第6話 この世の花の蕾に出会いけり

 耐え難き寒さは、目に凍み、息は白き綿となる。切り付ける痛さは、孤独な心を容赦なく蝕んでいく。

 除夜の鐘をひとつひとつ数え、新たな年を迎え、目に青葉、桜咲く季節へ。これでいいのかと思うほど、龍之進は、安易に時を過ごしていた。


 生真面目さだけが、龍之進の存在を誇示している。

 桜の季節は、一夜ごとに町を華やいで魅せた。

 小さな裏庭にも申し訳ないほどの春が、腰を休め始めた。

 

 龍之進は、判を押したように縁側で本を読んでいた。


 にゃーにゃーと何かを訴えながら迷い猫が入ってきた。

 目が合うと、だるまさんが転んだ状態に。

 目線を外さないでいると、しばらくして、にゃっと一声揚げ去っていった。

 その時、「暇か、ばーか」と言われたような敗北感に押し潰されそうになった。


 「このままじゃ、だめだ。何か目的を持とう」


 大きくなくていい、その日、暮らすのに十分なものでいい。

 そう思いたったのはいいが、何から手をつければいいか見当もつかない。

 平凡な過去を辿り、思いついたのが、あの寄り道探索だった。

 再開してみたはいいが、二度目とあって、好奇心に火がつかない。

 ただただ、歩き疲れる毎日だった。


 ある日、あの時の若者たちが、あの時のように、まるで蘇ったような光景に出くわしたのです。そうだ、あの娘は、どうしているのだろう?

 そう思った瞬間、龍之進の足は、あの裏木戸の垣根へと急ぎ向かっていたのです。

 早く着け、早く着け。

 待ち遠しい、早く着け。

 不思議な期待感が、一足ごとに膨らんでいった。

 はぁはぁはぁはぁ。


 「誰?誰ね?」


 声の主は、あの娘だった。


 「あ・ああ・あの・怪しい者では…」

 「十分怪しいかよ」

 「あ・いや・その、ちょっと…」

 「ちょっと何ね」

 「急いでいたのはいいが、走り慣れていなくて、このざま…済まないが水を一杯頂けないか」

 「悪人じゃなか、とね…ちょっと、まっとりなし」

 「済まない」

 「欠けとるけん、気いつけや」 


 娘が、垣根越しに茶碗を差し出してきた。古びた茶碗は、飲み口が欠けていた。

 一気に飲み干した龍之進。


 「うまい」 


 その反応に娘は、無邪気に笑った。

 龍之進は、何かに束縛されていた心が解放された爽快感を得ていた。


 「おみね、おみね、誰か居るのかい」

 「旦那様じゃ。見つかったら怖いとよ。はよ、いきんしゃい」

 「わかった、ありがとう」


 後ろ髪を惹かれるとはこのような思いなのか。

 ほんの短い時が、これほどに愛おしく思えたのは初めてだった。

 どう、道を辿って帰ったかは殆ど覚えていなかった。

 布団に入り、目を閉じれば、あの娘の笑顔が浮かんでくる。

 眠れない。

 早く、早く、陽よ、昇れ。

 一刻も早く会いたい…・会いたい、会いたい。

 何度も寝返りを打つ。

 庭に出て、滅多に振らない木刀を振ってみる。

 目が冴える。

 ああ、何てもどかしい、陽はどこにいる。

 叩き起して連れてきたい。

 本を読むも、ほかのことを考えようとしても、無駄な抵抗だった。

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