第1章 「小夜子の憂き世」 中篇

    四


 小谷病院の院長篤志は、市の医師会報に病院の沿革を載せることになり、仏壇の引き出しに保管してある古い手帳をあらためてめくっていた。父の小谷篤、祖父の小谷典篤が愛用していたものが何冊も入っている。

 父親の手帳には、仕事の予定の一杯に書き込んである中に時折、アルファベット一文字が丸で囲まれて散在している。それが朱色なので、これかあ、と篤志は苦笑いを浮かべていた。


 これまで気にかけたこともなかったのだが。彼の誕生の後にもアルファベットがあった。不倫だ。

 Sという。頻繁に会ったらしい。半年ほどでSの文字が消えると、しばらく誰とも不倫しなかったようだ。


 そのあとで、偶然に祖父典篤のメモを眺めていた時、同じ時期にSが現れた。もちろん丸で囲まれているわけではない。サワ、木下サワとある。金額が記してあった。それを妙だと思った。


 小説の謎解きのようなスリルに引き込まれて、戦後すぐの新病院再開時の看護婦名簿を探してみた。その名はそこにすぐに見つかったので、自分でも驚いた。単純な推測が当たったのだ。


 木下サワの欄の外枠に、彼女がすでに戦時中から看護婦として勤務していた由、付け足してある。昭和二十一年四月の名簿にはもう名前がない。父のメモと符合する。


 ただの好奇心ならもう放り出していただろう。息子への不安感に煽られると、今では誰一人知る人など残っていないことが、大事なものを逃したかのようで心がじりじりと燃えた。



  五


 梶野明美もそれなりの火宅にいる。大学生の息子寛一郎がまた家を空けるらしい。夫は海外勤務でインドネシアだ、全く当てにならない、もう長く帰ってこない。何をしてるか推測はつく。それはいい。金さえ回れば。


 息子はどこに行ったのか。いつものようにやがて戻ってくるとは思うものの、携帯は無反応のままだ。イライラして、スカイプをつけた。


「小夜子さぁん、お邪魔しまぁす」

 見るからに古い家具を背後に、田川小夜子が画面に現れた。先妻の家具だと明美は聞いている。小夜子がひどく憔悴して見えるので驚いた。結婚してからは少しふっくらしてきたと思っていたのだが。二人は同じ塾で教えていた同僚である。


「どうしたの、なんとかやりくりしてるようだったのに」

「それがね、聞いてよ」

という小夜子の声が荒れている。タバコをまた吸い始めたのだろう、それとも泣いたのだろうか。


「私、もう呆然としてしまって。怒ることも泣くこともできないのよ」

 あの苦境からいわば救い出してくれた田川だからと、小夜子は大抵のことは我慢するつもりだった。小さな齟齬は当然あったが、なんとか状況を操縦できるように思えた。


 ところがこの前から田川が上の空という様子だった。実はナ、この個人年金が七十五歳で終わりになるのを忘れとってん。それに民生委員も任期切れやん、委任料ものうなる。

「、、、それで?」

「あんたの夢の自費出版の二百万が消えてしもうたんや」


 そこに来たか、と頭蓋が破裂しそうになった。田川はしおしおとしているが、謝りはしない、なんとか頑張ろう、とも言わない。計算違いだった、それだけの気持ちらしい。すっかり小夜子の夢を握りつぶしていた。ただの夢だと思っていたのだ。


 私にはもう何もない、この世に残せるただ一つのものだったのに、私が全く無能なら諦めもつく、けど、私は実際いくつかこれまで賞をもらってきた、ただそれ以上のことを起こせなかった、そうするには、不運続きだっただけ!! 


 せめて一冊の本を、と私の全人生をそれに賭けていると、あんなに口を酸っぱくして何度もなんども念を押して、わかってくれたかと尋ねたでしょ!!! 


 それを、あ、忘れとった、できへん、で済ますつもり、私という人間をそこまで軽んじているあんたこそ最低の男や! 

 野良猫を拾ったんとちゃうよ! 


 胸の内で叫んだのに、言葉に出てこない。


「もうダメだわ、一緒になんかいられない。顔を見るだけで吐き気がするのよ。あのしれっとした顔。我慢する理由がない」

「でもさあ、生活があるでしょ。スッパリ別れるわけにいかないよ。路頭に迷うわけでしょう」

「そうよね、家事炊事はするわ。でもあとはボツ交渉よ。これまでのような茶飲み友達でもない、別の部屋で暮らす」


「もし、本当に我慢できんくなったら、うちに来たらば? 部屋は空いてるし寛一郎もいないも同然。一緒に暮らそうよ」

「本気?」

「本気本気、女同士で住んだら鬼に金棒よ」



    六


 季節は初夏である。

 長野県笛吹市の駅頭の足湯で観光客が楽しそうにしているのを横目に、小谷篤彦の長男小谷典亮はさっさと目的の旅館に入っていった。


 女主人が木下サワの従姉妹であるらしいのだ。

 彼女の実家の住所までは記録に見つけることができたのだ。総出で物置をひっくり返した。何かが分かるかどうか、可能性は低い。


 ついでなので、その素人っぽい民宿に泊まることにしていた。女主人はかなりの歳であるのに、料理も手伝っていると見えた。


 こういう者ですが、実は、と典亮が名刺を出してもろくに見えないらしかった。手伝いの女の子たちが読んで聞かせると、途端にまあ、と心を開いた。用事はまだ何も言わないのに。


 典亮はすっかり気を良くして、木下サワの名前を出した。サワちゃんという器量好しがいたと言う。確か看護婦になってよそで働いていたが、あとはどこだったっけ、京都のどこかで結婚して、確か子供二人とかだったけどねえ。


(そうか、やはり隠し子じゃないようだな)典亮は気落ちした。女主人は、どうしてサワのことを知りたいのかと、立派な身なりの彼を見上げた。


「いえいえ、サワさんによくお世話してもらったという患者さんがいましてね。是非にもと、今際の頼みなんですよ」

 そんなことで医者が出かけてくるはずもないのだが、彼女はむしろ気を良くした風で、

「市役所に行ってみましょうか、あたしだったら調べてみてくれるわよ」

と、意外に捌けた人柄になった。



 翌日には、もう話が通じたようだった。老女は、善は急げ、と言いながら彼の前を丈夫な足で歩いていく。仕方ないな、と思いながら朗報を待っているであろう家族の気持ちに押されて典亮はついて行った。


 こじんまりした住民課では、少々困りながらも老女の顔を立てたらしく、電話をいくつかかけてくれた。こうして木下サワの婚家が佐藤であり夫は克男であることまではわかった。

 サワが辞職して一年以上経った頃である。当時の住所は京都府綾部市であった。

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