第2章 「姥拾い」 第2節 3−1


 藤村有子はとうとうオーストラリアから帰国した。夫の葬儀のあと、いつ終わるとも知れない手続きを終えて成田空港の到着ロビーに出た。半世紀以来の夢の国、ウェットな人間たちが細やかな心遣いを交わしながら、手探りするように近くに住み分けている故郷。


 まだ成田空港の中にいるときに、地震の揺れが始まった。いつまでも続く。これはまた母国からの激しい挨拶だなあ、と苦笑いして耐えた。

 岩手県の実家近辺に住む弟妹のところに、一時身を寄せてのち、今後の身の振り方を決めるつもりだ。一人息子のジェフは飛行機のアテンダントとして、日本にくる機会も多いのである。


 テレビの画面に、震源地福島沖、震度8、とテロップが流れたので、有子は驚いて連絡をとろうとした。勿論電話はつながらない。すべてが途絶したようだ。人々が走り回っていた。空港内のホテルをとっておいてよかった。しばしののち、つながらないと覚悟していた電話器から妹の声が聞こえた。岩手は大丈夫だったらしい。

「きいちゃん、じゃあ一晩して帰るから」

「だめよお、姉さん」

「え、」

「列車も飛行機も動けないって。とちゅうも道もめちゃくちゃだって。戻らないで。西日本方面に行ってなさいよ」

「そんなに?」

「どうも津波があったらしいよ」

「あ、そうかあ。福島っていえば原発があるよね」

「そこまでは何も聞いてないけど」


 翌日、籠っているかのように人々が群れている空港内のレストランで、相席になった老夫婦が自然に語りかけてきた。福島に旅行に行っていたという。有子も身を乗り出した。


「もう、ホテルの壁ががらがらと崩れるんですよ」

「ほんとにもう、命からがらここまで帰ってきました」

 口々に訴える。これから千葉県まで帰るそうだ。

「コスモ石油などが爆発したみたいですね」

「そうそう、うちの借家がその近くでねえ、ちょうど地震の日に借家人が入居ということになってたですがねえ」

「どうなったやら」

 老夫婦は顔を見合わせ、有子を見て茫然としていた。

 

 その後、福島地方の惨状が放映され、就中福島原発の恐ろしい様が映った。まさに天罰のように有子には見えた。拡散する放射性物質の程度はわからないながら、飛行機が関西に飛ぶようになると有子は成田を去った。

 ジェフが幼い頃、公園で子供連れの女性と知り合った。彼女は一年で日本に帰国したが、しっくりくる関係が築かれていた。当間麻子とは、帰省のたびに都合がつくと数時間でも顔を会わすのが楽しみだった。関西に住んでいるので会えるだろう、と思った。


******

 伊丹空港とつい今でも呼んでしまう大阪国際空港で、手頃なホテルをまず予約した。有子は旅慣れている。携帯も手に入れた。ただ、銀行からの引き出しには制限がかかっていた。まあ、毎日少しずつ落とせばいいんだから、と焦らぬところもある。


 やっと麻子に電話が繋がった。

「あらまあ、有子さ~ん。どうしたの、どこから?」

「大阪よ、今」

 麻子はそれを聞いて、妙に焦っていた。しどろもどろで、

「日本にいるの、今?」

と、当たり前なことを訊ねる。

「地震だったのよ、知ってる?」

「知ってる、成田で出くわした、それでこちらに逃げてきたの。東北には帰ろうとするなって妹たちが言うから」

あああ、と言葉にならぬ声を発している。近くで当間信輔の声が聞こえた。少し嬉しかった。


 麻子は、実は上の空で有子と話していた。家への道順を教えた。信輔の気分がすぐれなくなって、急いで買い物から帰ってきたところだ。

「ちょっとダンナが具合悪いから、近くに来たらさあ、電話して、道に出て立ってるからね」


 マンションのドアを開けると、あんなに雑然としていたのに美しいほどにからっぽの空間がある。すぐ左の寝室には、古い汚れたマットレスと捨てる予定の掛け布団が置いてある。何もない。

 いつも汚れていた廊下も掃除しておいたので、居間までの部分も居間そのものも床がすべて見えている。古い椅子が2脚、ストーブ、机代わりの段ボールがあり、書斎にもなにひとつない。

 三月末に引っ越しが終わる時に捨てるものばかりを使って暮らしている。


 有子が椅子のひとつに座り、三人で顔を見合わせて何となく笑い合った。有子は引っ越しのことを知らなかったので、勿論驚いていた。


 話は簡単である。信輔の肝臓が悪化の一途をたどり、ついに仕事を続けられなくなったので、息子の居る東京の近くで家賃の安い千葉県に移る決心をしたのだ。

「で、その荷物を運び込む日が、なんと」

「あの日だったんでしょ!」

 有子が瞳をくるくるさせて明るい声をあげた。笑い事ではない、とはわかっているがとりあえず笑うべき偶然だ。

「そうなのよ、同じ日に近いところに居たのよ、三人とも」

「それで逃げ帰ったの」

「そうだけど、もともとまたこちらで2週間ほど過ごさなくちゃならなくて。それそうと、貴女の方は?」


 半年以上もお互いに連絡する暇もなかったので、有子の別居中の夫が死んだと初めて聞いた麻子も信輔も、冗談半分、よかったあ、よかったねえ、と笑った。

 ジェフの父親ではあったが、金持ちの日本人有子にいわばたかって暮らし、そのくせ女癖が悪かった。

 ふと魅惑されて結婚したことを後悔しても、ジェフが成人するまではと有子は耐えた。男って問題だらけだわ、と老女二人が言った。信輔は澄まして黙っている。


 信輔にとらえどころのない魅力があるのはわかっている麻子だ。重々わかっているが、一方その日常的行動には憤懣やるかたない麻子だ。もっとも自分の不満は無い物ねだりであることも分かっている麻子だ。信輔は日本人の男の典型でもある。

 だから寡婦となって長い玲子さんや、この有子さんが信輔を必要以上に少し長く、つまり憧れの瞳で見るのはわかっている麻子だ。そしてよければどうぞ、と今では思っている。


******

 有子はその後、オーストラリアに戻り住まいを始末して、とうとう岩手の実家近くに落ち着いた。

 有子のただ一人の妹、絹子が突然意識を失ったのはそれからまた一年後のことだった。癌は悪化してはいなかったのに。

 数日の後、意識がもどったのだが、うつらうつらという状態が続いた。ある日、気分がいいわ、と眼をはっきり開けたそうだ。家族や親戚をひとりずつ呼んで、少し話をし有り難うと別れを告げたという。

「そ、それで、えっとその、亡くなったのね」

 有子の電話に、麻子が声を上げた。

「そう、次の朝には呼吸が次第に間遠になってね」

「そんなことってやっぱりあるのね、いわゆる大往生よねえ。すごいよ」

 麻子の声にはうらやましい、という響きが籠っていた。

「妹さんは何か打ち込むものがおありだったの」

「あの子は昔から俳句に夢中だったのよ。凄い多作でねえ、十分創作したんじゃない」


「そうかあ、私ね、最近思うんだけど、死ぬことが待ち遠しいということにならないかなって。つまり、苦しいから死にたい、という理由ではなくね、自分をむち打ちむち打ち、能力の限界へ挑戦する闘いのうちに、ああ、やっと力尽きて死ねる~~みたいにさ」

「ふ~ん、それは珍しい考えねえ。で、どんな能力を開発するの」

「私の場合、多種多芸が得意かな。広く浅くよね」

「それもいいわね。また詳しく話しましょ」


******

 麻子とそんな話を交わして、それからまた数年過ぎていた。完全に居を日本に移してからは、有子は一族の相談役的な立場になっていたので、麻子とは滅多に会えなかったが、家族を親身になって思いやることで、自分の幸福感をも得ているのは確かだった。長い海外放浪ののちの故国の味わいを得ていた。その時、有子は喜寿を過ぎ、麻子は古希を過ぎていた。


 「ちょっとお久しぶり。老いを知らない有子さん、ますますおしゃれに暮らしていることでしょうね。(麻子さんたら、その白髪の縞模様もいいけどちょっとわざとらしくない?)

 実は相談。和彦が(息子がどうした?)今のマンションを売って少し田舎に家を建てるっていうんだけど、十四階のマンションを私、使ういい計画を持っててね。勿論和彦には家賃を払ってだけど。(どんな計画? 麻子さんちょっと世間からずれているからなあ)

 計画はまた話すけど。問題は信輔なの。(今でもいい男かしら)


 いい加減、辛抱の限界でね、私。(異性装趣味ね、美しいでしょうに) 私があれこれ趣味を持つように、彼には何故だかそれが必要なんだって、あなたに言われて受け入れてきたけどさ、もうイヤだと言う感情を無視することできなくて。(さあ、きた。で、私にどうしろと?)助けて。なんとかして。(率直だわねえ。そりゃ私はむしろそんなのが趣味よ。昔からひそかに。それで信輔さんに惹かれるのかなあ)

 近く、二人で遊びに行っていい?

 そして、その際に有子さんがとても理解があり、彼を社会からかくまってくれることを信じさせてくれない?

(ふ~ん、彼の病からすると最後の旅になるわけだ)」


 麻子からのとんでもないメールに相づちを打ちながら、有子の決意はすっと豆腐からおからへと固まった。ふたりで遊べる、好きな布で素敵なデザインを手縫いして、男女関係なくただ美しいと思う格好をするって好きだ。


 信輔は老いた美しい人形のようだった。男でもなく女でもない、中性の美。しかし服を全部脱ぐと男だった。有子も中性的にみえても裸の体は女だった。双方の肉体的条件において出来る限りの性愛もありえた。その願いがあると、話は簡単に整理がついたのである。和彦はほとんど興味を示さず、いいんじゃない、その方向で、と言った。


 有子は、小さなマンションに信輔と引きこもった。家族に呼ばれると出て行くのみで、さまざまな布や小物、糸やミシンにあふれた生活を始めた。もともとデザインが本職だった有子は、その歳で再び中性的でありながら、どちらにでも移動出来る新しいコンセプトを創発したのである。信輔にも寄与出来る才能があることがわかった。


******

「遊びにおいでよ、聡ちゃん。いいよ~。最上階だから、天窓があるのよ。そこに一軒だけだから四方に窓があってね、戸建て感覚よ。眺めがとてつもなくいい。西には富士、北には東京タワーにスカイツリー、南のはるかに海だよ~。ご主人は自炊出来るし、第一ご実家があるのよね。いつまでもいいよ。孫の世話以外自由でしょ」

 聡子はその招待に逆らえないと思った。

 

 聡子の決して消えない記憶の中で、初恋はやはり輝いている。信輔に会えるという希望が心を高ぶらせた。よくあることだし、と聡子は自分に言い聞かせる。

「なんだよ、俺だって暇だから一緒に行くよ」


 聡子は夫の譲の顔を見上げた。

「二人で泊まったら迷惑でしょうに」

「まあそうだね、俺はじゃあ一晩くらいお世話になってあとは好きにするよ」

 信輔に次いで好きなタイプ、好きな性格だったのだが、こんなあっさりしたところもつき合いやすかったのだが、ひとつの欠点が強力すぎた。


 麻子はそれを聞いてむしろ嬉しげな声を出した。

「譲さんって、この前の写真でみたけどちょっとした、なんというかインテリ風でかっこいいよね。信輔は今はここに居ないんだけど、貴女が来るのなら帰ってくるんじゃない」


「別居なの、本当に敢行したの」

「まあね、その話はまた会ってから」

 聡子は複雑な気持ちになって、鏡台に座っていた。鏡の中にはかくしようもない年齢がみられる。麻子の写真にも、頬の線がくずれまぶたが落ちているのがありありと見えていた。

 今は今、と聡子らしく思い切った。


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