第36話 大事を失くし、大事を想う 

 お絹は、おみねの身の回りを片付け、おみねを美濃吉の元へ連れて行った。用意された籠に乗せられ、ある屋敷におみねは、連れて行かれた。忠兵衛を失くした喪失感から放心状態のおみねは、言うがままに付き人によって、身支度をさせられた。身支度を整えたおみねは、再び、籠に乗せらた。連れて行かれたのは、大きなお寺の前だった。そこは、越後忠兵衛の葬儀会場だった。

 忠兵衛からおみねのことを託された美濃吉は、卒なくおみねを商家の娘に仕立て上げた。おみねは、美濃吉から葬儀の作法、慰霊の前で泣き崩れない、言葉を発しないなどの注意を受けた。滞りなく、忠兵衛を見送ったおみねは、再び籠に乗せられた。

 着いた場所は、洋館のような建物だった。そこは、忠兵衛がかつて明智光秀を拉致して、天海として生きる覚悟をさせた場所だった。

 異国の建物を真似て作らせた別宅の一室に美濃吉は、おみねを招き入れた。そこには、全身が写せる姿見が用意されていた。 


 「旦那様からおみねさんに、これをお渡しするように、頼まれています」


と、美濃吉はおみねに鍵を手渡した。


 「それでは、しばらく、ここでお休みください。半時ほど経った頃、お迎えに参ります。もし、何かあれば、戸の外にお絹を控えさせておきますので。では、私はここで失礼致します」


 おみねは、手渡された鍵をしみじみと眺めた。おみねにとって、この鍵を手にするのは初めてだった。器具の不具合や、衛生上、病いの時など外す場合は、すべて、お絹が行っていたからだ。おみねは、姿見の前に立ち、着物の裾を左右に開き、その両端を帯に挟み、裾を固定させた。下半身だけ、生まれたままの姿に。違うのは、長年苦楽を共にしていた、貞操帯だけだった。おみねは、感慨深く、鍵を鍵穴に挿し、回した。ガチャという音と共に貞操帯は、外れた。姿見には、本来の下半身がありのまま写されていた。その時、文に書かれていた言葉が、忠兵衛の声で聞こえた。 


 「おみね、長年に渡り、嫌な思いをさせた。許せよ。さぁ、これで、名実ともに自由だ。今まで守り続けた貞操を、そなたの思う者に捧げるが良い。それが、せめてもの私の贖罪とさせてくれ。そなたが思う者がいれば、美濃吉に頼べばいい。力を貸してくれる。幸いにも、店の者は全国津津浦浦にいるのでな、役にたつと思うぞ」


 おみねは涙ながらに、考えた。考えた末に、強烈な記憶が蘇った。 


 「あぁぁぁぁ」


 おみねは、憑き物がとれたように、泣き崩れた。おみねの脳裏に浮かび上がった名前。それは、決して、忘れてはいけない男の名前だった。


 「あぁ、龍之進様…」 


 おみねは、両膝を内側に畳むように、その場に泣き崩れた。場面が歪み、法師の声が聞こえた。 

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