開幕を夢見て

きつね月

開幕を夢見て

 

 例えば、シャーペンの下の方を親指と人差し指でつまんで、目線の高さでぴんと立ててみる。それをそのまま右から左へと10センチぐらい動かすと、シャーペンはまっすぐ立ったまま移動する。

 それがそのまま体の芯になる。

 体の芯が全く動かないまま、長い手足が風車のように回転して投げ込む投球フォーム。

 野球というものがいつから始まったのかは分からないけど、おそらくその歴史の中でも他にないほど綺麗なフォームだと思う。


「ううむ、」

「何よ?」


 私が思わず唸っていると、友人がスマホの画面の向こうから尋ねてくる。

 彼女はどうやら3本目に手を出したようだ。さっきよりも赤くなった顔でこっちを見ている。


「ペースが早いんじゃないですか?」

「家だからなあ」

「家だと早くなるの?」

「帰る心配しなくていいじゃん」

「ああ、確かに」


 テレビの試合は後半戦になっている。

 投手はまるで機械のように同じフォームで投げ続けているが、実はこの試合でノーヒットノーラン(無安打無得点試合)を達成することはわかっていた。

 プロ野球もメジャーリーグも開幕しないので、こうして再放送されている試合をビデオ通話越しの友人と一緒に見ているのだ。

 すっかり酔いが回った様子の友人が笑いながら言う。


「しかしだね、こうしてオンラインで呑むっていうのも気楽でいいんだけど、一つ難点があってね」

「なに?」

「終電逃したって嘘ついて、君んちに行けないのが残念」

「嘘って言っちゃった」

「だって嘘だもの、分かってたでしょ?」

「分かってたけど…」


 一人の部屋でも、こうして笑ってくれる人がいると寂しくはない。

 だけど確かに会えないというのは、何かが足りないような気がしていた。


 テレビから歓声が聞こえてきた。

 投手は最後の一人を見事打ち取って、大記録を達成していた。

 チームメイトと抱き合って喜んでいる。その後ろではたくさんのファンがプラカードやら風船やらを持って祝福している。まるでドラマのような風景。ここに映っている人たちは、まさか数年後に球場に行くこともできなくなるなんて想像もしていないだろう。

 私と友人は無言でテレビを見つめている。

 フォームの綺麗さについて語ることはできても

 大記録に興奮することはできない。

 やっぱり球場っていうのは人が集まってこそ意味がある。そこに駆け付けた人たちと感動や歓声、時には悔しさを共有することが楽しいんだ。

 そしてそれは、たぶん球場に限った話じゃなくて…


「……」

「…何か言いなよ」

「開幕したらさ、ぜったい観に行こうね。いつになってもいいからさ」

「うん…」



 しばらくした後、友人が寝てしまったので私はビデオ通話を切った。

 テレビでは新しい試合が始まっていた。この試合でもたくさんの人が球場に集まっている。私はふと、この人たちは今何をしているんだろう、と気になった。

 この人たちも私と同じようにもどかしい気持ちを抱えているんだろうか。

 行けるようになったらまた球場に行きたいと思っているかもしれない。

 きっとそうだろう、そうだといいな。


 私はテレビを消した。部屋はしん、としてしまう。

 コップに水を注いで、歯を磨く。

 きっと今の私のように、もどかしい気持ちを抱えながら部屋で過ごしている人がたくさんいる。私たちは今、このもどかしさを共有している。

 新しいシーズンが始まった時には、それは特別な開幕になるだろう。その時の球場の盛り上がりは凄いだろうなあ―――


 歯を磨き終えて布団に入った私は、そんなことを考えていた。

 


 

   



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