第2章 「姥拾い」 第2節 3ー2
羽田空港で手荷物を受け取り、外に出ると四十年以上の年月を経た顔が双方から笑っていた。おおげさに騒ぐようなことは起こらず、静かに挨拶を交わした。聡子が譲を紹介し、麻子は初めまして、と言って。知らぬ人が見たら、お互いに友人のカップルは、あるいは感じの良い初老の男女であったろう。からくも人生を無難に乗り切って静かな生活にありついた男女と見えただろう。現にからくも生活は成り立っていた。
おそい昼食をそこでとり、バスで15分の高層マンションに落ち着いて、うわさの四方の窓をさすがに感嘆しながら眺めて回った。家具は余り無い。
リビングの高い天窓から、あらゆるものと繋がる予感が流れ込むような気がして、聡子の心は思わず舞い上がった。
「ねえ」
と、玲子が聡子に体をくっつけてきた。
玲子は、麻子が引っ越してからは、毎日のように喋ったり料理を運んだりできなくなったのだが、そのかわり泊まり込んでいくようになった。不定期ながら、次第にトータルな日数が増えていった。
麻子と聡子は娘時代、友情の始まった頃は、女同士数人で芋虫のようにくっついて動いて遊んだものだ。掛け値無しの親しさであったが、知り合ったばかりの玲子が同じようにくっついてくるので、聡子は驚いた。自分を即、受け入れて信頼している、人恋しさのようなものが感じられた。
「聡子さんの彼って、けっこういい歳の取り方をしているじゃない?」
「うちの? そう見える? 外面だけよ」
「そうかあ、そうかもね。外面だけの付き合いならいいのかなあ。夫婦だと結局甘えなのよ、それが深刻な不満になるのもしかたないしさあ」
「そうそう、甘えが深刻な言い争いにならざるを得ないという、そんな関係よね,夫婦って」
「どこか無理がある。あたしらみたいな程度の人間にとって結婚制度はね」
「玲子さんのご主人は四十代で亡くなったのですってね。それ以来自由なのはどんな感じ?」
「寂しい。けんかしたりイライラしたり、看病したりだったけど一人はイヤよお。息子一家はもう別家族だもの」
「ここに居着いたらば? 麻子さんは料理ヘタだから」
と、聡子は麻子を見た。麻子は苦笑いして頷いている。
「玲子さんってとてもお料理が好きなのね。おうちではさせてもらえないし、食べさせてもらってるという楽隠居なのに、残念ながら簡単料理ばかりなんだって」
「腕がなってる、ふふ」
「そう、腕がむずむずよ。それにもう居着いてるようなもの。ヨメさんもほっとしてるでしょう。うざったい姑がいないとね」
「代々、繰り返されるこの無理強い。玲子さんは娘さんもいるから、どちらの気持ちもわかって一層大変でしょうね」
そう言ってから、聡子はさり気なく尋ねた。
「で、信輔さんはどこにどうして?」
「ああ、あの人明日来るわよ、荷物を徐々に持っていってる」
麻子の返事には何の感情も無かった。
「来るってどこから」
聡子が少し胸を突かれた様子なのを感じて、麻子は付け加えた、感情無く。
「彼が幸せでいてくれたら、私は満足よ。一番いいことだわ。あ、東北新幹線でね」
その夜、麻子の賃貸マンションに玲子も泊まった。聡子夫婦の家庭内別居についてすでにおおよそ聞き知っていたせいか、玲子は余り遠慮せずに聡子の夫、譲に愛想を振りまいた。
意識してのことではないようだったが、好意が自然に溢れていたので、饒舌ではない譲が思いもかけず頬を紅潮させて自分の事を語った。
麻子と聡子は、時々笑い半分、いぶかしさ半分の視線を交わしては部屋の準備をした。玲子はすでに彼女の仕事の分担を果たしていたのだ。
麻子と聡子は同じ部屋に寝て、つもる話をした。
******
翌日になると、やはり信輔が戻って来るらしかった。
キッチンは狭いので二人がやっとなのだが、その分効率がよく食事が済むと同時に綺麗に片付いてしまい、麻子はすっかり満足している。自分がこれまで手際が悪かったのが不思議にも思えた。要するに信輔がもう少し協力してくれたら信頼を失うことは無かったのだろう。
双方が家事を好まなくても、分担したり協力すればきっとうまくいったのだろう。今更そんな解決方法がわかっても、もう遅すぎた。有子とはうまく手伝い合っているのかもしれない。そうなのだろう。
乾いたシーツにアイロンをかけている聡子の横で、すんだ分を畳みながら麻子がそうひとりごちていると、チャイムが鳴った。
有子の独特な歌うような声が聞こえた。やはり、一緒に来たのだ、と麻子が戸惑いを感じたのはやはり聡子の手前だった。まだそのことを言いそびれていた。
まず信輔がのっそりと入ってきた。すぐ後ろから小柄な有子が、美しい青い服を着て小粋に現れた。
麻子が紹介する。誰からどんな順番に、と戸惑いながら、手近にいた玲子に向かって言った。
「旧夫よ、信輔。こちらはね、玲子さん、顔は知ってるよね。そして彼のお相手が有子さん」
麻子は元気よく、何も感じない風に両手を広げて双方を差した。
「メールで情報はおおよそわかっているわよね。それから、ほら、久しぶりの聡子さんよ、あなた。こちらがご主人、譲さん」
聡子と譲は呆気にとられていたはずだが、すぐに事情が分かった、という風に世慣れた挨拶を交わした。
「あ、信輔さんって50年代に関西方面でお会いしたんじゃなかったでしょうか」
信輔は思い出せないような顔だったが、譲が詳しく話しだしたので、自然にソファーに座ってしまった。
聡子はお久しぶり、お変わりなく、と信輔に挨拶はしたものの、やはり衝撃を受けたようだった。そして有子が若々しく気軽に話しかけてきた時、話に聞いていたとおり日本人離れした雰囲気に圧倒されそうになった。しかし、向かい合って気候の違いなどについて話しだした時、有子が実はかなり歳上らしいことを思い出し、かつ確認出来た。
自分の方が若いことに自信をもったとか、そんな気持ちではなかった。
有子がかなり信輔より歳上だということが、何故か聡子を冷静にさせたのだった。
信輔が有子に保護されているということに安心した。つまり、聡子の人間愛が、昔日の初恋の名残の感情を上回ったということになる。そしてさらに、聡子自身がそれを感じて自分に満足したのであった。
麻子はいつものように、人の思惑を無視する性癖を大いに発揮して、聡子を詮索しようとしなかったが、そのうち自然にわかってくるはずだった。
信輔と譲は、どことなく気が合ったらしく、譲が聡子を置いてひとりで発って、知人を訪問するという時には、またこんな機会を持ちましょう、と握手していた。
玲子は隠しようも無く譲に親近感を抱いていて、帰りにまた寄ってくださいな、とこれまた握手していた。
麻子は、思いがけない展開に頭をふっていた。これから何かが起こるのだろうか、と思案してみた。有子のように行動力と責任能力はないだろうから、まあ気持ちだけの「恋?」と笑いがもれた。お気に入り、って言えばいいのかな、それくらいありうるよね、と自分に納得させた。
いつからか、老女の館、というような妄想ができつつあった麻子の頭に、男がうろうろするという可能性はなかったのだが、あまり困惑してもいなかった。今更、本気になることは考えられないし、万が一有子のように本気なら、一緒に暮らせばいい、それがダメになったらまた姥同士のこの暮らしに戻るのだ。
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