第17話 風が吹いている。心の隙間を埋めるように。
闇夜は、何事もなかったように静寂に支配されいた。
龍之進は、幾度も躓き、倒れながらも、必死で走り続けていた。
走って、走って、走り続けた。このまま息絶えてもいい、そう思いながら、喉を空して無心で走り続けた。次第に意識が遠のくの感じつつ。
腰骨から何かが天に向かって抜けていくように、すーと体が軽くなり…龍之進は、腰から砕けるようにその場に倒れ込んだ。
瞼に白い光が滲んだ。鳥の囀りが聞こえる。現世か涅槃か、分からなかった。
日差しが眩しい。生きていた、肉体は…。
どこをどう走ったのか、見渡す限り、木々に覆われていた。川面に顔が映る。何十歳も老けた顔に見えた。どれほど時が経ったのだろうか?
懐の違和感に手をやった。簪に当たった。あったはずの木箱はなかった。
胸を引き裂く出来事が、悪夢として蘇ってきた。やりきれない。
落胆よりも自虐的な思いに身を焦がしていた。
簪が憎かった。
騙した者への思いか、騙された己への愚かさを嘆いてか…。
何かに当たらずにはいられなかった。
当たったところで何も解決しないことは、百も承知の上。それでも、心中のもやもやを晴らさないでいられなかった。
日差しを遮る鉛色の雲のようにおみねと佐吉の笑い声が耳から離れないでいた。
「ばかやろー」
振り絞った力で簪を川に投げ捨てた。
何の悪戯か、その時に限って、さぁっと日差しが差した。くるくる舞いながら遠ざかる簪の飾り金具が、キラッと光った。その光でさへ憎く思えた。
まるで、「ざまぁみろ、身の程知らずの世間知らず」と小馬鹿にされたように。
いや、正しくは、自問自答のつぶやきだったのだろうことは、分かっていた。でも、認めたくなかった。認めれば、自分自身を本当に見失う気がした。
「まだ、生きろってことか」
龍之進は、排他的な笑が浮かぶのを抑えきれなかった。おみねへの恨みというより、自分の愚かさ、浅はかさに打ち敷かれていた。龍之進は、他人を恨むのでなく、騙された自分の愚かさを恥じる男だった。
川辺に仰向けになり、大空を呆然と見ていた。生きる術?いや価値が消え去るのを唯唯、待っていた。
真っ青な空を背景に、白い雲が徐々に形を変えて行く。
ゆっくりと、ゆっくりと。
雲は、何を目的に、何を生きがいに形を変えるのか。
いや、なぜ、形を変えるのだ。
変えたくて変えているのか変えさせられているのか。
何処に向かって突き進もとしているのか。
ときには早く、ときには留まるように。
風が吹いている。
胸元を旋回するように吹き抜けていく。
あの天にも風が、吹いているのか。さすれば、あの雲の形を変えるのは、進めるのは、いま頬を撫でている風と同じなのか。
脈絡も何もない、禅問答のような発想が頭の中に渦巻いて離れなかった。
川で顔を洗った。
粘り気のある得体の知れない感触が、指に纏わりついていた。
洗っても、洗っても、それは取れないでいた。洗う気力が失せた。
懐から包がふたつ、落ちた。
ひとつは、旅費の五両。ひとつは通行手形だった。
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