希少率0、8%木原東子の思惑全集 巻6 生御霊語り 「小夜子の憂き世」「姥拾い」「耄にして碌」「去りてまた遭う」

@touten

第1章 「小夜子の憂き世」 前篇

    一


「母さん、もう嫌だよ、もうそちらに行きたい」

 賢くて美人で勝気な子だった。小夜子が通るとみんなが振り向いた。父親の仕事が傾きかけたとき、小夜子は京都大学に合格していた。しかし、大学などもってのほかとばかり入学手続きをしてくれなかったのだ。実父でなかったことがこんな結果を生んだ。しかもそのとき初めて、そのことを知ったのであった。


 それから半世紀を生きた。一年遅れで京都大学を卒業したのだが、恋をして中絶をする仕儀となり、裏切られて自殺を試みた。はっきりした意図はなく真っ白い頭のままで薬を口に運んだ。それから結婚と離婚を二度繰り返す羽目になったその今である。



 秀でた額の照りが失われ、いつも長く垂らしていた黒髪がほとんど白くなってからもう十年たった。大きな瞳の輝きはまだ失われていなかったはずだが、一人息子の智一家に無視されてしまった古希の誕生日のその日、手鏡の中に力のない視線を見たのだった。 

 才気ときかん気、魅力的な容姿振る舞いをもってすれば、貧しい母子家庭から出発したけれども、小夜子に成し遂げられないことは何もなかった。子供の才能教育の分野で目覚しい成果を上げ、塾やセミナーを組織して多分にもてはやされてもいた。


 それがいつから、どうして翳ってしまったのか、もう振り返る気が全くしなかった。やっと積み上がった積み木が崩れる、その瓦礫の上にまたも気丈に立ち上げたものが小夜子のせいでなく崩れる、それでもその上に踏ん張っていても、またもや小夜子の決定でないことが降りかかってきて心が潰れた。


 それまでの仕事を辞め、数年間の介護ののち母親を見送った時、小夜子には半額ほどの国民年金しか収入がなく、借金すら残っていた。


 その頃、初めて敬愛するに足る男に出会ったのに、彼は急逝してしまった。


 英才教育の成果のような自慢の一人息子、智を捕まえて離さない女がいたのを、つい結婚させてしまったのがその次の、そして痛烈な決定打となった。



 小夜子に言わせれば、嫁の里子は「人の心を解さない、機械のような反社会的パーソナリティ」であった。姑を姑とも思わぬ里子の態度に、失望し傷つけられるのは小夜子ばかりで、銀行家である、里子の実家との経済的な相違が一層小夜子を惨めな存在へと貶めてしまう。智といつの日か別れるとは夢にも思わなかったのに、同居は叶わぬ夢となった。

 それでも、彼が音楽の世界で次第に名を成すようになったのは、小夜子にとって意味あることであった。孫が次々と生まれると、小夜子は嫁の育児のいい加減さを見かねて長子の世話をせざるをえなかった。思いもかけずそれは喜びとなったのだが、反面、小夜子の心を痛ませ、縛るものともなったのである。


 それでもまだ、下には下があったのだ。智がのっぴきならない理由から高校教諭の職を辞したのだった。



 小夜子はもう考えたくなかった。すべて嫁の影響であって、智も心理的に被害を被っているはずだった。

 仲違いゆえに、仕方なく隣の家を借りて住んでいる母親に今や、生活費として七万円を渡すことができなくなって、それが一層彼を無残な気持ちにしているのであった。


 このような成り行きが嵩じて、その頃には関係がより険悪になり、孫と会うこともできなくなった小夜子は、自分がほとんど育て上げた孫の海斗を今更嫁に取られ、人を人とも思わないその影響下におかれるかと思うと、気が狂いそうだった。感情の限界まで来た、と思った。


 するとまだ辛いことが重なるのだ。大家が突然退去を強い始めた。認知症を発症したらしく、針のように細めた目つきで家の周りを徘徊するのであった。


 そして、小夜子は田川実という老人と人を介して知り合った。



    二


 他人の病を治す、という立場でしか自分を考えたことのなかった小谷篤志院長に、始めて難題が立ち現れた。息子で跡取りの篤彦が急性白血病に罹患したのだ。


 郡上八幡市では評判のいい中規模の内科外科病院だった。祖父の代からの医者一家であり、今は孫二人も眼科、整形外科として働き始めていた。七十五歳までには篤彦に院長を譲るつもりで、準備を整えていた矢先である。

 彼自身も罹患した息子も一人っ子であった。抜かりのあるはずもなく血縁全員から骨髄移植合致検査を行ったのだが、結果を見て絶望に襲われた。孫二人にはまだ子供はいない。あとは運良く適合する提供者が現れるのを待つしかない。



「隠し子でもいなかったのかなあ」

と、眼科医の上の孫、典亮がとんでもないことを言い始めた。

「私にはいないよ」と篤志院長は慌てて手を振った。彼は恐妻家であった。


「そういえば」

と、ソファにだるそうに座っていた病人の篤彦が言う。「母さんから聞いたことがあるけどね、ひい爺さんはかなり艶福家だったという話」

「艶福家、なんて今頃聞かないよなあ」

と、整形外科医の下の孫が笑った。


「前院長か、そんな噂が確かにあったよ。親父はちょっと男っぶりもよかったし」

と、篤志が父親小谷篤の写真を見上げながら言った。「だけど、子種をまくようなドジはしてないだろうよ」

「そうだよなあ、ならとっくに養育費を請求する女性が現れていただろ」


 息子の篤彦の表情を見測るように視線を移した父親の篤志は、「まあ、全力で事に当たろう、すべて試してみるんだ」と言った。

「うん、頑張らなきゃな、気持ちで負けたらダメだ」

 篤彦が唇を引き締めるようにつぶやいた。


   

    三


 小夜子は三度目の結婚に迫られていた。インターネット内の知人の知人として紹介された。写真では温和な害のなさそうな笑顔の老人で、京都府の郡部で町内の民生員をしているという。それが似合いそうなタイプに見えた。妻は数年前に病死、経済的な窮地にある薄幸の佳人である小夜子に、たちまち老後の夢を描き始めたと見える。彼が並べて見せた条件は、小夜子の必要に十分間に合うように見えた。

 一応大学を出て、電気設備関係の会社を退職後も、時にその関係の仕事が入り、また町内の役や世話による収入もあり、築三十年の家がある。すでに独立して関東に暮らす二人の子は、父親の世話をしてくれるなら家屋敷の相続は放棄するという。


 小夜子の借金を払い、引越しの費用を出し、面倒な大家との話し合いも彼独特の粘り強い話術を駆使して片付けた。小夜子の古くなったパソコンを買い換えてくれた。ちなみにそこにはたくさんの小説が書き貯められていた。極め付けのように、ラブレターまで書き送ってきたのであったが、小夜子は少したじろいだ。


 小夜子の出した条件は、いわゆる「茶飲み友達」として結婚するということが一点。


 しかし何よりも重要なのは、自費出版であれ、自選ベスト短編集を世に問う、という小夜子の夢を実現できるかどうか、ということであった。彼女はその夢がいかに自分にとって大切であるかを、会うたびに田川実に話した。彼の反応は、そんな小説家の夢を叶えるなんて願っても無いことだ、誇らしいよ、というこれまた迎合的なものであった。


 小夜子が確信が持てないでいると、通帳を見せて、年金がこうだから、ここにこれだけ貯まるはずである、と説明するのだった。

「あまりにうまくできすぎて無い? そこまで全て合わせてくれるのが、天の助けというか、胡散臭いというか」


 友人からそんな一言も聞いたが、ともかく住む家がなくなっていることもあって、渡りに船と、乗っていくより他はないように見えた。田川の言葉を疑う理由がなかった。それほどに小夜子は、念には念を入れ、理を尽くし、自分の夢の重要性を説明したのだ。それを彼は請け負った。


 息子の智は、実の気持ちはどうであったかともかくすぐに賛成した。夫婦して明らかに小夜子への対応が軟化した。別れ際に、戻ってきてもらっても困るから、頑張って、というような言い回しを聞いたような気がした。

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