第8話 悪い奴ほど、よくしゃべる。
物陰から、ふたりの密会を覗き見する男がいた。
おみねの居る廓の主人、佐吉だった。
佐吉は、女を金儲けの道具としか考えない、札付きのならず者だった。
ある日、龍之進は、書籍買い付けのお役目を仰せ付かり、上方へ出向くことになった。断りたかったが、お役目とあれば仕方がない。重い気持ちでおみねに会った。
「おみね、今日はあらたまって話がある」
「なんだ?そんな浮かねぇ顔ばして」
「実はお役目で上方に行かねばならないのだ」
「嫌だ…。でも、仕方ねぇだな。いつ帰ってくるだね」
「一ヶ月程先になると思う」
「そんなに…寂しくなるだな」
「ああ、寂しい。出来るだけ早く帰ってくるよ、待っててくれ」
「早く、帰ってくるだ、寂しいけん」
そんな会話を盗み聞きしていた佐吉は、妙案が思いつき、にやっと笑った。
龍之進が、上方に向かって三日程した頃、おみねは、佐吉に呼ばれた。
「おみね、お前も年頃だ、そろそろ店に上がるか。人気者になって、さっさと借金を返し、自由になれ」
「…」
おみねの覚悟は、出来ていた。
ねぇさんたちの世話をするうちに、自分が何をするのかは理解していた。
しかし、いまは龍之進が、心の中にいる。
身分の違いも分かっている。叶わぬ恋だとも理解していた。
涙が、止めどなく溢れできた。
おみねは、自分の置かれた境遇を妬ましく思った。
「そんなに嫌か」
「そうじゃねぇ…」
「好いた男でもいるのか」
佐吉は、わざとらしく、かまをかけた。
「…」
おみねは、ふいをつかれ、戸惑いを隠せないでいた。
「知ってるぞ、時折、若い侍と会っているのをな」
おみねは、驚いて言葉を失った。
叱られる、殴られる…恐怖で体の震えが止まらなかった。
おみねは、離れの蔵の納戸で寝起きしていた。
時に不手際を犯したねぇさんが折檻を受け、その苦痛の呻き声で眠れないでいた夜のことを思い出していた。それを察して佐吉は、にやっと笑い
「いいさ、年頃だからな」
思いがけない優しい口調におみねは、恐怖と安堵の狭間で、あまりの緊張感で意識が朦朧としていた。佐吉は、おみねを優しく抱き寄せ、頭を撫ぜた。
「おみね、可哀想だが、それは叶わないことだよ。お前はお女郎さんになる宿命なんだ。諦めるこった」
おみねは、聞きたくない現実を突きつけられ、体中の生気が抜けていくのを感じていた。もはや、おみねに正しい判断などする気力など、微塵もなかった。
女を誑かす悪知恵ならお手の物の佐吉は、如何におみねが騙されているか、裏切られた女の過去の話を交え、優しく優しく、諭した。
おみねの体の中に、どす黒い血が、行き渡る。
妬み、辛み、怒り、復讐心などの悪意が、骨の髄まで浸透していくのを感じていた。己の全てが、何かの強い力によって支配していく。蝉が幼虫から皮を剥いで成虫になるように悪女と羽化するおみね。
鉛色した雲は、心も覆い尽くす。その雲はやがて左右に引き裂かれ、
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます