テレビ塔にて

 三日間が怒濤のように過ぎた。

 駐屯地に集められた僕たちは、わずかな休憩と食事の後、すぐに市内に出向くことになった。

 覚悟を固めるため、僕自身、東日本大震災での津波の映像はネットで何度でも見た。

 でも実際現場に立ってみると、ありとあらゆる物が押し流され、地上に残されたすべてが乾いた泥色に染まったモノトーンの風景は覚悟していた以上に心に刺さった。

 僕は、何もなくなった海岸沿いでの活動を早々に打ち切り、地震で倒壊した家屋が多く残る西側の市街地をセロー250バイクで走る。

 道はない。ただがれきの山があるばかり。

 全壊を逃れた建物にも危険な建物は数多くある。危険度に応じて赤、黄色、緑のトリアージタグをバンバン張りつけ、補強やこれ以上の倒壊を防ぐ方法を簡単に描き足しておく。ガス漏れや漏電もチェックし、それぞれの会社に通報する。

 もちろん、建物に閉じ込められた人を発見することは何度もあった。だが、僕は、要救助者にわずかな水を与え、後は本部に連絡して自衛隊とDMAT災害派遣医療チームを呼ぶことしかしないし、できない。

 二年前。この活動を始めたばかりの僕は安いヒロイズムに突き動かされ、倒れた柱を取り除き、小さな女の子を救助したことがある。


「おじさん、ありがとう!!」


 彼女は弾けるように明るく笑い、僕自身とても誇らしかった。だが、救助隊が到着するまでのわずかな時間に容態が急変して亡くなった。とても元気だったのに、だ。

〝クラッシュ症候群シンドローム〟というモノをその時初めて知った。

 長時間がれきに体を挟まれた人を安易に助けてはいけない。泣き崩れる彼女の両親の背中を遠目で見守りながら、僕は苦過ぎる教訓を得た。

 そう。僕の力は本当にちっぽけだ。でも、やるせなくなるたびに、脳裏にはあの霧の日の光景が浮かぶ。

 窒息で死にかけた僕を助け、霧の中に消えた正体不明の若い研修医。

 彼女にもらった命を次につなげるため、僕は絶望感を抱えながら、それでもがれきの中を休まずに走り回った。




 それからさらに四日目の夜明け前。

 僕達は、ドロドロに汚れたままのバイクでつづら折りの山道を駆け上っていた。それほど高い山ではないけれど、コンクリートの舗装はあちこちひび割れ、崩れ落ち、気を抜くとそのまま下まで転げ落ちそうだ。

 自然公園の案内板を過ぎたあたりの分岐で、道はいきなり軽トラ一台がギリギリのせまい山道になる。アスファルトは敷かれているけど、所々に砂利が浮いていて、僕らはさらにスピードを落として慎重に高度を稼ぐ。

 だんだん空が白み始め、テレビ塔の建物を過ぎた所で道は唐突に終わっていた。小さな駐車場と送信所があるだけで、他は何もない。木が茂って見晴らしも悪い。


「なんだよ、せっかく登ってきたのに」


 この先にはさらに登山道があるらしいけど、さすがにそこまで足を伸ばす体力は二人共にもうない。


「お、開いてるね、ここ」


 それでも諦めきれず、送信所の金網をガチャガチャやっていた彼女が唐突に声をあげる。

 発電機の給油か何かで登ってきた人がいたらしく、どうやらそのまま施錠を忘れたものらしい。


「入るの?」

「だって、上まで登れそうだし」


 彼女は薄暗がりの中でニヤッと笑った。

 



 数分後、僕らは送信所の屋上でテレビ塔の根元に背中を預け、朝霧にけぶる市街地を見下ろしていた。山の木々もかなり傾ぎ、その隙間から遠くにビルの頭がのぞいている。崩れた家屋も津波の傷跡も、今、この瞬間だけは真っ白な霧のベールに隠されている。


「結局、活動中はほとんど話もできなかったね」


 彼女は少しだけ残念そうにつぶやく。

 僕らの活動は昨日ですべて終了し、昨夜遅く、第二陣にすべての業務を引き継いだ。普通なら三日で第二陣に引き継ぐ予定だったけど、地震の規模が大きく、交代要員の到着が予想以上に遅れたのだ。

 彼女はDMATの一員として文字通り寝食を忘れてけが人の治療に飛び回り、同じように飛び回っていた僕とは食事のタイミングすらほとんど合わず、お互い一言、二言しか交わせなかった。


「でも、まあ、最後にここに来れたからいいや」


 彼女はくるりと振り返ると、反対側の手すりにもたれるようにして僕の顔を正面から見つめる。


「世界の終わりに、また逢ったね」


 そう言って、少し寂しげに笑う。


「多分、今の私は君と同じ事を考えていると思う。ここに……」


 言いながらさっと両手を広げる彼女。


「……救えなかった命がこれほどたくさんあるのに、どうして私はいまだにこちら側にいるんだろう……って。でもね……」

「……僕はちょっとだけ違うことを考えてた。僕がこちらに引き留められた理由は何だろうかって」

「え?」

「あの日以来、ずっと考えてるんだ」

「あの日?」

「ええ、二子玉川が濃霧に沈んだあの日。僕が死ななかったのは、貴女が救ってくれたからなんですよね?」

「あ……」


 彼女は驚いた顔のまま固まった。


「気付いていたの?」

「いいえ、つい最近ようやく気づきました。ヘリで運ばれてきたけが人を貴女が必死に励ましている声を聞いて、ああ、この声は前にもどこかで聞いた事があるって……」

「ああ、そうか」


 彼女はくしゃりと微笑んだ。


「……一生黙っていようと思ってたんだけど」

「僕は今回が三回目だと思ってました。でも、貴女にとっての三度目は前回だったんですね」


 彼女は、いくぶん顔を赤くして黙り込んだ。


「この前、私が変な宣言をしちゃったでしょ? その時に君が『三度目の正直があれば考える』みたいなことを言ったから、かえって言い出しにくくなっちゃって……」


 そのセリフに僕の顔も赤く染まる。


「最初に出会ったあの日、私は君に一目惚れしたんだよ」

「えっ?」


 もっと早く言ってくれれば良かったのに。多分そんな気持ちが顔に出ていたのだろう。彼女は少し焦った顔で言い訳をする。


「でもほら、初対面の人に突然そんなこと言い出すなんてなんだかはしたないし、私が背負ってる業に君を巻き込みたくなかった。でも、ずっと気にはなってたんだ。ホント。それだけ」

「じゃあ、二回目の……」

「あれは本当に偶然。神様のイタズラ。私が自分の選択に疑問を感じてた時にたまたま出会った。でも、君を救えたことで私の気持ちはようやく定まったんだ。たとえどんなにしんどくても、私は救急医この道でやって行くって」

「そうだったんですね」


 俺は神妙に頷いた。


「でも、そのせいで君を本格的に巻き込んじゃった……」


 彼女はそれきり黙り込むと僕に背中を向け、無言で土佐湾があるであろう方向を望む。そんな背中に、僕は精一杯気持ちを込めて語りかけた。


「実を言うと、陸前高田には貴女に会えないかと思って行ったんです。色々悩んでいたのは事実ですけど、僕はあの時、何より貴女に会いたかった」

「……うそ」

「嘘じゃないですよ。おかげで、一面真っ白な霧の中で、ようやく一本の道が見えた気がしたんです。それが貴女に繋がっていたのは多分偶然じゃない」


 ずいぶん待って、彼女はようやく口を開いた。


「こんな世界の終わりの霧の中で、自分の足元すらおぼつかないのに……」

「だからですよ。お互いこれ以上迷わないように……」


 僕は一歩踏み出し、ためらいながら彼女の左手をとる。彼女は、ビクリと身体を強張らせ、それでも僕の手を振払おうとはしなかった。


「この仕事を続ける限り、僕らはこれからも何度でもこんな世界の終わりを見る。でも、せめてお互いを見失わないでいられたら、少しはマシな気持ちでいられると思いますよ」


 彼女は何も答えず、無言のまま小さく鼻をすする。


 僕らの目の前には、朝日を浴びてキラキラと輝く土佐湾が、霧の向こうからゆっくりと姿を現そうとしていた。


〈了〉

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

濃霧の朝ーSIDE Aー 凍龍(とうりゅう) @freezing-dragon

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ