第35話 聞きとうない、虫の知らせ

 「それで、忠兵衛様、今日の要件は何でおます」

 「ほう、わかるか」 

 「分かり申すとも。忠兵衛様の言う通り、人を観察して、学んだであ・り・ん・す」

 「そうか、そうか」


 忠兵衛は、成長したおみねを見て、心底喜ばしかった。 

 

 「それは、他でもない。例の決まりごとの件じゃ」

 「決め事、はて、何でありましたかいなぁ?」

 「貞操帯じゃよ」 

 「それが、どうしたで、ありんす」


 おみねからすれば、当初さえ違和感だらけの異物も、長きに渡れば、怪我をした際の包帯のような物だった。


 「おみねの成長を見て、もう良いのでは、と思ってな」


 おみね太夫は、おみねに戻った。


 「何言ってるがね、商売道具を外せと。外せば、おみね太夫が、ただのおみねになるがね。何、気弱なこと言ってるのだね」

 「しかし、私の我がままで…、そなたの女の幸せをもうこれ以上は…奪えん、そう、思ってな」 

 「そんなことはなかとよ。これに、どれだけ、おらぁは救われたか。いまは、お侍の刀と同じとよ。おらぁ、外さんとよ」

 「おみね」

 「感謝することはあれ、恨んだことなどないけん。嵌めるのもおらぁが納得して決めたこと。おらぁ、頑固やけそれは、受けられんとよ」  

 「おみね」

 「おらぁ、決めてんだぁ。忠兵衛さんの目が黒い内は、外さねぇと。これを外すと忠兵衛さんが…忠兵衛さんが…」


 おみねにとって忠兵衛は、遠く離れて、会うのも難しい親同然になっていた。その忠兵衛の急な申し出に並々ならぬものを予感して、目頭が熱くなっていた。


 「分かった、分かった。では、こうしよう。もし、私に何かあったときのために最も信頼する番頭に託しておこう、この鍵をおみねに渡すようにと」

 「縁起でもねぇ。そんな弱気な忠兵衛さんは、嫌いじゃ」 

 「分かった、分かった、もう、泣くな。化粧が崩れるではないか」


 忠兵衛は、おみねの決心に、女ではあるが男気を感じた。改めて、あの時、ひと目見て決めた、人生最後の道楽が間違っていなかったことを確信した。

 

 それから、二年が経ったある日のことだった。おみねは、花魁支度前のすっぴんのまま、佐吉に呼ばれて部屋に入った。


 「何でありんす、話って」


と、声を掛けると同時に、狡猾な佐吉が泣いているのが、目に入った。おみねは直感で何があったのか悟った。

 

 「おみね、おみね、忠兵衛さんが…」 


 現実を前にして、おみねはその場に泣き崩れた。そんなおみねに佐吉は、忠兵衛からの文を渡した。そこには、侘びや感謝やおみねへの思いが綴られていた。文(ふみ)の墨文字は、おみねの涙で滲んで、読めなくなるほどになっていた。佐吉は、泣き崩れるおみねの前に正座し、一枚の覚書を広げて見せた。


 「おみね…長い間、お疲れ様であった。いまを持って、そなたを年季奉公明けとする」


と、言うと佐吉は、覚書を真っ二つに切り裂いた。


 「おみね、これでお前は自由だ。少し遅いが、外の世界で女の幸せを掴んでおくれ」 

 「佐吉どん」

 「楽しかったぞ、お前と忠兵衛様に出会えて、本当にな」 

 「…」

 「さぁ、もう、お前は廓の女じゃねぇ。さっさと出て行きなされ。早う早う」 


 佐吉は、涙を拭きながら、おみねを追いやった。 


 「早う行け。表に忠兵衛様の使いの番頭の美濃吉さんが、待っている。あとは、美濃吉さんにすべて任せてあるらしいから、早う、行け」

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