第2章 「姥拾い」 第2節 3ー3


 眉子からは、メールで逐一日々の泣いたり笑ったりの報告がその後も届いていた。結婚して京都府の近くの市に移ってからも、眉子の感心は嫁との確執でありつづけた。眉子が育てたと言っても過言でない孫のひとりが、そのあおりを受けて親と祖母との板挟みになっていたのである。


 眉子が母親を批判すると息子が怒り、孫との接触を禁じた。それで父子の関係がこわれていき、孫は一家の厄介者になりかかっていた。眉子は一層やきもきし、無能な母親を批判し、息子が怒り、と同じ輪の中をみなが苦しみながら回っていた。


 眉子の新しい夫、南条均は最初、写真を見せてもらった時から、麻子の気に入った風貌である。なんらかの魅力があるというのではなく、成熟した平穏な年輪が刻まれていたからだ。

 よく知り合ってという訳でもない眉子の、複雑な心理や境遇によく理解を示し、愛しているようなのが微笑ましかった。

 妻に病死された彼にも、新妻への夢や期待があったはずだが、眉子の苦悩に寄り添ってしだいに自分の期待度を下げていく余裕を見せたのには、麻子はますます感心した。


 その南条夫妻がついに麻子の老女の館を訪問すると言ってきた。その頃には、いつの間にか眉子の嫁が折れてきた。そこには南条均の言葉と説得がなんらかの効果を発揮したと麻子は見ていた。嫁姑の間がゆるやかになると、家族の中で眉子の大事な孫が大切にされ始めた。今度は善の輪が回り始めていた。


 おおかたの老女たちの人生と同じく、楽しみの少なかった庶民生活を送っている麻子が、いつになく浮き浮きした気分でいた。これほど精神が高揚するのは珍しい。まるで何も起こらないのにひとりで盛り上がり満足していた少女時代のようだわ、とひとりごちた。

 考えてみると、その頃の少女の麻子は病弱だったために朝夕に養命酒を飲まされていた。つまり常に酔っぱらっていたのだ。


 「珍しく、立派な男性にお目にかかるのよ。利己主義でも甘えん坊でもない、心の大きな男らしい人にね」

 玲子に説明した。玲子は大きな眼をパチパチして、

「それ、南条氏のことでしょ。他人のご亭主のファンになってどうすんの」

「いいのよ、別に。何かの慾がある訳でもないし、実行力も無いし」

 麻子が横目をしたので、玲子がくすっと笑った。 


「あたしだったら、彼に一度くらい抱かれてもいいかな」

「ふふふ、ハグしてもらいなさい、譲さんに」

「恥ずかしいよね、お互いに。老残、老残。暗闇ならいいかも」

 麻子がとうとう大笑いした。そんなことも珍しい。


「じゃあ、どんな御馳走しておく? 今週はあたしの出費だけど眉子さんたちにも少し出させるの?」

「言わなくても出すわよ。眉子さん、ほんとはここに居着きたいのよ。最初のアイデアの頃からね」

 そのころの住人は、二人以外には聡子の三人だけなのだが、数日孫が泊まりにきていた。麻子の孫も来ていて、もちろんその経費は別会計である。


 車は駐車場代が高いので、流行りつつあるシェアカーにしていた。運転は玲子が主である。運転好きなのでみんなでドライブに行くことも多い。予約日の今日は羽田まで一走りだ。


******

 眉子に会うのは半年ぶりである。南条氏は歳に似合わぬスタスタした歩調で麻子たちの前に現れた。麻子は、ついに尊敬すべき人物に会えたので感激していた。


 その雰囲気は彼女の予想を裏切らなかった。両手の振り方がふと、麻子の父を思い出させた。そうなんだ、父のような包容力とは正反対の男に惚れがちだったと思う。外見でも何と無い魅力でも、セクシーさでも金でもない、真人間と出会った。


 眉子には、南条氏のちょっとした癖が気になるそうだった。貧乏揺すりとか歩き方、知的な話題に疎い、色の趣味など。変な食べ物が好きでも、そんなころは個性だからなあ、他の人間に対する大らかさ、信頼、騙されても期待に反しても、自分を変えることが出来る、そんな面は滅多にあるものじゃない。麻子はあくまでも寛容だった。夫に対してはできなかったことだ。


「若い頃は、愛してるか愛されてるか、そればかりで男をみてたじゃない」

 麻子があとで玲子に言うと、

「それはそうだけど、でもあたしはお見合いだったから、性格や家族関係やいろいろ重要視したわよ」

と、玲子が言う。そうか、それは恋愛結婚では意識して無視しちゃうんだなあ、そのつけが回って来る。

 信輔が自分を女として愛したかどうか、自信はなかった。最初はそれでもめた。そのうち病弱となった信輔が麻子を束縛するようになったとき、麻子には自由を願う気持ちしか無くなったのだった。愛云々はもう論外だった。


「そうして、人は人としてお互いに人間的価値を求めるようになるんだなあ、性別を問わなくなり基本に至る」


 ひとつき近く南条夫妻は老女ハウスに暮らして、やがて南条氏のみが帰った。別れたわけではなく、自由な決定だった。

 信輔も時には、しばらくこちらで過ごした。有子と別れたのではなく、双方気軽に好きなように過ごした。聡子たちもそうだった。信輔はもはや麻子を束縛などしない、柔らかな普通の人柄をとりもどした。

 譲は意外にも自由で面白い人物であることがわかった。おそらく彼にも新しい発見だったろう。畑仕事や釣りや、バイク旅行など楽しんでいた。

 麻子にも玲子にも女ばかりの暮らしの気軽さがよかったし、また誰かの夫が現れたときはそれはそれで、少し華やいだ。慕わしい気持ちになるのではなく、少し楽しく明るくなるのだ。


「さあ、できたよお」

 譲が得意のバーベキューの準備を済ませて、みんなをベランダに呼んだ。


 各自の部屋で好きなことをしていた人々が出てきて集まる。目下の予定住人が全員集まっているので,少々ごったがえしてきた。ベランダはそんなに広くないので、お皿と飲み物を手に、好き好きに偶然任せで居間にも居場所を作る。

 男性陣がこうまでそろうのは珍しい。それには三人が五月にそろって誕生日だという理由があった。玲子と眉子が古希となり、また南条氏が七十五歳となる。


 譲がサーモンとサバを焼き、玲子が野菜を取り合わせた。南条氏も肉の味付けなど堂に入ったものだ。

 それにしても、みな健康である。少々の薬は各自必要としているが概して良く食べ、良く眠る、良く散歩する。それはやはり仲間が居るからに違いない。一年に二、三回旅行できなければならないが、融通しあえるとみんな思っていた。

 この中で余り財政に余裕の無いのは、麻子と聡子たちだが、それぞれ役割があり異論は全く出ていない。


 麻子は住まいを提供し、かつ太極拳を全員に強制的にさせている。

 聡子はちょっとした医療関係者だし、それ以外にも記憶係でもある。

 玲子は料理、有子は相談役兼美化担当、気の合った女同士の役割は自由に決まるのだ。


 玲子は譲のそばに座る。聡子は信輔がみえる位置に座る。麻子は南条氏と話すのに余念がない。有子は眉子の相談を受けている。

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