第7話 災い転じて、花が咲く。

 本を読むも、ほかのことを考えようとしても、無駄な抵抗だった。

 空が、白白と目を覚ます。

 何と皮肉なことか、勤めに出る頃には、龍之進に睡魔が牙を剥く。

 お陰で、勤務中、居眠りをして、叱られる始末。

 周りの者には、おなごか、おなごか。生真面目にも春が来たか、

と冷やかされる嵌めに。

 何も言わずとも、色気づいた雰囲気を醸し出していたのにちがいない。

 恥ずかしくなり、その場を立ち去った。

 帰宅時に、娘に会いに行くも、会えず仕舞いの日が四・五日続いた。

 会えない時間が、恋を育てると聞いた。

 龍之進には、娘に忘れられる恐ろしさの方が気掛かりだった。

 今日、会えなかったら、諦めよう、そう思うと足取りは重かった。


 その路地を曲がれば…


 「あんた、何てことすんだよ」


 という罵声が飛び込んできた。

 恐る恐る覗き見すると、おみねが首筋にお粉を塗った女に叱られていた。

 おみねの傍には洗濯された襦袢が、竿から外れ、地面に落ちていた。

 運悪く、夕立の後で地面が濡れており、洗濯の努力が水の泡と消え去っていた。

 おみねは、ひたすら謝っていた。

 それでも、女の罵倒は収まらず、唯々、耐えているように思えた。

 女は女将に呼ばれ、捨て台詞を残し、その場を立ち去った。


 「やれやれ」と龍之進の耳に風が囁いてきた。

 おみねが叱られるのは、珍しくないことの様に思えた。


 おみねは、膝を抱えて小さく蹲り、泣いていた。


 「おみねさん」 


 龍之進は、思わず声を掛けてしまった。自分でも驚きの行動だった。


 「おまんはあん時の…」

 「あの時は、ありがとう」

 「…なぜ、おらの名を」

 「あの時、男がそう呼んでいたから」

 「あっ。でも、どうしてそこにいんしゃっと」

 「おみねに、ちゃんと礼がしたくて…」

 「そげんなこと、よかよ」


 理由など何でもよかった、話せれれば。

 そういう意味では、おみねの失態は、龍之進にとって好都合だった。

 龍之進とおみねは、双方簡略的な自己紹介をした後、たわいな会話を弾ませた。

 話せば、話すほど、打ち解けて、距離感は急速に縮まっていった。


 おみねは、別世界で生きている。

 ほんの短い時間だったが、お互いを認識し合うのには充分だった。

 おみねには自由にならない時間が多い。

 それをわかった上で、定刻を決め、会う約束を交わした。

 龍之進もおみねも、同年代の異性と話す機会に恵まれていなかった。

 そんなふたりにとって、この出会いは、喜ばしい出来事となっていた。


 また、おみねに会える、会えるんだ。


 龍之進は、毎日のように、幼い密会を期待し、出向いた。

 毎回とは行かないまでも、できる限り会っていた。

 本来なら、ふみを託し、その返事を貰う。

 出会った証を残したかったがおみねは、読み書きができなかったので、諦めるしかなかった。

 おみねが欲しいという物は、できる限り与えた。

と、いっても物として残せば、どこでばれるか危うい。そこで、饅頭や菓子など、胃袋に隠蔽できるものが重宝した。

 時には、持参した手土産をふたりで食べたりもした。

 隔離された世界と自由な世界。

 垣根越しの変則的な密会。

 ばれるか、ばれないかの危険な関係は、男女の恋に発展するのには、好都合な条件だった。そんな関係が一ヶ月、二ヶ月と続いた頃、のちにおぞましい展開が待っていようとは、龍之進もおみねも知る由もなかった。

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