第1章 「小夜子の憂き世」 後篇
七
「お宅って本当に火の車とは思えないよね」
「ふふ、だから全部タダ同然のセコハンだって言ってるでしょ」
新春の頃、明美が訪ねてきてその庭も見栄えもほどの良い貸家の、とりわけ家具やしつらえを見回して驚いて言ったのだ。
これも田川小夜子の才能の一つである。
あれから、しばらく田川の家に同居するうちに、小夜子の咳が止まらなくなった。ある夜、堰が切れたように小夜子は田川をののしり始めた。喉から血が出るほどに怒号した。そのまま咳となりのたうちまわるほど苦しんだが、田川は立ちすくんだように突っ立ったままであった。
翌日、だますつもりは毛頭なかった、と田川が弱気になった時、別居すること、それにかかる出費と、および月々生活費七万円を払うこと、と二人は念書を交わした。
部落の子供数人の家庭教師、近所のやもめの老人宅の片付けという収入があり、息子から三万円の当座だけという援助があった。これが続けば、ということは、小夜子の健康が許す限りは、ということだが、生活保護に陥らなくて済む。
明美はそれを聞いて、ちょうどよかったというように、実は夫が帰国するという計画になったのよ、と言った。
ところがしかし、三ヶ月もすると、まず息子の援助が途切れた。彼も仕事が上手くいかないのだ。やもめ暮らしの老人が小夜子にセクハラをするようになって行くのを止めた。
そして梅雨の頃、田川が離婚届用紙を持ってきたのであった。副収入がなくなったという。
あと十年は生活費を払って欲しい小夜子は、彼の意図のきっと不穏なものであることを思い、怒りとショックで倒れそうだった。
いつもどこかに母が居るように感じている小夜子だったが、現世では、どこにも頼る存在がない自分をどう扱っていいかわからなくなった。
死ぬこと自体は恐ろしくない、死の世界は覗いたことがあり、それは解放と浄らかさを意味していた。
冥界の母に向かって窮状を訴える小夜子の叫びは、一歩間違えば実行されるかもしれない行為を含んでいた。ただ、唯一の心残りの上の孫、海斗の人生と心に汚点をつけたくなかった。
八
小谷病院の副院長篤彦の体調は、早期に発見され、ありうる限りの手を尽くしても放射線治療が避けられなくなってきていた。診療を続けることはそのうちできなくなる。
父親の院長篤志は、この古めかしい郡上八幡市にこれまで多少なりとも貢献してきた医者一家であることを誇りに思っていたし、それはさらに子孫にも引き継がれていくはずであった。自身もそして息子も一人っ子であることが、今ほど残念に思われたことはない。
書棚を眺めていると、市の変革や市政の移り変わりをまとめた冊子が、いつか贈られたのであろう、いくつか目に付いた。
「は、」
と、篤志は声を出した。試しにやってみても良いではないか。
京都府綾部市のこんな市政史、郷土史などを見てみよう、運が良ければ佐藤克男に触れられているかもしれない。もちろんいわゆる興信所を使う手もあったが、そこまでするほどの期待がなかった。
電話でなんとかすむのか、誰かを送らねばならないのか、まず電話をかけて様子を見るべし、となった。
「個人宛にお送りするほど部数がございません」
と、電話で言われて、篤志の孫達、新米の兄弟医者が僕らで一っ走りドライブがてら言っても良いよ、今度は揃って乗り気になった。彼らにしても頼りの親父に何かあったら一大事なのである。大した距離ではない。
「綾部市なんて来ることになろうとは、思いもしなかったよなあ」
「人生、何が待っているかわからんものだ。ええと、図書館かな、ゆっくり見ることができるだろう」
終戦前後あたりの冊子を周囲に積み上げて、さ、やるぞ、気合いを入れろ、と得意の集中力で読み込み始めた。
歴史的な記述も結構興味深かった。明智光秀が尊ばれている様子が残っているのを、歴史担当の整形外科医の弟は珍しげに読んだ。
佐藤という苗字はあちこちに出てくるが、とりあえずは不明である。
そのうちにある佐藤一族が目立ってきた。何か人手が入用になった時、開墾、護岸工事、天災の補修などに働く人を派遣する役割、いわゆる人買い、俠客のような位置にある家だ。その三代目らしい、「克男」についにぶつかったのである。
ここで、もし戸籍を見ることができれば、サワの子供がいつ生まれたのかがわかるのだが、現在の法律では親族以外がそれを見ることは不可能だった。
「僕らがヤクザならなあ、賄賂か恐喝かだけど」「アホか」「生存確認だけでもできないかな」「そうだなあ。そうか、佐藤家の出身地らしい、この勝俣という地域に行ってみよう。知っている人がいるかも」
地域には町内会長という存在がある。市役所で確認し、タクシーで直行した。佐藤克男という名前はもちろん知られていた。顔を見せたのは相当の年齢らしい人物で、豊かな暮らしを偲ばせる風雅な様子をしている。
意外にも、木下サワが子持ちの花嫁であったことを覚えていた。兄弟の医者が隠すことなく、切羽詰まった事情であることを話すと、そうかもしれませぬなあ、と腕を組んだ。
「女の子で、確か、結婚式にはもう生まれて日が経っているような赤ん坊だった、そうです。噂ではですなあ、そりゃ、花嫁は別嬪さんだったから一も二もなく実子にして、名前をつけたとかですよ」
血縁である可能性もある。しかし、たとえ見つかっても、DNA検査だなあと二人とも思った。他の親族はもう残っていないようなので、克男夫婦も亡くなったとすると、あとは、、と考えていた兄の典亮が、「他に兄弟姉妹は?」と慌てて尋ねた。
「ああ、私どもが知っている限りでは確か弟がいました。ええ、名前はねえ、どうやったかいな二人とも、人に聞いてみませんと」
わかりさえすればまずは、ネット検索だ。
夜になって、電話をもらった。なんと娘とその弟の名前が分かった。町内会長の末娘が同じ学校だったのだ。
「なるほど、なるほど、佐藤小夜子、克史」と兄弟は我が意を得たりと笑い合った。
九
佐藤克史は、月に一度姉からメールをもらう。日本とタイとに分かれて生存確認する。姉の小夜子より五歳若いのだが、還暦を過ぎてなお、仕事も健康もタイで模索しているところである。
息子の誠が間も無くインターンに入り、医者になることだけが彼を頑張らせていた。
父親は違うが、自分たち姉弟がどちらも才覚がありながらそれを生かし、社会に役立てられないことを口惜しく思うのだ。小夜子の窮状には言う言葉もなく、援助などできるはずもなかった。お互いに自分の窮状を率直に伝えないように配慮さえしていた。
何と返信しようか、考えあぐねていると、息子の誠からメールが入った。幾つかインターンの地方受け入れ先病院がある由、それらの名前を書き送ってきて、父親の意見を聞きたいらしい。彼は外科志望である。
「郡上八幡、小谷病院、、、」
そこにしろ、と書いてから、しばらく考えて実は、と理由を書き添えた。
小夜子はどうしても敢えてできなかった。母のサワの遺言でもあったからだが、小夜子らしい意地もあった。惨めになるだけだ、潔く消えた方がましだ、と言い聞かせて人生を過ごした。それを知っているので克史も手を打たなかった。相手方との金銭的な取引があったとしても、佐藤克男への恩義が母にあったとしても、それで済む問題ではないはずだった。
見えない運命の手が導いているように思えた。タイに居ると、肩の力が抜けてくる。心を柔らかくして無にして、エネルギーの流れを受け入れる用意ができる。
十
佐藤小夜子、という名前が分かった。小谷兄弟は意気揚々と帰宅した。しかも噂からすると佐藤克男の実子ではない。
綾部市で検索するほかない、ネットの情報がゼロなのは、姓が変わった可能性が大だった。佐藤つながりで、佐藤智という教諭の写真が見つかった時、兄弟は顔を見合わせた。
誰かに似ている、祖父の大きな目が思い浮かんだ。高校に電話してみると、該当者はいない、という。
京都府まで広げると、意外にも佐藤小夜子が出てきた。同人誌新人賞、講演会のパネラーなどだが、いずれも古い、タイトルだけの情報である。
彼女の弟の佐藤克史に至っては、日本にいる気配すら見つからない。
個人情報にたどり着くのは難しい。小夜子はなんという姓になったのか。
「待てよ、息子が、もしこの智さんが息子だとして、佐藤姓だということは多分彼女も旧姓のままだということだ。ただ、その後また姓が変わったのかもしれない」
探偵でもない限り、関係者に聞いて回ることはできない相談だった。ついに興信所が必要になるのか。
小谷一家は、とりつかれたように佐藤佐藤と頭の中で言い続けた。
そのせいで、研修医が配置されるという書類の中に、希望していた外科のインターンの名前を見たとき、「佐藤」はすぐに目に飛び込んだ。
書類には、生地、綾部市、父親は佐藤克史とある。ついに向こうから情報がやってきたのだ。つまり、このインターンとは血の繋がりはないのだが、ここからは芋づる式に辿れるはずであった。
小谷家三代、リビングに円座して、思いもかけず故小谷篤から差し出された一縷の希望に、みんなが心を託して静かに顔を見合わせた。
十一
野分が吹き荒れて、庭にかなり被害が出た頃、田川小夜子は佐藤小夜子に戻り、田川からもらった少しの賠償金で当座をしのぎ、生活保護の申請に向かう事態になっていた。
こんなことになってもちろん気落ちしていたが、小夜子にはどこかネアカな所がある。人生の最初は両親に愛されて、大事に育てられたからだと思っている。死ぬまでの日々を自分なりに生きていくほかない、誰の助けも借りなかった、ちゃんとして生きてきたでしょ、と小夜子は天を仰ぐ。
青空を、星屑を、山のざわめきを、遠海の潮鳴りを、しみじみと感得すると、心身がそこへとけ入るようないつもの気持ちだ。
大丈夫だよ、と大きな声が木霊のように返ってきたような気がした。孤独や不安、怒りと恨み、失望と絶望、小夜子の体験した苦悩は、野に立つ彼女の傍をさわさわと通り過ぎて行き、唯一彼女のものである愛する気持ちだけがしっかりと全身に満ちた。
「この愛は誰にも邪魔させない。智とその子たち、君たちを愛するという自由が私の本質なのだから」
郵便受けに分厚い手紙があった。
そこには小谷一家の、亡父小谷篤の、異母兄小谷篤志の、甥の小谷篤彦の、その若い息子たちのどうか助けて、という声が詰まっていた。
小夜子、智、海斗、和樹、瑠璃の四人の血族が控えていた。
了
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