第2章 「姥拾い」 第1節 3−2
とりあえずは、老年文学だろう、我々にとって熱い恋愛物語なんぞもうしゃらくさい。ホルモンが無くなったりイーディーになったりし始めた人々にとって恋愛はいずれにしろ現実的ではなく、幻である。第一、恋愛がなにであるかはすでに迷妄無く理解しているじゃないか、と麻子は思うのだ。
社会的バイアスがかかっていることが最も気に喰わないところだが、元々生物イコール生殖といっていいようなものだから、恋愛を否定はしない。自分でも抗いがたい憧れと衝動を抑えられなかった。たとえバイアスがかかっていても。そしてバイアスがかかるのが人間社会なのだから。それが結婚という制度を準備しているわけだから。生殖は隠されつつ、かつ賛美される、奨励される、抑圧される。社会の鋳型にはめられる。
いくらそうなじっても、ただの生殖行為であるよりは、つまり味がいいように、ますます喜んで生殖に励むようにと、ひとつの文明揚げてそこへ突っ走る。それこそが生物であれば、改めて人間の恋愛の根源的な重要性を否定したり嫌悪したりしてもまったく真理とはほど遠いだろう。
おまけにその根源から、文化も生まれる。無限に尽きせぬ恋愛の喜びと悲劇が語られ、歌われる。そして、抑えることの出来ない妄想、熱情、憧憬から逃れることも出来ない。さかりのついた猫だ。本質的に。ただ人間は四六時中さかりがついている。そうは見せないが。
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還暦になると、やがてその騒動も終わる。ホルモンが失われ、体中が乾燥し、孫だけが可愛いものになる。
妄想もチャンチャラ可笑しいし、(まあ少しはしてもいいが)、それぞれの人生の総計算をはじくべき時がくる。
何と言う!? もし閻魔大王が訊ねたとして、「お前の一生はどう評価しているのか」と。
そりゃ、慌てる。とくに急死した場合はね。
おいら、死んだんのかい? ええっ、みんなそのままだよ、片付けてない、そのままだよ。うわぁ、参ったなあ。
「そこなお前、某。履歴書を書け。次、次の輩」
赤鬼に小突かれて、手にいつの間にか握っていた紙を見る。
確定申告の用紙、という印象だった。履歴書申告と銘打ってある。
驚いたことに最初の欄には、どうもおいらの祖先の名が延々と連なって書いてあるではないか。へえ、こんなもの生きているうちに見たかったなあ。
親の親の親という世代では1、2、3、4、と16人の人名に増えている。おお~~ どこまで行くんだろう。確かにあるところで途切れちゃいないはずだよな。途切れていたらおいら、居ないからなあ。いや、居なかったはずだから。うぉ、彼方は霞んで見えにくいぞ。
お、息子や孫も書いてあるぞ。なるほど、ここからは八の字に広がって行くんだな。なるほどぉ、もし孫が独身で死んだらこの書類は終わりだ。う~ん、でもなあ、おいらには姉がいるんだ。あいつらとはまあおおざっぱに言えば同人物だからな、一卵性双生児じゃなくとも、同じ親がこさえたんだから。。 兄弟だと名字は同じだしな。。ま、それは浮き世のことか。
そう、上田東平 読みはうえだとうへい。生年1949年3月25日、享年六二歳、2011年
8月15日。へ、そうだったのか。終戦記念日とはね。11日に入院したまでは覚えてるが。
それで、老眼鏡がない。しかしまあ見えるぞ。ところでおいらどうして死んじまったんだろうか。おお、読めるぞ。脳梗塞か、ありがちだな。癌じゃなかったのか。そうだったら知ってるよな。徐々にいかれるからな。
お、待ってくれ。もうなにか書かれているぞ。事実。だと。血液型A、そうだな。縄文と弥生の比率は六対四。顔を見るとそんなところだろうとは思っていたが。出生地は鹿児島市と。
へ~、お袋が単身嫁入ってきたことも知ってるのか。時代の波とは言え、なあ、みんな大変だったろ、見合いですらないんだから。親父は将校だった。貧しくも頑健、優秀でまじめな男には士官学校が正しい選択だったとかなあ、聞いたよ。しかし本当は学問や音楽が好きだったという話もなあ。ちょっと腰を下ろしてゆっくり読んでも良いのかな。赤鬼さん、いやあ、実にでかいな、おいらの倍はあるぜ。
赤鬼さん、あれ、いつの間に青鬼さんになったの? 眼が金色だねえ! あのですね、おいらから付け加えると、親父はまんまとソ連の捕虜になりシベリア抑留四年、しかしうまく帰国出来たんだね。余り話したがらなかったが、墓堀や伐採や労働させられたと。肉は配給があったが、キャベツ丸ごと、あるいは川に生息していた大きな貝も丸ごと、バケツに水を入れて炊いて食べたと。着た切り雀なので帰国することになった時には、軍服がすり切れて襤褸同然だったところ、となりの収容所に居たドイツ人捕虜がドイツの軍服をくれたと。おそらくそこで死んだ仲間のものかね。そんなことぐらいだった。
そんな話を聞くとねえ、いざ戦争になったらイヤとは言えないじゃない、それが恐怖だよねえ。イヤでも赤紙が来て万歳で送られて、イヤでも死ぬはめになる。病死も多かったんだぜ。なのに、世界大戦がないと思えば、各国で内戦だ。しかもますます増えていく。国同士の戦いがないのはよくても、内戦というのもご免だぜ。
日本に余り強烈な宗教がなくなったのはいいことだよ。それが言い訳とみんなの戦う気のバックポーンになるからね。全く、いい加減にしろや、人間。
閻魔大王さんもうんざりだろね。
さて、と。ずーっと読むのかい?
学歴はたいしたことない。中の中ってとこかな。
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あ、と麻子は我に返った。
もう妄想とは縁が無くなったと思っていたが、性愛ではなく地獄の妄想になら入れ込んでしまっていたようだ。姉である麻子より先に無くなった弟の身の上と混同してさえいる。
四十にして惑わず、と古の哲人は言った。麻子はもう古希を目の前にしている。惑わず、どころではない。
経済新聞関係の仕事のキャリアも中途半端で逃げるようにして終えて、とりあえずは食うに困らぬだけはある。衣食住のいいものねだりも卒業したと思っている。できるだけ買い足さない。これまで使っていた衣服を着つぶす、死ぬまで。
この前まで、美しい器など好きだった。しかるべくしかるべき器を使って美しく整えた環境を夢見た。その夢ももう消えた。ありあわせのもので、何も気を遣わず、たとえばきれいな発泡プラスチックの容器でも数回はつかえる。それから捨てるのはもったいなくない。
食事は栄養素で考える、タンパク質と野菜、それに炭水化物少々とする。元来肥りやすく、血管の硬化も血圧の上昇も始まっているのでその対策に過ぎない。
住まいは、ほとんど一部屋と水回りだけあればいいのだ。ベッドと納戸がひとかたまり、卓は食事用と書斎机、辞書とバソコン、小説も読まない、詩は読む。音楽は何でも聴く、気に入れば。若い頃好まなかったものも好きになった。ビートルズ、プレスリー、ロック。演歌はだめだ。気分が滅入ってくる。
学生の頃、花を美しいと何故思うのか、疑問に思った。いまでも実は疑問だ。疑問なまま、好きな花をメモ帳に(紙ではなく、アイフォンのメモに)書き並べている。そこに書いてないものは、すでに持っている。部屋の入り口にはモンテステラとテーブル椰子、薄緑色のポトスは部屋のかもいめぐりを這い回してある。実に麗しい強い生物だ。
生物と言えば、実在してはいないのだが、麻子の心の中にはいつも猫が棲んでいる。それは野生と人工の、自然と人間の融和の象徴である。
このように生活をスリム化している麻子だが、そこには心理的に困った事態も付随している。麻子は自称、素人詩人であり、真理追究者である。後者たるには自身の努力は無用であって、世界に天才たちの研鑽と協力を待つしかない。
しかし、主婦でも何者でもなく、生活者でない、美の賛美者ではあっても美的な生活から逃げようとしている麻子には、しだいに周囲に美が見られなくなってくるのも必然だ。
いわゆる神社仏閣、景勝の地、美術、たしかに人類の財産ではあるが、必然的に権力者の周囲に生じたものがほとんどであるというのが、つねに気に喰わなかった。鑑賞者としてもしたがって、心底惚れ込むことも無い訳だ。自然のたたずまいのみはかろうじて麻子の美である。
詩人として、美の無い世界に住むのも難儀がことだ。美をたたえるばかりが詩の役割ではないだろうが、なんとなく心が沸き立たない。心に感動が生じなくなる。吾から高揚して書けないのは詩人として苦痛である。
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「まあねえ、詩を書こうなんて思わなきゃいいのよ。馬鹿ねえ、自ら苦しんで」
玲子さんが縁側に腰掛け、ふとももをぱたぱたはたきながら笑う。
「本を読んでりゃいいじゃない、借りてきてさ。面白いわよ、けっこう」
「でしょうにねえ」
「なにその言い方。才能があるなんて思ってる訳? 一冊でも本が出せた訳?」
その遠慮なさに、麻子は一言も無い。
「多分、才能無い。あったらもう世に出てるよね。あ~ 違うよ。世に出るつもりでもないのよ、書いたらそれでいい、というか、白状する、10冊くらいの自前の綴じ本にまとめたいんだもの」
「そう、それじゃできるじゃない。自費出版なんてするわけじゃなければ。このご時世だもの、紙なり電子本なりねえ」
麻子を旅行に誘いにきた玲子さんは、ああ、バカらしかったといいながら腰を上げた。
「じゃ、蕗の煮付け出来上がったらもってきてあげるから」
「ありがとうね、ほんと助かるわ」
小竹玲子は古希を迎えたばかりだが、友人の麻子より自分の方が皮膚に張りがあるのは長年ヘチマ水をつかっているからだと信じている。安価で手軽、はやりのBBクリームなるものは使っている。眉を美しく引き、ぱっちりした瞳を鏡にみとめて、ま、ちっこいけどまだいけるんじゃない? と自分ににっとしてみせる。
麻子さんも、と彼女の頭を思い浮かべながら、染めるくらいしたらいいのにねえ。眉も会うたびに左右が違ってるし、と考えてぷっと吹き出した。彼女の息子が顔を見る否や、お。母さん、どうしたんや、眉を二本かいて!と言ったって。それにくらべたら自分の鏡の中の笑い顔もなかなか可愛いと思う。
「お母さん!」
と、嫁のかすみの声が思い出された。
「洗濯もの、取り込まないでって言ったでしょ!」
「あ、ごめんね、でも風がひどすぎたもんだから」
「それから、朝みどりが学校へいくとき、わざわざ見送りに顔を出さないでくださいね!」
「それくらい」
「イヤなんです!」
自分が完全に姿を消していなければならない。さもなければ嫁の方が実家で日中過ごす。家事に手をだされるのを極端にいやがるので、玲子もすることがない。一部屋の掃除と自分の洗濯物をたたむこと。
たしかに、騒動はあった。
玲子の夫は、子供三人がこれからそれぞれ進学,という時に癌で亡くなった。玲子が自宅でモルヒネを与えながら看取ったのだ。
そのときまで会社の社宅に住んでいたので、早速住むところが必要になった。玲子は思い切って中古の家を買い、事務員の仕事をしながら払い続けた。進学、結婚とたえず出費はあったが、夫の実家から何の援助も受けなかった。というより援助しないと言われたのだ。年上の小姑たちだった。
そして完済。小さな庭に実のなる樹をいくつか植えて玲子は老後を考えていた。すると一人息子が結婚した。そしてここに家を建て替える、僕らが払うから、お母ちゃんは日当りの良い大きなひと部屋に住んでくれ、と言い出した。自分の家だと思っていたのに、突然間借り人になってしまった。
おまけに息子が遊んで作った借金を、保険を解約して充当するはめにもなり、玲子の神経はぼろぼろになった。余りの怒りのため、突然眼底出血を起こしたこともあった。
結果は、何故かは玲子にはわからないが、嫁に嫌われる同居生活となった。姑という存在がそもそも新婚家庭には邪魔なのかもしれない。触れ合わないように、避け合って過ごす。読書に没頭するのが楽しみだ。
娘ふたりとはよく話し合える仲だ。しかし二人とも姑と住んでいるのでそれぞれがそれなりの苦労を抱えていた。
「あ~あ、な~んなんだろ。姑と住まないで実母と住むことにすりゃいいのに。ばかみたい」
玲子は散歩の山道で見つけたわずかの蕗を、嫁が居ないまにさっと料理しようと思っていた。料理が大好きな玲子だったのだ。しかし痕跡は残さないように。
蕗の匂いをしばらく換気扇で消してから、玲子はまた麻子宅まで車を走らせた。彼女の寝たり起きたりの夫、当間信輔の車のうしろに、道路に少しはみ出して駐車した。
あたしったらこれじゃ、一緒に住んでるも同然だよね、と呟く。
******
「例の彼女、新婚生活はうまくいってるって?」
「え? ああ、あの友達?」
「いかないわよ」と麻子が眉をひそめる。
その人物は眉子というのだが、シングルマザーで一人息子を育て上げたのだが、玲子の嫁と彼女の嫁とが、どことなく反応が似ているようだと麻子が言うのだった。眉子の嫁のほうがもっと徹底しているだろう。姑が嫌いというより無関心、無関心と言えばまだ人聞きがいいが、眉子は完全に無視されているのだ。シャットアウトだ。そこまでできるのは、しかもしれっとして無視するのは、少し脳の構造が変わっているに違いない。社会化がまったく欠けている。
玲子と違い、眉子は隣の違う家に暮らしている。しかしそうすると、寂しさが半端なくて、それこそ蕗の煮物などつい持っていってやる。すると何の挨拶もお返しも無い、わかっているけれども腹が立って息子に言いつける。遠回しに。しかし息子はすぐに理解して母親を怒鳴りつける。どこかへ行ってくれと何度も言われた。俺たちだけだと何の問題も無いのに、と。いやそのはずがない、と母親は確信している、息子も嫁の冷血漢的態度に参っているはずだと。
姥たちの問題は当然生活費だ。玲子さんはかろうじてひとりで食べていけるかもしれない。元気な間は。
一方眉子さんの場合、一緒に暮らすよう設計されて息子が建てた家に、結局、眉子さん自身が入っていく神経がなかった。それでとなりに家を借り、生活費を一部息子からもらい、少しの公的年金で非常につましく生きていた。生活保護を受けるのと変わらない。
大事な息子の家族と仲良く、助け合って笑ってくらしたい、眉子さんはそう言って泣くのだが、嫁の態度には太刀打ち出来なくて、良さそうな人物と逃げるようにして再婚したのであった。これまで何故か男運のなかった眉子さんにやっと天からお返しが来たような、彼女の希望を全て受け入れるという信じられないような老爺がそこらに居たのである。
「願ったり叶ったりの再婚だったのに?」
「それがねえ、けっこう難しいみたいよ」
「少なくとも生活はできてるんでしょ」
「そう、それが一番肝心なところ。でもねえ、七十年知らなかった人と一緒に暮らせる? なにもかも異なるのよ」
「ふうむ、私だって長年ひとりだけど、主人が生きてたらこんな目にはあわないと思うんだけど、いまさらねえ。恋に燃えるエネルギーも無いし」
玲子さんは、まるで菩薩のそれのように円弧を描いた眉の下の、ぱっちりとした眼を細くして笑い顔をつくった。
麻子には目の前にある玲子さんの顔は、勿論古希の女性の顔だったが、本来の美点はそこここに残っていると思われるのだ。若い頃の顔を知らないだけに、現在の顔の中にそれなりの美醜が見分けられた。
「いつも言うけどさあ、玲子さんの頬とかシワが目立たないのね、ホント。私、今あなたのお手入れ法を模倣中だから」
玲子さんは、そう言われて無言で手を振ったが、嬉しそうだった。車に乗った彼女に麻子は声をかけた。
「お嫁さんとけんかにならないよううまくあしらってね、今夜も」
玲子さんは了解、というように手をきっと揚げた。
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