剣山山麓にて
「こんなところで何をやっているんですか?」
「見ての通り。こいつのおかげで先に行けなくて困ってる」
彼女は忌々しそうに杉の幹を右手でぺしぺしと叩く。
直径が四十センチ近い苔むした杉の木が、地面から中途半端に浮いた状態で林道を塞ぐような形で倒れこんでいた。バイクで下をくぐるには狭いし、上を越すのも無理そうだ。
「じゃなくて、どうしてここに?」
「うん、高知に行きたいんだけど、どこも通行止めで……」
「いえ、だからどうして?」
「え?」
彼女はきょとんとした表情で俺の顔をまじまじと見つめた。
「話さなかったっけ? 私、救命医なんだ」
「え!?」
「出動要請が出てね。バイクに乗れる私が真っ先に飛び出してきたわけなんだけど……」
僕は目を丸くする。さすがに想像もつかなかった。でも、聞いてみればなるほど納得もできる。
「驚いた。全然聞いてなかったし」
「でも、まさかこんな所で足止めを食らうなんてねぇ」
恨めしそうに倒木を見上げる彼女を置いて僕は自分のバイクに駆け戻ると、サイドのパニアケースから充電式のチェーンソーを取り出した。
「うわ、どうしてこんなものを持ち歩いているの! ジェイソン?」
「話さなかったっけ? 僕、危険度判定士なんだ。ちなみにジェイソンは一度もチェーンソーは使ってない」
仕返しとばかりに澄ました顔でそう答えると、今度は彼女が目を丸くした。
とりあえず今は時間が惜しい。僕は数歩下がって全体を見渡すと、幹の何か所かをパズルのようにV字型に切り欠いた。
「こんなことして叱られない?」
深い霧の中にチェーンソーの音が響く。彼女は耳を両手で耳を塞ぎながらあきれた口調でそう尋ねた。
「厳密には器物破損だと思う。後でまとめて謝っておくから。それより離れて!」
大声で答えながらとどめの一発を深々と切り込むと、杉の木はメキメキと激しい音を立てながら自重で折れ、そのままの勢いで梢の方が斜面にずり落ちる。完全に取り除くまでには至らなかったけど、どうにかすり抜けられる程度の隙間はできた。
腰のポーチから防水カメラを取り出し、証拠代わりに撮影すると彼女を急かす。
「それより急ごう」
「あ、そ、そうだね」
まだ半分放心状態の彼女は、ぎこちなく頷くとヘルメットに手をかけた。
林道を抜けてすぐ、四つ足峠のトンネルは入口のすぐ先で崩壊して通れなかった。少し戻れば安芸に抜ける県道があることは知っていたけど、安芸から高知に抜ける国道五十五号は津波の直撃で壊滅している。それならばとトンネルの脇から入った旧道は想像以上に荒れた登山道……というよりほとんどけもの道で、乗り入れたことを本気で死ぬほど後悔した。
今さら戻るわけにはいかない。二人がかりでバイクを押したり引いたりしてどうにか国道に復帰した頃には、あたりはすっかり明るくなっていた。
「どうにか越えたね」
彼女の差し出した水筒の水を浴びるように飲み、僕らはようやく一息ついた。
その頃には、あたりを覆っていた濃霧はすっかり晴れ、大災害の翌朝とはとても思えないまぶしい朝日が二人の顔を照らしていた。
「もうひとっ走りだね。私は駐屯地に行くけど、君は?」
「僕もとりあえずそこへ」
「じゃあ、一緒に行こうか」
僕らは並んでバイクを走らせた。
考えてみたら、彼女と共に走るのは、初めて出会ったあの日以来だった。
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