にお願い申し上げたい儀があり…」

 方々からコピペした文例ぶんれいを無理矢理つないでしたのだろう。勿体もったいをつけたために文脈が混乱した文章が社名のかしが入ったA4の紙に横書きでプリントアウトされている。

「単刀直入に申し上げますが」の後に続く文章も単刀直入どころか回りくどいことこの上なく、具体的なことは何も書かれていない。

 良の人脈が欲しい、見返みかえりとして良の再雇用さいこようを考えている、というのが伝えたい内容らしい。

「再雇用」の部分は言質げんちを警戒しているのか言葉をにごしている。

 自分の名前の上に書かれた肩書をもう一度見て良は失笑しっしょうした。 

 元総務部知的財産管理二課長…モトかよ。

 知財二課は定年までの十年間、良が居た部署だ。肩書は課長だが部下は一人もおらず、地下一階のすみにある薄暗い部屋で特許権が消滅した旧い技術情報を管理するのが仕事だった。知財二課は、うとましいが事情があって首にできない人間を遠ざけておく、いわゆる「お荷物部署」だった。ただ此処ここは、それほどさびしい仕事場ではなかった。社内には良の隠れファンが少なからずいて、彼らは適当な用事をつくっては自分の若い部下を良の仕事場へ使いにやらせた。首を傾げながら地下にやってきた若者たちは良と数分話しただけでたちまち彼に親近感を抱いた。良の大らかな性格と豊かな知見ちけんかれた彼らは、やがてたいした用事もないのに知財二課を訪れるようになる。良は彼らに仕事上のアドバイスをしたり、彼らの愚痴ぐちをきいたり、時には恋愛相談にものっていた。

 一通目の手紙を読み終わったとたん電話が鳴った。電話をくれたのは知財二課の常連だった川岡かわおか雄基ゆうきである。工学の博士学位だけでなくMBAも取得している。優秀なエンジニアだ。今年三十二歳になる。

「会社から連絡がありませんでした?」

 訳のわからん手紙をもらった、と良は答えた。

「すみませんでした。親父さんのとらの子人脈を上に教えたのは僕なんです」

「虎の子人脈?」 

「KHLのイーディ氏ですよ」

 KHLは国際的IT企業だ。そこのゼネラルマネージャーを良はよく知っている。たしかに虎の子的人脈かもしれない。

 会社はKHLが保有ほゆうする特許に興味をもったらしい、と川岡は言った。

「特許って、例のセンシングシステムか?」

「そうです。あれって、親父さんのアイディアに似てますよね」

 KHLが一年前に取得した特許は、AI上で「気配けはい察知さっち」を実現するという技術だ。画期的かっきてきな予測技術で、市場分析や株価予測、自動運転など応用は広い。良のアイデアに似ていると川岡は言ったが、実は、KHLの発明は良のアイディアがもとになっている。

 七年前、その開発プランを開発部に持ち込んだ時、「無駄な開発に金を出す余裕はない」と一蹴いっしゅうされたアイディアだ。開発担当重役はプランのタイトルさえ見なかった。

 退職後の発明と特許取得についての制限は先代の社長が社則しゃそくからはずしたから、会社が反故ほごにしたアイディアを五年も前に退職した良が他社に渡したとしてもとやかく言われる筋合すじあいはない。

「どうします? 虎の子の人脈。会社にくれてやりますか?」 

 良をモノづくりの現場から遠ざけ、彼をおにっ子扱いしてきた会社に義理はないはずだと川岡は言った。

「KHLと繋ぎがとれたとたん、会社は再たオヤジさんをのけ者にしますよ。車代くるまだい程度の紹介料は出すでしょうけど」

「手紙には、再雇用と書いてあった」

「信じるんですか、そんなこと」

 自分を安売りしたら駄目だと川岡は強い調子で言った。

「あんな会社に何で定年まで居たんですか」

見切みきりをつける度胸がなかったんだよ」

 見切りどきは何回もあった。三十年前、開発部から左遷させんされた時。その一年後、地方の国立大学から助教授として来ないかと誘われた時。面倒を見てくれた先代の社長が辞めて会社に残る理由が完く無くなった時。好条件でヘッドハンティングされたことも一度や二度ではない。度胸がなかったんだと思う。

「僕は見切りをつけますよ。決めました」

「次の仕事のてはあるのかい」

 めてから考えます、と川岡は言った。

 もう一通の手紙はメアリーからだった。

 毎年、良の誕生日の二、三日前に届くその航空便にはメアリー手製てせいのバースデーカードが同封されている。北ヨークシャーの風景が描かれたそのバースデーカードは今年で二十九枚になった。

 今年の絵のモチーフは、広い窓越しに見た古風な街並みだ。たぶん彼女の部屋から見たスカーブラの通りだろう。窓は大きな出窓でまどで、張り出しの右隅みぎすみ仔犬こいぬが座っている。仔犬は前脚をそろえてきちんと座り、カードの左上に書かれた「すてきな六十五歳、おめでとう、リョウ」という日本語のメッセージに目をっている。

 良がその仔犬から視線を動かさないのを見て、妻の美津子みつこは「このワンちゃん、健気けなげな感じ。可愛い」と言って小さく笑った。

 絵の右下にはメアリーのサインがある。

「メアリー・クローリー?」

 去年も一昨年も美津子は首を傾げていた。

 何処どこかで聞いた名前のような気がするが、どうしても思い出せないと言う。イギリス貴族の生活を描いたテレビドラマ『ダウントン・アビー』を一話も逃さず観ていたくせに未だ気づいていない。ミシェル・ドッカリーが演じるヒロイン、伯爵家はくしゃくけの長女の名前がメアリー・クローリーだ。良はわざと教えない。気づいた時の妻の表情が見たいと思う。

「知っていたくせにおしえてくれなかったんでしょ。ひどいわ」

 などと言ってちょっとねて見せるだろう。可愛いかもしれない。

 自分の名前がテレビドラマで使われているが、優先的使用権は二十五年以上前にクローリー家にとついだ自分にあると、数年前の手紙にメアリーは書いていた。

 メアリーの写真を良は一枚しか持っていない。彼女のもとにも良の写真は一枚しかない。二十九年前、ポラロイドカメラで互いの姿を撮影した。その一枚だ。

 写真のメアリーはテレビドラマのヒロインによく似ている。ただ、メアリーの方が優しく美しかった。そんな気がする。

 メアリーの写真を良は誰にも見せたことがない。もちろん美津子にも見せていない。

「元カノ?」

 数年前、メアリーがくれたバースデーカードを初めて見せた時、美津子は良にいた。

「どうしてそう思う?」

 良がそう返すと、

「遠い目をしてカードを見ていたから」

 美津子は良と目を合わせずに答えた。

 良が二十歳も年下の美津子と遅い結婚をしたのは四十五歳の時だった。美津子は美人でやさしく、そして若かった。

「何故こんなオヤジのところに嫁に来た?」と美津子に訊いたことがある。

伯父おじさんにだまされたのよ」

 …どんな騙され方をした?

「そのうち教えてあげる」と美津子は答えた。でも、二十年経った今でも未だ教えてもらっていない。

 誕生日の夜、良はメアリーへバースディカードの礼状を書いた。

「君がくれたバースデーカードのおかげで家族が増えてしまった」

 良の膝の上で仔犬が寝息ねいきをたてている。生後二か月のヨークシャーテリアだ。さっきまで書斎の畳の上を走り回っていたが、良が手紙を書き始めるとそばに寄って来てお座りをし、良を見上げて首をかしげた。良が座卓ざたくとの間にわずかな隙間すきまをつくり小さくうなずくと自分から良の膝の上にり身体をまるめて眠り始めた。家に来て半日もっていないのに、もうすっかり馴染なじんでいる。

「父さん、誕生日おめでとう。これ母さんと俺から」

 そろえた手のひらの上に仔犬をせて良の目の前に差し出したのは一人息子の駿人だった。駿人は良より頭一つ分背が高い。仔犬の顔が良の顔の真ん前に来た。仔犬は良の眼をじっと見ている。

「メアリーさんから頂いたバースデーカードの仔犬とそっくりでしょ? きちんとお座りをして私の顔をじっと見るのよ。うちの子になる? ってきいたら、この子、うなずいたの。思わずつれて来ちゃった」

 美津子は、買って来た、とは言わなかった。三十万くらいはするはずだ。

 大学の非常勤講師の仕事は今年の秋で終わる。次の仕事の当てはなく高校三年生の駿人は来年大学に行くと言っている。節約しなければいけないのに……。

 仔犬は磨き上げたオニキスのような真っ黒い目で良を見ていたが、「家計のことも少しは考えてくれ」と良が言おうとしたとたん、顔を寄せて彼の鼻の頭をめた。良は思わず相好そうこうを崩してしまった。まりのない笑顔だ。

「女の子。名前は『リリ』よ。勝手につけちゃった」

 立ち姿が凛々りりしかったから、と美津子は当然のように言った。

「僕は『マロン』がいって言ったんだよ。栗の実みたいな顔してるから」と、駿人が続けた。 

 毛色は大部分が艶のある黒で、耳の内側と脚、マズル、眼の周りはちゃ交じりの薄茶色だ。たしかに栗の実を連想させる色合いろあいかもしれない。頭頂とうちょうから背にかけて輝くような白いラインが続いている。綿毛のような胸は真っ白い。

 耳が極端に大きい。ウサギとタヌキのあいの子みたいだと駿人は笑った。良は、リリが駿人をにらんだような気がした。

「君がバースデーカードに描いていた仔犬と瓜二つのヨークシャーテリアです。妻が勝手に『リリ』と名付けてしまいました」

 そこまで書くと、良は膝の上のリリを見た。疲れているのか、リリは身動ぎもせずに眠っていた。


 良が開発部から管理営業部に異動となったのは三十年前の九月だった。

 管理営業部は、製品の納入先に出向でむいて機器の設置やメンテナンスを行う部署で、出向先しゅっこうさきが遠方の場合はその地への長期ちょうき赴任ふにんとなる。

 良の出向先は何年か前に北陸で開校した大学院大学だった。社長が設立者のひとりだったので、そこの視聴覚機器や情報施設の管理業務は会社が引き受けていた。

「とんだトバッチりだったな。すまん」と社長の成田なりたは良に頭を下げた。

 社内で派閥抗争があったのだ。

「モノづくり」より「カネづくり」の方が好きな創業者一族が、技術畑出身の成田の失脚しっきゃくはかった。派閥抗争による会社の信用失墜しんようしっつい懸念けねんした成田は、自分が譲歩じょうほするかたちで事を収めようとした。経営手腕にも長けていた成田の続投ぞくとうをメインバンクが望み、彼は首をつないだが、「カネづくり」派が成田の代わりに目の敵にしたのが成田のブレーンで開発部のホープだった良だった。

「今まで通り開発をやりたいんだったら知り合いのメーカーを紹介するぞ。それとも大学に戻って教えるか」

 大学院を出て大学で助手をしていた良を自分の会社に引き抜いたのは成田社長だった。

 会社に残ります、と良は答えた。

 複数の大学や企業間をネットワークで結ぼうという社外のプロジェクトに良は個人として参加していた。良の赴任先は財界のきもいりで設立されたエリート養成校だった。学生のほとんどが各国の公的機関や大企業から派遣はけんされた留学生で、日本人学生の数は一割にも満たない。インターネットの黎明期れいめいき、学会で主導的しゅどうてきな立場にいた良にとって、世界的ネットワークの構築を学是がくぜとした国際的教育機関への出向しゅっこうは、むしろ渡りに船だった。しかも良はひとで、実家は赴任先ふにんさきのすぐ近くにあった。

 大学のキャンパスをふところに抱く様に標高ひょうこう千七百七十八メートルの岩峰がんぽうそびえ立っている。古くから信仰の対象になってきた霊山れいざんで、この名峰の名をいただいた地酒じざけもある。

 大学は秋入学制なので、入学式が行われたのは十月初旬だった。

「良ちゃ、ちっと来てくれ」

 朝八時に出勤した良に声をかけたのは警備員の柘植つげだった。彼は良の遠縁にあたる人で、大学の守衛しゅえいをやる前は交番勤務の巡査じゅんさだった。戦中戦後にかけて南洋で米軍の捕虜になっていた経験があり、英語が少し話せる。

「今朝、駐車場のはしで見つけたんだ」

 柘植が指さしたのは守衛室の中に置かれた小さな段ボールだった。ふたが開いている。

「犬?」

 両掌にるほどの小さな生き物が段ボールの中から良を見上げていた。一見黒犬だが耳とマズルと脚は焦げ茶交じりの薄茶色で、頭頂から背にかけて輝くような白いラインが入っている。箱の底に敷いたバスタオルの上にきちんとお座りをし、磨き上げたオニキスのような目で良を見ていた。黄色のハーネスを着けている。未開封のドッグフードと二枚の皿、結わえた引き綱リードが箱の隅に置いてあった。

 犬種は何だろう、と良は首を傾げた。仔犬も首を傾げたので良は思わず笑ってしまった。

「耳が大っかくて、ウサギに化けそこなったタヌキみてぇらて」

 そう言った柘植を仔犬はキッとにらんだ。

「かんべん、かんべん、ジェニー」

 柘植は笑いながら仔犬にびると、黄色い紙片を良に渡した。折り紙用の紙だ。

「この子のなまえはジェニーです。三月生まれです。女の子です。かわいがってあげてください」と、子供の字で書いてある。恐らく涙のあとだろう、黄色い紙の所々に小さなにじみがあった。

「今日、役所に電話してみる」

 柘植は、ハーネスに付いていた鑑札かんさつの番号をメモした。

 昼休み、良は守衛室に呼び出された。

「役所に調べてもらったんだども、飼い主は行方不明だと」

 ジェニーが飼われていた町は県庁所在地だった。事情があって町に居られなくなった飼い主が県外に出る途中でジェニーを捨てたのだろう。柘植はそう言った。

 柘植は、もう一つ困った事があると段ボールの中の仔犬に視線をった。

「朝から何もわねぇんだ」

 仔犬の前にはドッグフードの皿が置いてある。

「お腹がすいていないのかい? ジェニー」

 良が顔を近づけると、仔犬は良の顔を見てまた首を傾げた。 

「キュート! カワイイ」 

 振り向くと、白人の若い女性の顔があった。

 突然、仔犬が立ち上がり段ボール箱のへりに前足を掛けて勢いよく尻尾を振った。

「こらたまげた。俺らには不愛想ぶあいそうなくせに、メアリーさんだけ特別扱いかい」

 修士課程二年生のメアリーさんだ、と柘植は彼女を良に紹介した。良も自己紹介をした。

 メアリーはジェニーを抱き上げた。

「この子と私、同じミンゾクだからですよ」

「同じ民族?」

「この子はヨークシャテリア。私はヨークシャ出身。私たちは二人とも陽気なヨーキーよ」

 メアリーは駄洒落だじゃれを言ったつもりだったのだろうが、「ヨーキー」という言葉に馴染なじみがない柘植と良の無反応を見て小さく咳払せきばらいした。

 良が知っているヨークシャテリアは全身の毛色が薄く毛が地面に着くほど長い犬種けんしゅだったから、黒犬で短毛のジェニーがヨークシャテリアだと聞いて意外だった。ヨークシャテリアも幼犬の時はこんな姿なのだろう。

 良は、仔犬の名前がジェニーで、捨て犬だったことをメアリーに伝えた。

「かわいそう。誰がジェニーを育てますか?」

 まだわからない、と良は答えた。

 メアリーはジェニーを段ボールに戻し、「ウェイト」と言うと、急ぎ足でキャンパスの東に向かった。キャンパスの東端には学生寮がある。メアリーは寮生りょうせいなのだと柘植は言った。

 二十分後、守衛室に戻ったメアリーは、再びジェニーを抱き上げた。

「ソリー、ジェニー。あなたと一緒に暮らす許可がもらえなかったわ。どうしましょう」

 ジェニーはメアリーのほおを鼻の頭で突っついている。

「ハングリー?」

「何も食おうとしねぇんだよ」

 柘植はドッグフードをった皿を指さした。

 メアリーはジェニーの耳元みみもとで何かささやき、ジェニーを皿の前に置いた。ジェニーはお座りをし、メアリーの顔を見詰みつめていたが、彼女が「エンジョイザミール、プリーズ」と言うとおもむろに皿に向かい食べ始めた。

「俺があれだけ言っても食わなかったくせに、メアリーさんが食えつったら食うのかい」

 柘植の声など聴こえないかのようにジェニーは無心むしんに食べた。

 三人は、ジェニーの今後を話し合った。

「警察に拾得物届しゅうとくぶつとどけを出すのが先だな」

 拾得物届けは今日明日中に良の名前で出す。翌日の日曜日は取敢とりあえず良の実家であずかる。月曜日に再た三人で相談しよう。そう決まった。昼休みの終了チャイムが鳴った。

 午後六時に仕事を終えた良は守衛室をのぞいた。ジェニーを抱いたメアリーが居る。

「メアリーさんは授業が終わってから今までずっとジェニーのおりをしてたんだよ」

 柘植はなかあきれ顔で言った。

 メアリーは守衛室の外に出るとジェニーを地面に下ろし、わえたリードをジェニーに渡した。ジェニーはリードを口にくわえたまま良に近づき、お座りをして良の顔を見た。

「連れて行けって?」

 良はジェニーの口から受け取ったリードのはしをハーネスに付け、ジェニーを歩かせて駐車場に向かった。

「シーユーアゲイン、ジェニー」

 メアリーの声にジェニーは振り向いた。良はジェニーが小さくうなずいたような気がした。

 途中、拾得物届けを出しに交番に寄ったため良が実家に着いたのは午後七時半だった。

 良はジェニーを二階の六畳間に連れて行きハーネスを外した。

 電話で事情を伝えていたので、良の母親は部屋を片付かたづけていた。母親がホームセンターで買ったのだろう、畳んだペット用トイレシートが部屋のすみに重ねてある。

 良が座卓の隣に置いた座布団を指の先でたたくと、ジェニーはその上にってお座りをした。

「ジェニちゃんはみじょい(かわいい)ねえ」

 良の母親はドッグフードと水の入った皿を座布団の前に並べながら郷土の言葉で言った。

 ジェニーはドッグフードを食べようとしない。水も飲まない。良はメアリーの真似をして「エンジョイザミール、プリーズ」と言ってみたがジェニーは首を傾げただけで食べなかった。結局ジェニーは何も食べないまま、一時間後、座布団の上で体を丸め眠ってしまった。

 翌朝、目覚めた良は座布団の上にお座りしたジェニーと目が合った。

「おはよう、ジェニー」

 ジェニーは小さくうなずいた。

 トイレシートが座布団の隣に広げてあった。シートには使ったあとがある。敷き方が如何いかにも雑だ。部屋の隅に積んであったシートのたばも崩れている。

「ジェニー、お前、自分でトイレをセッティングしたのかい?」

 ジェニーはトイレシートをくわえてきて自分で広げ、使ったらしい。

 ジェニーは朝も食べなかった。

 十時ごろ、メアリーから電話があった。

「ジェニーは元気ですか?」

 電話は守衛室からかけているという。

「昨日から何も食べていない」と良が答えるとメアリーは「オーケー」と言って電話をきった。

「お客さんだよ。綺麗きれいな外人さん」

 母親がメアリーの来訪らいほうを告げたのは電話をもらった二十分後だった。

 部屋に入ったメアリーにジェニーは飛びついた。尻尾を勢いよく振っている。

 メアリーに頭をでられながら、ジェニーはドッグフードをきれいに平らげた。


 ジェニーは良と共にし、守衛室で番犬としてすることになった。

「ペットをキャンパス内に入れることを禁ずる。ただし番犬のジェニーは別」という英文の触書ふれがきが掲示板に張られた。メアリーが与えるもの以外絶対に食べないというジェニーの事情を考慮した学長の判断だった。ジェニーを一目見て締りのない顔で「可愛いなあ」と言ってしまった自分の事情も考慮したらしい。

 イスラム教徒の留学生が事務局に怒鳴り込んだ。イスラム教では犬は不浄な動物とされている。キャンパス内に居る犬を即刻処分しろと彼は言った。困りてた事務局のスタッフは彼を守衛室に連れてきた。苦情処理を柘植つげにナげたのだ。

「この子が犬?」

 受付のカウンターテーブルに座る小さなジェニーを見た彼はそう言ってしばらく黙った。番犬と触書にあったので、ドーベルマンのような大型犬を想像していたのだろう。

 ジェニーは彼を見返しながら右前足を差し出した。彼は呆気あっけにとられた様にジェニーを見ていたが、やがて自分の右手を出しジェニーの前足をやさしく握った。そして、

「犬はイスラム教徒に握手を求めたりしない。こんなにキュートでノーブルな動物が犬であるわけがない。この子は犬ではない」と言い放ち、笑顔で守衛室を去った。彼は以後、誰が何と言おうとジェニーを犬として認めなかった。ジェニーは滅多めったえなかったが、彼の前で一度だけ「ワン」とないたことがある。彼は「こら、ジェニー、犬の真似なんかしちゃいけないよ」と大真面目おおまじめでジェニーに説教した。

 ジェニーは芸をしない。

 ジェニーはメアリーがくれる物以外絶対に食べない。それを知らない者が食べ物をジェニーに見せ芸をさせようとする。ジェニーは一応お座りをして相手の顔を見るが、お手もおかわりもせも絶対にしない。

 来客の一人が食べかけの菓子をジェニーに見せ、「チンチン」をさせようとしたが、ジェニーはプイッとそっぽを向いて彼を無視した。

「ジェニーはイギリスのレディーだからな。チンチンなんか絶対にしねえだろう」

 柘植にそう言われ彼はジェニーに謝った。

 陽が暖いと、柘植は守衛室のカウンターテーブルに小さな座布団を敷いてジェニーを座らせた。守衛室の前を通りかかった学生が「おはようジェニー」とか「こんにちはレディー」と挨拶すると、ジェニーは貴婦人のように右前足を差し出し握手を求める。ジェニーと握手した学生はみな、レディージェニーの謁見えっけんたまわって今日はラッキーだったと喜んだ。

 メアリーは平日の朝と夕方には必ず守衛室を訪れ、ジェニーに食事をさせた。

 メアリーはイギリスの企業が派遣した留学生だった。北ヨークシャーのスカーブラ出身だと言った。

「サイモンとガーファンクルの『スカボロフェア』を知っているでしょ?」

 北海に面した港町で、古風な街並みがとても素敵なのだと自分の故郷を自慢し、

「ヨークシャは私たち二人の故郷よ」

 そう言ってジェニーを優しく抱きしめた。


 十一月下旬に降り始めた雪は、半月も経たないうちに一メートルも積もった。

 学生たちはコシキやスノーダンプを使って、キャンパス内の除雪作業をした。初めて雪を見る留学生も多く、彼らは解体した段ボール箱に乗って雪の上を滑ったり、雪洞せつどうを造り中に入って遊んだりしていた。

 犬は喜び庭かけまわる…はずなのに、ジェニーは炬燵こたつで丸くなる方が好きらしかった。メアリーが誘っても雪の中には出ようとしない。

「猫みてぇだ。情けねえ」

 柘植が笑うと、ジェニーはむっとしたように下を向いた。

 知り合いの獣医から小型犬は寒さに弱いと聞いた良は、ドーム型のベッドを二つ買い、実家と守衛室にひとつずつ置いた。

 クリスマスイブも雪だった。毎年、キリスト教圏から来ている留学生たちがクリスマスツリーを飾り盛大に祝うのだが、この冬の日本には特別な事情があり、彼らは遠慮して、賑やかに振る舞うことをしなかった。

 彼らは大学のカフェテリアを借りて、ささやかなキャンドルパーティを開いた。隅のテーブルに高さ五十センチくらいの小さなクリスマスツリーを置き各テーブルに一本ずつ蝋燭を灯して、持ち寄ったワインやジュースを飲みながら語りあった。

「こんな素敵なクリスマスイブは初めてだわ」

 ガラス窓の外に降る雪を見ながらメアリーは言った。

 良は小さなテーブルを挟んでメアリーと向かい合って座り、メアリーが語るイングランドのクリスマス物語を聴いていた。

 メアリーに抱かれたジェニーの眼にクリスマスツリーの枝の先で点滅てんめつするいくつもの豆電球が映っていた。

 忘年会も大晦日おおみそかのカウントダウンも、年賀ねんがの挨拶も新年会もなかった。一月七日、昭和天皇が崩御ほうぎょし日本はしばらくの間、ふくした。


 ジェニーの誕生日を三月の何日にするか決めようと言い出したのはメアリーだった。

 愛する者の誕生日を祝うのは人として当然の義務だ。愛する者の誕生日は知らなければいけないし忘れてもいけない。でもジェニーの誕生日が三月の何日なのか知るすべがない。仕方がないから二人で決めてしまおうと、メアリーは良に提案した。

「ジェニーは女の子だから三月三日が好い」

 メアリーは文句なく良に同意し、桃の節句がジェニーの誕生日に決まった。

 三月三日、ジェニーの誕生祝が放課後の守衛室で行われた。見回りに行くから、ジェニーの誕生日は二人で祝ってやってくれと言って柘植は守衛室を出た。良は掌に載るくらいの小さなホールケーキを箱から出してジェニーの前に置いた。でたササミをほぐしてゼリーでかためたメアリーお手製のケーキだ。

 ハッピーバースデー・トゥ・ユーを歌った後、小さなケーキに立てた蝋燭ろうそくをジェニーの代わりに吹き消したのはメアリーだった。  

「リョウの誕生日をリョウのママが教えてくれたわ」

 良の誕生日は五月五日だ。

「ジェニーの誕生日もリョウの誕生日も私は決して忘れない」とメアリーは言った。

 良はメアリーに彼女の誕生日を訊いた。

「教えたら憶えておいてくれますか?」

「絶対に忘れない」と、良は答えた。

 メアリーの誕生日を知った良は少し愉快になった。メアリーの誕生日は七月七日の七夕だった。忘れようがない。

 ジェニーはササミケーキを綺麗きれいに平らげた。


 その年の春は比較的早く来た。三月の末に雪はすっかり消え、四月の十日には桜が咲いている。

 冬の間、冬眠する熊のようにドームベッドにもぐり込んでいたジェニーも、ようやく散歩をねだり始めた。

 朝起きると、良の枕元にはお座りをしたジェニーがいる。ジェニーの気配けはいで起きてしまうので目覚まし時計は必要なかった。目覚めても良は起き上がらないし目も開けない。するとジェニーは鼻の頭で良の頬を突っつく。良は頬に感じるジェニーの鼻の冷たさを楽しんだ。

 良が朝食を終えるまで、ジェニーはわえた引き綱をくわえ玄関で待っていた。

 良は出勤すると、早朝の誰もいないキャンパスにジェニーを放した。ジェニーはキャンパスの東に走って行き、寮の入り口で待つメアリーに抱っこをねだった。


「川田の嫁は外人だと噂になってるげだ」

 休日にジェニーと散歩する二人を近所の人間が目撃したのだろう。小さな町だ。母親としては気になるのかもしれない。

「あんな気立きだての好い人が本当にあんたの嫁さんだったら私は嬉しいんだけど」

 良の母親はつぶやくように言った。

「リョウは私が好きですか?」

 笑顔のメアリーにかれたことがある。

「もちろん。ジェニーも僕もメアリーが好きだ」

 良はジェニーをクッションにして自分の想いを誤魔化ごまかした。

 メアリーと二人きりで話したことは一度もない。二人のそばには必ずジェニーが居た。二人の関係をつないでいたのはジェニーだったが二人の想いを抑えたのもジェニーだった。良はそう思う。


 狂犬病の予防注射をした帰りだった。車に載せようとリードを外した瞬間、ジェニーは良の手をすり抜け走り出した。

 ジェニーの行く手には二匹の犬が対峙たいじしていた。プードルの仔犬と黒毛くろげ柴犬しばいぬだ。プードルはリードを引きずっている。飼い主がリードを手から放してしまったのだろう。袋小路ふくろこうじに追い詰められ、プードルはおびえていた。きばいた黒毛がプードルに襲いかかろうとして足を踏み出したその瞬間、二匹の間を割ってジェニーが飛び込み、黒毛の前に立ちはだかった。黒毛はジェニーをにらうなり声をあげた。しかし自分の三倍も大きな相手に威嚇いかくされてもジェニーは少しもひるまない。良がけ付ける直前、黒毛はジェニーにびかかろうとした。間に合わないと良が思った時、「クロ、まて!」と大きな声が響いた。黒毛の飼い主だった。

「この馬鹿犬、弱い者いじめするんじゃねえ」

 首根っこを押さえつけられた黒毛は上目遣うわめづかいで飼い主を見た。

 プードルの飼い主も駆け付けた。

 黒毛の飼い主はプードルの飼い主に何回も頭を下げていた。ジェニーはプードルが飼い主に抱きかかえられたのを見届みとどけると、何事も無かったかのように良とメアリーのもとへ戻った。

度胸どきょうのある犬だのし」とジェニーに視線を向けた黒毛の飼い主は言った。

「ドキョー?」

 勇気のこと、と良はメアリーに教えた。

「ジェニー、あなたはリョウと私の誇りよ」

 ……良と私? 良はジェニーの頭をでた。


「素敵な三十六歳おめでとう、リョウ」

 バーデーカードの日本語のメッセージの下に、メアリーは北イングランド風の瀟洒しょうしゃな家を描いていた。スカーブラの自宅だという。家の玄関前にはジェニーが座っている。

 キャンパスの一角で話す二人のところへメアリーの同級生がポラロイドカメラを持ってきた。フィルムが二枚残っているから使ってくれと言う。ジェニーを抱いて微笑むメアリーを良が、やはりジェニーを抱いた良をメアリーが撮影した。

きずなが写っている」

 二枚の写真を見比みくらべながらメアリーが静かに言った。

 

 五月の中旬、体育館で開かれた文化交流会で、メアリーはギターの弾き語りをした。北ヨークシャの民族衣装を着たメアリーが歌ったのは『スカボロフェア』だった。

 前日、メアリーは良に、この歌はとても不思議な恋の歌なのだと言って、歌詞を訳してくれた。

 ……スカーブラの市に行ったら僕の昔の恋人に伝えてくれ。縫い目のない亜麻のシャツを乾いた井戸で洗い、花の咲かない薔薇の木にかけて乾かせと。そうすれば二人は再び恋人になるだろうと。

 …スカーブラの市に行ったことがありますか? 私を思い出してと彼に伝えて下さい。羊の角で耕した海岸の波打ち際に胡椒こしょうの実をいて、かわかまりヒースのロープでたばにできるなら、私は彼に亜麻あまのシャツを渡すでしょうと。*1

 メアリーの歌声は不思議なほどに澄んでいた。彼女は歌っている間、体育館の隅に立つ良に視線をっていた。

 …それができないのなら、パセリ、セイジ、ローズマリー、そして、タイム、せめてやってみるとだけ言って下さい。*1

 ジェニーはメアリーの足元で彼女に身を寄せるようにして座っていた。


 メアリーは修士課程を修了した。六月の修了式に出席したら帰国の支度したくをしなければならない。彼女を派遣はけんしたヨークシャの企業は出来るだけ早い帰国を求めていたし、寮も七月末までには出なければいけなかった。

 良の出向期間も七月末までで、地元企業への業務委託手続きが済み次第、本社に戻る。

「私が帰国したらジェニーは飢え死にするわ。何かいいアイディアはないかしら」

 ジェニーは未だにメアリーが与える食べ物以外、がんとして受け付けなかった。

 ヨークシャーに連れて帰るにしても、問題がある。ペットの出入国は容易ではない。検疫けんえきなどの手続きの間、犬は飼い主と共に過ごせない。ジェニーはえてしまう。

 メアリーは良の目をじっと見た。

「考えがある」

 修了式の日に君に話す、と良はメアリーに言った。

 メアリーを派遣したイギリス企業の経営者は成田社長の知り合いだった。メアリーはその経営者のめいだ。成田に頼めばメアリー帰国の先延さきのばしは何とかなる。

 県内の国立大学から良を助教授として迎えたいという話があった。良は、六月に返答すると先方に伝えた。

 修了式の日に、メアリーに提案しよう。ジェニーのためだと言えばメアリーはきっとイエスと言ってくれるだろう。良は決心した。


 日本の梅雨はそれほど嫌いじゃない。シトシトという情感じょうかんのある擬音ぎおんが好きだと、メアリーは言っていた。でも、修了式の日に雨は降らず、空気は遠くの山々の輪郭がはっきりと見えるほど澄んでいた。

 良は事務スタッフと共に駆り出され来客の案内や車の誘導にあたっていたが、その仕事も学位記授与式が始まるとひと段落ついた。

 駐車場に居た良を、守衛室の外に出た柘植が手招きした。

「さっき、駐在所ちゅうざいしょから電話があった」

「駐在所?」

 柘植から電話の内容を聞いた良は、受付カウンターの上でお座りをしているジェニーをじっと見た。ジェニーは首を傾げた。

「三人して、ここに来るそうだ」

 柘植は学位記授与式が行われている遠くの講堂に目をった。

 十分後、七、八歳くらいの女の子を連れた中年の男女が守衛室を訪れた。

 ……経営していた会社が倒産した。夜逃げ同然で町を出たのであずけ先をさがす余裕がなく、車で通りかかった大学の前にくジェニーを捨てた。関西で仕事を見つけ生活の目途めどもたった。身勝手な話で申し訳ないが、娘にジェニーを返してもらえないだろうか、と女の子の父親は良に言った。

 学位記授与式が終わったらしい。講堂を出る学生たちの賑やかな声が聞こえた。 

 角帽をかぶりガウンを羽織った笑顔のメアリーが急ぎ足で歩いて来た。良と柘植は暗い顔を彼女に向けた。

 守衛室の五メートルほど前でメアリーは突然足をとめた。守衛室の外で、幼い女の子がジェニーに何か食べさせている。女の子の近くに立つ中年の男女がメアリーに向かい、小さく頭を下げた。

 自分以外の者から食べ物をもらっているジェニーを見て、メアリーは全てを察した。

 メアリーはしゃがんで、自分に気づいて駆け寄ってきたジェニーに顔を近づけた。

「ジェニー、リスントゥミ」

 ジェニーはお座りをし、メアリーの顔をじっと見た。

「アイラブユー、ジェニー。私はヨークシャに帰るの。でもあなたを連れて行けない。あなたと最初に会った時、私はあなたと約束したわ。今まであなたが愛していた人が、きっと何時かあなたを迎えに来る。それまでは私がその人の代わりよ、と」

 メアリーは英語でジェニーに語りかけていた。

「リョウ、ジェニーのリードを下さい」

 良はメアリーの元に歩いて行き、結わえたリードをメアリーに渡した。

「ありがとうジェニー。あなたのことを私たちは決して忘れない。さあ、あなたが最初に愛した人たちのところに帰りなさい」

 メアリーはわえたリードをジェニーにくわえさせた。ジェニーはゆっくりと歩いて女の子のもとに向かった。

 女の子はジェニーからリードを受け取るとジェニーを抱き上げ両親と駐車場に向かった。

「ジェニー、お願い。振り向かないで」

 メアリーはささやくような声で言った。でもジェニーは車にのせられる寸前すんぜん、女の子の肩に前足をかけメアリーと良を見た。メアリーは良の胸に顔を押し付け声を上げて泣いた。 

 メアリーは、泣きながら「これで私は安心してヨークシャーに帰れる」と言った。

 ジェニーをのせた車がキャンパスの外に出るまでメアリーは泣き続けた。


 メアリーは帰国し、良も本社に戻った。

 三年後、メアリーは結婚した。相手は良と同い年のイギリス人だった。

 良も九年後に二十歳年下の成田美津子と結婚した。

 ……日本に残ってジェニーと一緒に三人で暮らそう。

 良は修了式の日、メアリーにそう告げるつもりだった。


 リリは寝息を立てている。時々、良の膝に鼻先はなさきを押し付ける。

「例の件、引き受けてくれますね。むかしリョウにも私にもドキョーが無かったために、私たちはとても哀しい思いをしたのよ。忘れてはいないでしょ?」

 バースデーカードの添状そえじょうにメアリーはそう書いていた。

「度胸をスえて君のお手伝いをする決心をしました。ただし僕には支社長を引き受けるほどの能力はありません。一技術者として君の会社で働かせて下さい。僕の代わりに支社長に推薦したい若者がいます」

 良は宛名に「ミズ・メアリー・イーディ」と書いた。KHLのゼネラルマネージャとして仕事をする際、メアリーは旧姓を使っている。メアリーの旧姓はイーディだ。

 良はメアリーへの手紙を書き終えると、彼の膝の上で体を丸めているリリの背を撫でた。


 一か月後、KHL日本支社設立のプロジェクトリーダーを迎えるため、良は美津子と川岡雄基を連れ空港に向かった。川岡はKHL日本支社長に内定していた。

「奥さんは何故二十歳も年上のオヤジさんと結婚したんですか?」

「私の伯父にね、川田を味方につけておかないと自分の立場が危ない。わるいが川田のところへ嫁に行ってくれって頼まれたのよ。政略結婚ね」

「政略結婚?」

「そう、政略結婚。私ね、政略結婚の犠牲になる悲劇のヒロインに一寸ちょっと憧れていたのよ。そこに、一寸だけ惚れていたこの人との政略結婚話でしょ。渡りに船って感じだったかな」

 良が美津子と結婚した年に、成田は社長の座を退しりぞき、大きな経済団体の理事になっている。ただのお荷物社員に過ぎなかった良が味方につこうがつくまいが、成田の立場には何の影響も無かったはずだ。

 良が成田の家を訪れると、毎回必ず、そこには成田の姪の美津子がいた。二十も歳が離れているのに何故か気が合って、いつも時間を忘れるほど話し込み成田社長宅に泊まったことも何度かある。

 美津子は美しくやさしかった。自分は二十歳も年上で地位も財産もなく容姿端麗でもない。美津子に言い寄る若者は何人もいただろう。だから良は、美津子への恋心を抑えていた。

「俺の姪っ子がお前といると楽しいって言ってるんだ。知っての通りガサツな性格だから嫁の貰い手がなくてな。お前、度胸をスえてあいつを嫁にもらってくれねえか」

 二十年前、成田社長はそう言って良に頭を下げた。

「オヤジさんと政略結婚、全然ピンとこないな」

 川岡はそう言って大笑いした。

 KHLの執行役員メアリー・イーディが今回日本支社設立準備の責任者として日本に送り込む人物は、彼女の今年二十五歳になる娘だ。 

「ミス・ジェニー」と川岡が呼ぶと三十年前のメアリーによく似た若い女性がこちらを見て手を振った。

「思い出したわ。メアリー・クローリーって名前。ダウントンアビーのヒロインよ」

 美津子は、憑物つきものが落ちたようにため息をついた。

                                   了


*1  Scarborough Fair (traditional English ballad)より、筆者訳


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

プラウドジェニー Mondyon Nohant 紋屋ノアン @mtake

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ