第2章 「姥拾い」 第1節 3ー3

 戦後二十年経たころ、山村聡子は大学生で薬学部に所属していた。やたらと成績がよく、かつ自分の思い通りに自分を律していくことが出来た。色白で細面の優しい顔立ち、美しい頭の形をしていた。

 合理的でありながら、一方では無邪気な世話好きなところがあり、その取り合わせが面白い。今、古希を前にしている聡子の人生で、二度だけ自分の感情に翻弄されたことがあった。


 上級生の、野暮なのかスマートなのかよくわからない変人の当間信輔に恋情を抱いてしまったのである。これには参った。聡子の勉強計画がはかどらなくなった。初めての恋だった。しかし友人以上の関係にはならず、それどころか、文学部生の上田麻子によこどりされてしまった。


 しかし失恋はありがちなものだ、とそのうちに思い直した。そして夫となる人に巡り会い、順調に女の道を歩んでいくはずだった。聡子には障害物があっても克服出来るという自信と、実際その能力もそなわっていた。

 辛うじて適齢期に、聡子は恋愛結婚をした。すべて条件も整っている男だった。子供も生まれたが、薬局で働くのは続けた。ひとつ思いもかけない展開があった。


 世に言う嫁姑関係がすぐに破綻したのである。聡子はけっこうこの制度に従順に対応するつもりでいた。それが困難を避ける方法だとわかっていたからだ。

 ところが、それは姑と夫との問題であった。夫は母親に弱かったのだ。自分がなにか姑に敵対する言動をとったともわからぬうちに、あるいは夫との関係でいつのまにか聡子が排除されることになっていて、聡子ひとりが否定さるべき人物になっていた。


 聡子自身が体験した母子関係が非常にクールな自立的なものであったゆえに、聡子の合理的な頭にはどうしても浮かばない情動がそこを支配していたのだろうか。今となればそこの兼ね合いは見通せるものとなったが、その時には聡子の心臓と胃がストレスから虚弱になってしまっていた。


 落胆はあっても、男としての夫に未練は残っていたが、聡子はいわゆる家庭内別居を受け入れざるを得なかった。もっとも孫が増えるごとに、夫婦で対処する必要が次第に多くなってきたので、対話がないという関係ではないのだが。


******

「聡子さん、九州はもう暖かいようね。図書館ボランティアや植物研究会の観察旅行など、多忙でしょうね。こちらおとといからの腹痛が憩室炎だとわかってね、イヤになっちゃう。健康には気をつけてるのに~~」 


 云々とメールを書いてきたのは、若かりし頃、男を取り合った旧姓上田、当間麻子である。ここ三年ほど急接近となった。同窓会のリストを手にして、双方ともにコンタクトを切に欲したからであった。

 当間信輔の若い頃の、実に魅力的ないくつかの表情は今でも聡子の心に大切なポスターのように飾られている。切ない恋心は、もう思い出せないがそれも自分の大事な核心であることはわかっている。

 一方、麻子の言葉の端々には、夫への失望がかいまみえた。大人物然とした夫はそこそこ出世して定年退職、浮気などもなく、三人の男児はそこそこの出来だったし、不満があるはずがないような結婚生活、と見えた。

 

「わたしって、かごの鳥。空の巣なのに、家に閉じ込められてるから。今はね、彼が病身だからなおさらだけど、昔からよ。私に許される活動は主婦と育児、家事だけだった。今はなおさらよ、どこに用事で行くにもたえず携帯でチェックされて」


 意外な関係になっていたらしい。元々、なにかプロになって社会で認められることが麻子の目標だった。それを実現しようとして飛び出しそうであったのが、夫側の不安というか嫌疑の動機であったのかもしれない、と聡子は思う。

 麻子はますます反発を強め、さらにはフェミニズムに染まって、自らの「とらわれの」環境の中で悶々とする度合いが強くなっていった。家事をすることさえ厭わしくなり、散らかすだけの夫への軽蔑と怒りが増した。

 爆発しそうなそんな気持ちは持ちながら、世代的なものが麻子の言動を外見的には、「普通の」無職の主婦という姿に抑えていた。


「姑とは、いい関係よ、こんな私でも。そもそも大人物なのよ、おかあさんて。人間として昔から好きだったわ。私はフェミニストだけど、彼女と一緒にあれこれするのが人付き合いとして純粋に好きだった、墓参りでも墓掃除でも。こちらの言うこともよく耳を傾けてくれた。私の新しさも珍しいって、笑っていてくれた」


 おかしなものだ、と聡子は首を傾げた。嫁姑も人間の好き嫌いに左右されるのか。そうか、その選択の自由がなくて、押し付けられる関係だからイヤだ、という風に感じるのだろう。


 聡子にしてみれば、姑が、孫である一人息子の栄西を溺愛して聡子からまさに奪おうとしたことが、一貫した憎悪の応酬を引き起こした最初の一石であった。幼児が最初にママと言葉を発した時、姑のサトの嫉妬は、隠そうにも隠せないほど異常だった。十分に孫の機嫌を取り、印象づけるよう努力し、ばあちゃん、といつも繰り返して笑いかけていたのに、負けたとでも思うらしかった。その背後には、息子を奪った嫁、という構図があったのだろう。姑が近づくと聡子の心臓は、バクバクと鳴り、恐怖に襲われた。


 聡子が夫にそれとなく伝える、すると彼は気にし過ぎだよ、お袋は可愛がってくれてるんだからそんな意地悪を言うなよ、と聡子を非難した。


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